本年も余すところ1月になりました。
年の締めくくりに充実した議論をどうぞ。
元の発言 [ Re: Titleわが国最古、奈良・箸墓古墳周濠跡から木製馬具出土 ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 12月2日(日)05時58分29秒 ]
牛頭天王さん>> 底 のほうから出たと言う訳で勝山の木片とは違って築造から年代を経ずに投棄された、または流入したと考えていいと思います。
岡野熊鰐さん>>布留1だそうだから古墳の年代には影響ないんじゃないですか。
どっちが正解か、難しい。(^_^;)
元の発言 [ Re: 冬夏生菜を食す(Re: 神功摂政前紀) ] お名前 [ ちょっと一服 ] 日付 [ 12月7日(金)00時05分57秒 ]
何か話を戻すようで恐縮なんですが、
「倭地は温暖、冬夏生菜を食す」は
「温暖だから冬でも夏でも生菜を食べている」の
ニュアンスのように感じるんですが・・・。
裏返すと
「倭地が寒冷だったら、冬夏通じて生菜は食べられない」
となり、魚貝類とか獣肉類、加工乳製品みたいなものを
生菜の一部と考えると、冬でも食べられそうだし、
やはり野菜類を指すのではないかと思われるのです。
元の発言 [ Re: 冬夏生菜を食す(Re: 神功摂政前紀) ] お名前 [ 豊玉 ] 日付 [ 12月7日(金)02時42分25秒 ]
>> 何か話を戻すようで恐縮なんですが、
>> 「倭地は温暖、冬夏生菜を食す」は
>> 「温暖だから冬でも夏でも生菜を食べている」の
>> ニュアンスのように感じるんですが・・・。
>> 裏返すと
>> 「倭地が寒冷だったら、冬夏通じて生菜は食べられない」
>> となり、魚貝類とか獣肉類、加工乳製品みたいなものを
>> 生菜の一部と考えると、冬でも食べられそうだし、
>> やはり野菜類を指すのではないかと思われるのです。
なるほど、確かに魚を除いて肉類の場合、旬と呼べるのは確かに冬の方が、ふさわしいですね。
とすると、食べられていた野菜ですが、これがちとわからなくなる。
現在、考えてみると冬はどのような野菜を生で食べているだろう。ちょっと思いつかない。
やっぱり、冬は鍋てのが、いけない完全に脱線した。
あと、当時は、寒冷期では無かったでしょうか。
トなると益々、難しいですね。
当時から有り、冬でも取れて、生食できるもの、
現在では、別方法で食べられているとしても、何があるだろう。
元の発言 [ Re: 「邪馬壹国」は、“ヤマト”とは読めない ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 12月6日(木)21時28分18秒 ]
>>
古田氏は、魏徴が後漢書によって改定したと、一言で片づけていますね。
魏徴が勝手に史書(の内容)を改竄したら、史官としての首がいくつ有っても足りゃーしない。
元の発言 [ Re: Title:弥生後期の「伊勢遺跡」から大型高床式建物が出土 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 12月7日(金)12時39分30秒 ]
>>
>>
>>
あと安本美典氏の天の安の川の候補地。
岩倉の大岩山もある。
元の発言 [ Re: 「邪馬壹国」は、“ヤマト”とは読めない ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 12月7日(金)12時34分06秒 ]
>>
>>
>>
>>
>>
な〜んだ。九州王朝のことだったんですか。
このスレッドで「隋書は?」っていうから、「?」はてっきり「有阿蘇山」の「都於邪靡堆」のことかと早とちりしてしまいました。
>>
その通り。
あれを「大和の政権」とすれば、隋書では、「邪馬台国」が、後の、「大和政権」のベースであるという認識をしていることになるんです。
元の発言 [ Re: Titleわが国最古、奈良・箸墓古墳周濠跡から木製馬具出土 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 12月6日(木)21時20分44秒 ]
>> 近代の家屋の濡れ縁に船形木棺の木材が使われてた例もあるし。
>>
>>
土石流で埋まってたら「弥生中期の大王居館発見!祭祀用のテラスを確認!」てことに。(^。^)
元の発言 [ Re: Titleわが国最古、奈良・箸墓古墳周濠跡から木製馬具出土 ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 12月2日(日)18時12分02秒 ]
>> 邪馬台国には馬がいなかったと倭人伝に書いてありますね。
>> 前のスレにも書きましたが、今回は周濠の底のほうから出たと言う訳で勝山の木片とは違って築造から年代を経ずに投棄された、
>> または流入したと考えていいと思います。
同時に出土した土器は布留1で、箸墓の成立とされている布留0よりあとですね。
普通に考えれば。
>> 鐙は西晋の発明ですから265年以降になる訳で、現実には馬を持たない日本に発明後直ちに入ってくる事は無いと考えられ、
>> 300年以降のものと考えるのが妥当かと。
鐙が西晋の発明というのは、単に現在確認されている最古の鐙が、4世紀の西晋時代のものだからで、それ以外の根拠はありません。
蹄鉄はヨーロッパが早く紀元前ですが、鐙は東の方が早いようだという程度です。
西晋時代の鐙は左側だけで、騎乗時の用に足すものではなく、乗るときの足掛けの意味と考えられています。
また紀元前のインドや雲南省でも別種の鐙状の革製品が合ったようです。
西晋の物も南の方が多いですし、農耕民が馬に乗るための補助具という仮説もあります。
遊牧民は遅くまで鐙は使わなかったようです。
馬具の発展については、今後の研究が待たれるところで、あまり現時点で年代観を立てる道具立てには不向きでしょう。
>> 倭人伝は晋の時代に書かれている訳で倭人伝が書かれた280〜285年にもまだ馬はいなかったのではないでしょうか。
これが本当に鐙なのかどうかを含めて少々様子を見たいところですが、
馬については本当にいなかったのか。
弥生遺跡から確実な馬骨は見つかっていないようですが、倭人伝にいないとされている牛骨は壱岐の弥生遺跡などからも見つかっており、このあたりの記述は謎です。
馬は少なくとも大量に飼育されていなかったことは確実でしょうが、西晋のやり方をまねて、試しに乗ってみるくらいはいたかもしれない。
イリヒコさんのページには野生馬はいたと書いてあるが、根拠はわかりません。
元の発言 [ Re: 土器の不思議 ] お名前 [ 馬頭鬼 ] 日付 [ 12月5日(水)22時43分48秒 ]
>> どうもありがとうございます。
>> では、当時は職人達の使いやすい土を何処からか、
>> まとめて採取していた可能性も有ると想像しても良いでしょう。
と同時に、夜須町の丹塗り土器や須玖式甕棺はブランド品だったと思っています。
春日丘陵は水田には向かないので、換金(米)生産物として甕棺や青銅器の生産が発達した
>> すると交易も、思っているより結構発達していたと考えるべきか?
はい、奴国(春日)産と確認されているものとしては、甘木から甕棺、糟谷から筒型銅製品が出てます。
韓国や出雲などの銅矛も可能性のあるものが多いようです。
元の発言 [ Re: Titleわが国最古、奈良・箸墓古墳周濠跡から木製馬具出土 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 12月6日(木)21時19分24秒 ]
>> おにりんさんはどっかで1996年以前の説は否定していたですネ。(^。^)
>>
>>
>>
「犬山氏の論文」は考古学的な内容を含んではいなかったんですか。
失礼しました。m(__)m
私も、「狗奴国と戦っていたのに云々」と言ったことはありません。
私が言ってるのは、
卑弥呼共立直前まで「其國本亦以男子爲王、住七八十年、倭國亂、相攻伐歴年」で、
卑弥呼没後「國中不服、更相誅殺、當時殺千餘人」と書いてある、
そのような状態の中で「前方後円墳」のような大土木工事が出来ますかということです。
事実だったかどうかは別としても、「どこにも」「一言も」「書いてない」と言うのは言過ぎでしょうと申し上げております。
知らないで、或いは勘違いで言うのを「間違い」
わざと違うことを言うのを「嘘」と言いますです。
おにりんさんが知らないはずはないから、わざとでしょう。(^。^) こりゃまた失礼。m(__)m
元の発言 [ Re: Titleわが国最古、奈良・箸墓古墳周濠跡から木製馬具出土 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 12月6日(木)21時31分26秒 ]
>> > 魏志倭人伝のどこを読んでも、そんなことは一言も書いてない。
>> #との自分のレスを棚に上げてのレスに答える必要はないと思ったけど、
>>
ちょっと待って!
>>
今の言葉、プレイバック、プレイバック。
「と“書いてある”」じゃないですか。
事実かどうかは分からないけど、 畿内説には都合が悪いってだけで、嘘だった証拠もない。
畿内説だと狗奴国自体が存在しないことになっちゃうのネ。
元の発言 [ Re: Titleわが国最古、奈良・箸墓古墳周濠跡から木製馬具出土 ] お名前 [ オヤジッチ ] 日付 [ 12月7日(金)23時12分26秒 ]
そういうことで、バイナラ。
元の発言 [ Re: 神功摂政前紀(Re: 岡田説を裏書きか) ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 12月7日(金)01時36分28秒 ]
みたいですが,
年輪年代と絡め,
布留式全般の基準の置き方についてのナニでしょうか。
さて,
難しいことを含めて考えると,
土器の編年とか,
紀の記事について,
詳細な検討が必要になりますよね。
とはいえ,摂政前紀の記事は,
4世紀初頭〜前半にあったこととして,
目星をつけてもよい,という一人納得の感触。
記の大国主命の乗馬記事には「鞍」「鐙」が出てくる。
葦原中国の御大尽は早くから中国系の馬具を使っていた,
という主張でもあったものか?
以上から,西晋なら西晋の系統の馬具が,
間を置かずに入ってきた,
とも考えられるんじゃないか,とか。
そんで,土器の編年については,
専門家も火花を散らしているようなので,
なんです。
元の発言 [ Re: 冬夏生菜を食す(Re: 神功摂政前紀) ] お名前 [ 豊玉 ] 日付 [ 12月7日(金)02時42分25秒 ]
はい,確かに,文脈からは,
冬でも手近に食糧がある,
ってことでしょうね。
# 夏も過酷でない意を含むか?
そんで,その食糧とは,
いわゆる「生鮮食品」の意じゃないか,と。
元の発言 [ Re: Title:弥生後期の「伊勢遺跡」から大型高床式建物が出土 ] お名前 [ ピクポポデミ ] 日付 [ 12月6日(木)22時17分42秒 ]
>> 伊勢という地名は見つからなかった。
>> 伊勢落というのが有ったが。
>> 伊勢なんぞ何処にでもあるといえばある。
時代は少し下るでしょうが,
豊鍬入姫命の次の代の倭姫命の巡幸(垂仁紀25年)では,
菟田の筱幡→近江国→美濃→伊勢の順。
『倭姫命世記』では,もう少し詳しいとか。
次のサイトに,ちょうど分かりやすい図があり,
改めて,びっくりした次第。
守山に近いのは阿閇拓殖の宮かな。
ご鎮座2000年/倭姫命巡幸路地図
http://www.infocreate.co.jp/hometown/ise/jingu/jgbim3.html
造り替えで知られる唯一神明造は,
伊勢神宮と籠神社(京都府宮津市)だけだそうで,
籠神社のほうが原型らしいです。
次のホームページは真井御前のと同じです。
籠神社
http://www.dance.ne.jp/~h2/special-1/motoise/konojinjya.htm
元の発言 [ Re: 冬夏生菜を食す(Re: 神功摂政前紀) ] お名前 [ ちょっと一服 ] 日付 [ 12月8日(土)00時15分18秒 ]
>> はい,確かに,文脈からは,
>> 冬でも手近に食糧がある,
>> ってことでしょうね。
>> # 夏も過酷でない意を含むか?
>> そんで,その食糧とは,
>> いわゆる「生鮮食品」の意じゃないか,と。
如何もすいません。
温暖かどうかは、この報告を書いた使者の火との間隔ですよね。
前に、使者か、聞いた言葉は、其の人の出身育った場所で違うなんて書いておいて不覚でした。
魏の都辺りで育った人と長安辺りで育った人には、明確な差が出てしかるべきですね。
またこの当時、魏に使えた人には色々なところの出身者が居たわけですし、
だとすると、編集者がどの位、其れを考慮したかも、
其れによっても大きく変わりますね。
元の発言 [ Re: Titleわが国最古、奈良・箸墓古墳周濠跡から木製馬具出土 ] お名前 [ オヤジッチ ] 日付 [ 12月2日(日)21時12分02秒 ]
>> 牛頭天王さん>> 底 のほうから出たと言う訳で勝山の木片とは違って築造から年代を経ずに投棄された、または流入したと考えていいと思います。
>> 岡野熊鰐さん>>布留1だそうだから古墳の年代には影響ないんじゃないですか。
>> どっちが正解か、難しい。(^_^;)
周濠のことなのではっきりしませんが、普通古い物と新しい物が同じところから出れば新しい時代が正しい年代ですよね。
古い物は伝世して新しい墓に埋まる可能性がありますが新しい物が古い墓に入る事は捏造でもしない限り無い訳ですから。
ですから箸墓は布留1の時代に築造されたと考えるのが正しいと思います。
元の発言 [ Re: Titleわが国最古、奈良・箸墓古墳周濠跡から木製馬具出土 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 12月8日(土)02時24分29秒 ]
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
おにりんさんの答えで気がついたんですけど。
もし、出兵命令が来たとしても、倭国にどれだけのことが出来たのか?
倭国までが、兵を出したと言う政治的シンボルでしかないと言えます。
そして、騎兵と向き合った事の無いような、倭国の兵は、かえって足手まといではないでしょうか?
流鏑馬を見たことが有るので感じますけど、あれは、文句なしに怖い。
そんな兵の出兵を命づるとしたら、政治的な宣伝の意味合いだけで、あと戦場には出さないと思う。
戦である以上負けては、元も子もないですから、
だとするなら、倭国も其の事は、十分以上に知っているはず。
面白いとは、思いますが、ちと弱いと思います。
其れとも、袖の下でも弾んで、騎馬隊なんかの存在を隠したとか。
これも弱すぎる。
魏だって、騎馬隊と向き合うどころか見た事も無いような兵を出すように命ずるか、疑問ですね?
宣伝のためでしょうかね?やはり。
元の発言 [ Re: 歩兵と騎兵 ] お名前 [ 馬頭鬼 ] 日付 [ 12月8日(土)20時20分29秒 ]
>> そして、騎兵と向き合った事の無いような、倭国の兵は、かえって足手まといではないでしょうか?
戦う相手がやっぱり騎兵のいない韓の兵士だから問題ないんでは?
あと5時間ほどで、NHK特集『日本人はるかな旅』第五集が放映される。
テーマは「縄文人と渡来人」。
NHKのHPには、次のような解説がある。
…… 今から1万3000年〜2300年前頃まで、およそ1万年近くの長い間つづいた縄文人のくらし。しかし、縄文時代が終わるころ、大陸から縄文人とは姿形の違う人たちが日本列島に渡来してきたのです。この渡来系の人たちと、先住民である縄文系の人たちが混じりあい、今のわたしたちにつながる“日本人”が誕生したと考えられています。
NHKスペシャル「日本人はるかな旅」第5集「そして“日本人”が生まれた(12/9 NHK総合 夜9:15放送)」では、渡来人が来たといわれる北九州から関東へと旅しながら、“日本人”が誕生するまでを探っていきます。
上代日本の歴史は、徐福集団の東渡と日本渡来に始まる。
古代研究における私の基本的な仮説である。
その徐福集団は、戦国七雄と呼ばれた7国のうち、秦(シン)を除く6国の若男女を中心に構成されていた。
つまり斉(セイ)・楚(ソ)・燕(エン)・韓(カン)・趙(チョウ)・魏(ギ)・の若男女3000人である。
有名な『史記』は、徐福集団における若男女の数を、500人とも3000人とも記している。
これは、若男女をとらえる見方の違いである。
若男女を供出した国からすれば、その数は一国あたり500人である。
そして集められた総数は、3000人。
それぞれの国から、おそらく良家の子女が集められたと思われる。
なにしろ始皇帝が、不老不死を得るため、徐福に託した“人身御供”である。
見栄えが良く、頭もいい、由緒正しい家の子供たちが集められた。
しかし自国・秦からの供出はしなかった。
そう推定される。
『史記』は、徐福が“百工”を伴ったことを記している。
また少数の護衛もついていた。
おそらく秦の正規軍から選出された少数精鋭の部隊である。
人数は少なく、25人、多くて72人と思われる。
そして徐福ら指導者が数人。
したがって、想定される徐福集団の総数は、3130〜3200人前後である。
※この数は、奈良期における神社数と一致する。
徐福は東渡に際して、10年近い準備期間を費やしている。
最初の東渡は、「怪物の出現」を口実に失敗。
始皇帝を騙し、東渡集団の規模を拡大した上に、護衛の戦闘集団を獲得している。
また中国における最近の研究から、興味深いことが判明した。
徐福は、集めた子女を男女に分け、離れた場所で数年間“教育”しているのである。
何故だろう?
当然、表向きは“仙人教育”だった。
しかし実際は、秦の圧政から逃亡し、自分の国を作るための教化、洗脳だったと思われる。
そして女子は、すべて自国・齊の子供1500人にすり替えた。
女による集団統治を画策したのである。
逃亡後、子供達を男女一組にペアリングするとしよう。
斉斉の250組と、斉楚・斉燕・斉韓・斉趙・斉魏それぞれ250組、計1500組ができる。
そして彼らから生まれる子供は、すべて斉人の血を引くことになる。
その子供達こそ、現代日本人の祖先である。
『古事記』は、彼らを喩えて「如葦牙因萌騰之物」と記している。
徐福は、「天(邪馬)之御中主神」と記された。
ところで始皇帝の政権下、徐福の計画を裏で支えた人物がいた。
李斯である。
そう考えないと、徐福の東渡は成立しえない。
始皇帝の中国統一を支えた李斯は、万が一のことを考え、海外の逃亡先を準備した。
徐福集団の東渡は、徐福一人の力で成し遂げられるものではない。
始皇帝の政権下、それを“許せる”のは、李斯のみである。
私は、徐福東渡の背景を、そう推定している。
いずれにしろ、現代日本人の祖先は、斉・楚・燕・韓・趙・魏6カ国の若男女だった。
彼らは、斉語を共通語とし、逃亡者特有の似非中国語[上代日本語]を作りあげた。
この言葉は、後に古代日本語の“上層方言”となる。
ただし住み着いた土地それぞれには、楚・燕・韓・趙・魏の言葉である“方言”が後代まで残った。
現在でも日本各地に残る上代日本語の“下層方言”である。
「齋」の読みは、その代表例といえる。
また電話登録のある「齊さん」は、全国で8件。
北海道の2件を除くと、大阪、広島、千葉、神奈川、埼玉、愛知に一件づつ。
日本における「齊」の分布として、実に興味深い。
はたして「日本人はるかな旅」は、わが仮説の傍証となるか否か?
元の発言 [ Re: 歩兵と騎兵 ] お名前 [ 岡野熊鰐 ] 日付 [ 12月9日(日)14時08分38秒 ]
>> >> そして、騎兵と向き合った事の無いような、倭国の兵は、かえって足手まといではないでしょうか?
>> 戦う相手がやっぱり騎兵のいない韓の兵士だから問題ないんでは?
本島は、イチオ大陸の一部、陸続きですよ。
絶対騎兵が出てこない。そう、1騎も、そんな保証なんて出来るはずがないでしょう。
其れじゃあ、敗北と言う、とんでもないことになる可能性の方が大きい。
戦争で、確かな事は、確かな事など一つも無いと言う事である。
これが結論です。
であるならば、一度騎兵と、合同訓練してなれさせるしかないですが、
其れでは、時間が、掛かりすぎます。
元の発言 [ Title 謎とき 日本合戦史 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 12月10日(月)00時35分40秒 ]
>>
読んでいないんですが、おにりんさんの解説見る限り殆んどトンデモ本ですね。
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
平家とか源氏の公達武者だけが戦いをした訳じゃないでしょう。
馬を倒され落馬してしまう事もありますね。
始めから馬がもてない雑兵はどうするんでしょう?
>>
>>
首切るだけなら切っ先三寸しか切れない日本刀より鉈か鋸の方が有効ですね。
>>
槍は接近戦で歩兵が騎馬武者と戦うのに有効だった訳で。
>>
>>
>>
弓や礫には威嚇や戦意喪失(たじろがせる)程度の効果で致命傷を与える事は殆んど無理です。
甲冑の発達していなかった古代においては刀や槍の方が有力な武器だったでしょうね。
>>
>>
>>
>>
>>
>>
具体例は書いてあるのでしょうか?
>>
>>
>>
>>
「生きて虜囚の辱めを受けるべからず。」と言う戦時訓は何時出来たんでしょう?
第二次大戦の時じゃありませんでした?
大砲や機関銃の弾の供給が途絶えて捕虜になる事が禁止されていれば刀や銃剣による接近戦に持ち込まざるを得なかったでしょう。
相手が接近戦に応じなければ頓死するだけ。
>>
噴飯ものの記事でさぞかし面白いでしょうね。
>>
>>
>>
本屋で見かけたら立ち読みしてみましょう。
>>
>>
>>
元の発言 [ Title 謎とき 日本合戦史 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 12月10日(月)00時35分40秒 ]
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
それについては、矢傷は致死率が低いので記録に残るのに対
して、白兵戦は致死率が高く討死と一括されるので、記録に
残りにくいという意見がありますね。
平安時代は、弓が重視された事は間違いないですが、源平合
戦の頃から、ある程度白兵戦が増加しています。
鎌倉時代には蒙古襲来がありましたが、これによって日本刀
に変化が現れています。蒙古兵は革鎧を着ていましたが、従
来の日本刀ではこの革鎧を斬りにくかった為に、柔らかい物
を斬る事を考えた刀が製作されるようになりました。
南北朝時代になると、騎兵の武器が弓から刀に変っていま
すね。
さらに、南北朝時代は日本刀が最も大型化した時代であり、
この時代の兜は、現代のヘルメットのように内側にクッシ
ョンを付けて衝撃にそなえていますが、これは白兵戦を想
定しているからでしょう。その次ぎの室町時代になると、
古武道が誕生していますから、南北朝の頃は白兵戦が盛ん
だったと考えて良いと思います。
戦国時代になると、槍を持った兵が最も多いです。
しかし、戦国時代の合戦というのは、小競り合い、睨み合
いが多く激戦は少なかったようですから、激戦以外では弓
矢、礫、鉄砲の負傷者が多かったのではないでしょうか。
それでも、戦国時代は白兵戦も結構あったと思いますけど
ね。この時代には短刀が多く製作されていますから、組討
も多かった事でしょうね。
平安時代の弓矢重視の戦法というのは、貴族が始めた事で
あり、それを後世の武士が受け継いだという事らしいです。
貴族が文弱というのは、武士(この場合は源氏、平氏等)
が台頭した時代であり、それ以前は乗馬は当たり前、馬に
乗って狩りをしたりもしていました。
騎射、狩り等の、武士の文化と考えられていたものは、本
来は貴族文化だった訳です。
この貴族達の武術が、弥生時代の戦闘法から生れた文化であ
れば、弥生時代の戦いは、弓矢が主流だったのでしょうね。
元の発言 [ Re: Titleわが国最古、奈良・箸墓古墳周濠跡から木製馬具出土 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 12月8日(土)02時19分43秒 ]
>>
>>
>>
>>
なるほどと言う事はおにりんさん的にも布留0の時代が3世紀末で問題ないわけですね。
そして布留1(馬具の捨てられた時期)は4世紀初頭位。
畿内説の矛盾がかなり氷解する可能性がありますね。
新たな矛盾が生まれないか検討する必要がありますが。
ところで晋の使者が280年頃に来日した可能性はあるのでしょうか?
卑弥呼の墓が晋の時代に出来た物なら径100歩の記録は晋書の方に載っていてもいいような気がしますけど。
元の発言 [ Re: Titleわが国最古、奈良・箸墓古墳周濠跡から木製馬具出土 ] お名前 [ ピクポポデミ ] 日付 [ 12月2日(日)21時33分08秒 ]
>> 同時に出土した土器は布留1で、箸墓の成立とされている布留0よりあとですね。
>> 普通に考えれば。
普通に考えれば箸墓は布留1の時代に築造された事になるのでしょう。
>> 鐙が西晋の発明というのは、単に現在確認されている最古の鐙が、4世紀の西晋時代のものだからで、それ以外の根拠はありません。
西晋時代の遺跡から沢山発見されそれ以前には一個も見つかっていなければ西晋時代に作られたと考えるのが素直だと思います。
例えば魏の時代に発明されたとしても初めて弐、三個だけ作られた鐙が日本で発見され中国からは発見されない確率は
邪馬台国で馬の飼育が行われていなかった事を考えると限りなく0に近いのではないでしょうか。
>> >> 倭人伝は晋の時代に書かれている訳で倭人伝が書かれた280〜285年にもまだ馬はいなかったのではないでしょうか。
>> これが本当に鐙なのかどうかを含めて少々様子を見たいところですが、
>> 馬については本当にいなかったのか。
>> 弥生遺跡から確実な馬骨は見つかっていないようですが、倭人伝にいないとされている牛骨は壱岐の弥生遺跡などからも見つかっており、このあたりの記述は謎です。
>> 馬は少なくとも大量に飼育されていなかったことは確実でしょうが、西晋のやり方をまねて、試しに乗ってみるくらいはいたかもしれない。
>> イリヒコさんのページには野生馬はいたと書いてあるが、根拠はわかりません。
列島に馬がいたにしても邪馬台国では飼育されていなかった事は確実でしょう。
「西晋のやり方をまねて、試しに乗ってみる」事が行われたにしても265年よりかなり後の事です。
布留1の土器と一緒に出てきたのですから箸墓の築造はむしろ4世紀が確定したといっていいのではないでしょうか?
元の発言 [ Title 謎とき 日本合戦史 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 12月10日(月)00時35分40秒 ]
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
結構定説ですよね。
>>
>>
>>
>>
>>
>>
これも以前から聞きます。
銃が現われる前は、弓による損害が最大で、銃以後はその損害が最大になる。
どなたの研究でしたっけ。
>>
>>
騎馬弓兵ですね。
騎兵はもともと騎馬弓兵として発展して、ササン朝ペルシャ(もしくはその近郊)に始まる重装騎兵あたりから用兵が変わり始める。
正面突破力を誇るのはこの重装騎兵ですね。
魏代の装甲騎兵がどの程度これに近づいていたか。
中国では北魏―隋のあたりに重装騎兵のピークがあるようです。
騎兵というのは高価でなかなか運用の難しい兵種で、開けた草原地帯はともかく、農耕地帯ではそれほど万能ではなかった。
馬に乗ったまま戦うのは日本では源平ぐらいまでで、武田の騎馬隊などといっても、馬に乗っていたのは指揮官クラスだけとか。
>>
>>
明らかに入り乱れての白兵戦になってからの兵器ですが、そうなったときはもう馬を下りているか。
>>
ヨーロッパ中世の騎士ぐらいですか。
アレクサンダー配下のギリシャ青年貴族の突撃騎兵というのもありましたが。
基本的に騎兵は機動力を生かして、敵の側背を突く、不意をつく、浮き足立ったところへ突撃する、追撃するなどが主な用途でしょう。
ヨーロッパ中世、重装騎兵の有利が確立したとされる、ヘイスティングスの戦いにおいてさえ、ノルマン側は背走すると見せて敵をおびき出し、退路を断つような戦い方を繰り返している。
>>
>>
>>
はい。
人間の作り出した狩猟道具で一番革命的なものが、当然一番重要な武器でしょう。
火器が登場するまでは弓が主役でしょう。
ただ礫はともかく弓は射尽くしてしまいます。
そうなると白兵戦しかないでしょう。
日露戦争でも銃弾を撃ち尽くした両軍の兵士が、銃でなぐったり、指を目に突っ込んだりと、凄惨な白兵戦をやっています。
>>
>>
そうでしょうか。
ただ戦闘の最後には突撃、白兵戦になると思います。
>>
>>
>>
というか弓合わせでは話が面白くないのでは?
源平の争乱の記述では、馬上で弓を射る話がたくさん出てきます。
これは個人戦だからで、集団の弓あわせでは話が出来ない。
>>
>>
>>
実は読みました。
>>
>>
>>
白兵戦も当然あったと思います。
大体最後は白兵戦でしょう。
元の発言 [ Re: 歩兵と騎兵 ] お名前 [ 馬頭鬼 ] 日付 [ 12月9日(日)23時24分51秒 ]
相手に騎兵がいたとしても、魏には有力な装甲騎兵がいます。
基本的に騎兵の動きは騎兵が征します。
騎兵の任務は機動力をいかして敵の隙を突くことなので、戦闘隊形ばりばりの歩兵の前に飛び出してくることはない。
ニ三騎飛び出してきたら、弓の餌食です。
宋代に17騎の金の騎兵が1000人の宋の歩兵を翻弄したのとは、装備など時代背景が違います。
インカの人々が馬をおそれた話がありますから、事前に自軍の騎兵ぐらいは見せておくべきかもしれませんが。
べつに、おにりんさんの意見に賛成するわけではありませんが。
元の発言 [ Re: Title 謎とき 日本合戦史 ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 12月10日(月)08時12分59秒 ]
>> >> じゃあ、刀はなにに使われたか?というと、もっぱら、負傷した敵
>> >> 兵の、首切りに使われたのではないか、とか。
>> 首切るだけなら切っ先三寸しか切れない日本刀より鉈か鋸の方が有効ですね。
鍔元に近づく程切れ味が落ちますが、切先三寸しか切れない
という訳ではありません。
まあ、首斬り専用であれば、短刀でも良いと思います。
短刀で牛1頭捌いても、切れ味が落ちなかったという話もあ
りますから。
>> >> また、槍を馬上でふるうのは、ほとんど日本ではなかったとか。
>> 槍は接近戦で歩兵が騎馬武者と戦うのに有効だった訳で。
平安時代に騎射戦というのがありましたが、日本には本格的
な騎兵がなかったという説もありますね。
戦国時代に宣教師が残した記録によると、馬から武士が下り
て戦ったという話があり、宣教師はこれがこの国の戦い方だ
と書いているんですよね。
まあ、騎兵の機動力、打撃力を生かした本格的騎馬軍団はな
くても、馬上戦闘はそれなりにあったと思いますけどね。時
代は違いますが、軍記物などによると、源平の武士が馬上で
太刀を振るうという描写がありますし、戦国時代に創始され
た古武道にも、馬上の敵を想定した技があったりしますから。
>> >> 日露戦争以降、日露戦争におけるロシア軍の白兵戦力に恐れた日本では、
>> >> 明治政府が、白兵戦を主体とするものに変更しようとしたが、、
>> >> で、これがきっかけで、結局第二次世界大戦における、玉砕志向がでて
>> >> しまったとか。
>> 「生きて虜囚の辱めを受けるべからず。」と言う戦時訓は何時出来たんでしょう?
>> 第二次大戦の時じゃありませんでした?
>> 大砲や機関銃の弾の供給が途絶えて捕虜になる事が禁止されていれば刀や銃剣による接近戦に持ち込まざるを得なかったでしょう。
>> 相手が接近戦に応じなければ頓死するだけ。
大日本帝国軍の白兵戦というのは、間接的には西南戦争にま
で遡るでしょうね。
西南戦争の激戦である田原坂の戦いでは、弱兵の政府軍は火
力で薩軍を圧倒しようとして、一日約32万発の小銃弾を消
費していますが、日露戦争の旅順第二次総攻撃の時が一日約
30万発である事を考えると、凄まじいものです。
これだけやっても、銃撃戦では相手は陣地に隠れますから、
白兵戦の被害の方が大きかったりします。
白兵戦では、民間人から徴兵された政府軍は、ほぼ全員士族
の薩軍の敵ではなく、旧幕軍兵士による抜刀隊わずか50人
が来るまで勝てなかったといいますから、当時の剣客の戦闘
能力はとんでもないですね。
それでも政府軍は西南戦争後、火力を増強しているようです
が、西洋化を推進しつつも、日本武術を無視できなくなった
らしくて、武術家を警視庁武術世話係として採用したり、大
日本武徳会が設立されたりしています。
第二次世界大戦の時代には、武徳会付属組織である武術専門
学校は特殊部隊の隊員養成機関となっていったようです。
大正時代になると、陸軍戸山学校で古流を参考として戸山流
という軍刀操法の流儀が創始されています。
第二次世界大戦の時代、白兵戦は外国の軍隊でも結構やって
いたらしいですね。塹壕を突破する場合、砲撃、銃撃から始
まって、塹壕にたどり着いたら手榴弾を投げて、後は白兵戦
になったようです。
元の発言 [ Re: 倭姫命世記(Re: 弥生後期の「伊勢遺跡」) ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 12月10日(月)00時38分03秒 ]
そんじゃ,ま,ちょっと一服(毒)
垂仁25年というと,
3世紀中葉を想定してもよく,
その意味では,一応,
西晋への遣使時代が検討の範囲。
古墳や土器編年を無視して文献のみから再構築すると,
一部の古代史推理派が目星をつけているように,
豊鍬入姫命→卑弥呼,倭姫命→台与,
という時代設定も出てきてしまふ。ふっ。
諸説,御批判とは思いますが。
倭姫命の幼名は台与でも壱与でも何でも構わないわけで,
問題は豊鍬入姫命の名ですが,
もともと卑弥呼名になっていたのなら,
2代目である台与の前任者であることの示唆。
豊鍬入姫命は第一代斎宮として,
「卑弥呼」に相応しい,
つまり,卑弥呼とは斎宮の意。
斎王とも言い,女王であるから,御指摘の,
卑弥呼→ヒメワゥの線も。(ヒメアーも素敵)
もちろん,日見緒なんかも。
これだと天照大神の原像を,
大昔(紀元前後以前)に遡らせることも可能。
天照大神の御神体とされる鏡文化の伝搬ルートの伝承を,
天孫降臨のルートとして混乱して考えられている,
と見ることも可能。
そんで,卑弥呼(豊鍬入姫命)は,
二つの巡幸譚に関連する諸勢力によって共立され,
大和の笠縫邑で即位したであろうとか,
崇神17年の造船令の後に,
魏への遣使(239)を持ってくると,
あれこれ都合がつく。
倭姫命の母は,埴輪陳列古墳の祖である日葉酢媛命,
日葉酢媛命の母は,丹波之河上之摩須郎女。
この場合,倭迹迹日百襲姫命は,
魏への遣使の数年前には既に墓の中。
この線でゆくと,
伊勢遺跡は孝霊天皇の前後の時代。
いわゆる孝霊伝承ってのが,吉備・東海等の他,
畿内大和(唐古・鍵)と近江・日本海側の接点と見る。
卑弥呼(豊鍬入姫命)共立時に,三輪だか纏向の建設。
豊鍬入姫命時の巡幸譚からは,大和政権が,
食糧の確保を目的としていたというのであるから,
日本海側は繁栄していたのであろう,と。
籠神社周辺について,
「丹波(タニハ)」と「投馬(トウマ)」とは,
音韻的にはどうでしょう?
ただし,この場合,投馬へは日本海航路,
邪馬台へは瀬戸内航路(吉備経由)になるでしょうけど。
東海というと,関根氏御紹介のNHKの番組では,
山東系中国人である渡来人が,
河内に「侵入」して増え,その後,
東海に進出した形跡がある,
というまとめ方でした。
要するに,話題の東海の弥生人=中国系,
ということでしょう。
そんで,この渡来系は,
四国の黒曜石に目をつけた,と。
見ました?
河内では激戦の跡が見られるが,
全般には穏やかなようで,
東日本から来た「縄文人」が,
摂津を始め,西日本各地に,
稲作を学びに来た形跡があるという。
ついでに,
おにりんさんの言ってた倭の戦乱推理については,
オヤジッチさんの激戦説のほうが,
ト系も含めた乱読不足で勇み足か。
その後,東海,山陰等,各地から,
弥生人が纏向に集まった,
というようなことへ,
唐突に導いていましたが,
弥生っぽい土器をドアップしていた辺りが,
中国系の末裔による連携を匂わせる,
という設定なのかな?
当然,邪馬台国問題の所在を示唆しているのでは?
言葉についての探求はなし。
NHKと言えば,昔あった内藤アナの番組だと,
「仁徳陵は実は雄略天皇陵」「天武天皇は中国狂」
という進んだ派閥みたいっす。
--
ま,頭の体操の一例として。(^▽^;)
元の発言 [ Re: Title 謎とき 日本合戦史 ] お名前 [ 景虎 ] 日付 [ 12月10日(月)10時20分59秒 ]
>> >> >> じゃあ、刀はなにに使われたか?というと、もっぱら、負傷した敵
>> >> >> 兵の、首切りに使われたのではないか、とか。
>> >> 首切るだけなら切っ先三寸しか切れない日本刀より鉈か鋸の方が有効ですね。
>> 鍔元に近づく程切れ味が落ちますが、切先三寸しか切れない
>> という訳ではありません。
それはそうでしょうとも。
>> まあ、首斬り専用であれば、短刀でも良いと思います。
>> 短刀で牛1頭捌いても、切れ味が落ちなかったという話もあ
>> りますから。
雑兵に長刀を持たせたのは白兵戦になった時の恐怖感を和らげる効果もあるのでは?
白兵戦は雑兵を殺す事ではなく、相手が恐怖に駆られて逃げ出すように仕向ける事が目的でしょう。
>> >> >> また、槍を馬上でふるうのは、ほとんど日本ではなかったとか。
>> >> 槍は接近戦で歩兵が騎馬武者と戦うのに有効だった訳で。
>> 平安時代に騎射戦というのがありましたが、日本には本格的
>> な騎兵がなかったという説もありますね。
初めて騎兵を用いたのはひょっとして武田信玄ですかね?
>> 戦国時代に宣教師が残した記録によると、馬から武士が下り
>> て戦ったという話があり、宣教師はこれがこの国の戦い方だ
>> と書いているんですよね。
>> まあ、騎兵の機動力、打撃力を生かした本格的騎馬軍団はな
>> くても、馬上戦闘はそれなりにあったと思いますけどね。時
>> 代は違いますが、軍記物などによると、源平の武士が馬上で
>> 太刀を振るうという描写がありますし、戦国時代に創始され
>> た古武道にも、馬上の敵を想定した技があったりしますから。
馬上で剣を振るう為の特別な刀(太くて長い)もあったそうですね。
かなり腕力が要りますね。
>> 大日本帝国軍の白兵戦というのは、間接的には西南戦争にま
>> で遡るでしょうね。
>> 西南戦争の激戦である田原坂の戦いでは、弱兵の政府軍は火
>> 力で薩軍を圧倒しようとして、一日約32万発の小銃弾を消
>> 費していますが、日露戦争の旅順第二次総攻撃の時が一日約
>> 30万発である事を考えると、凄まじいものです。
>> これだけやっても、銃撃戦では相手は陣地に隠れますから、
>> 白兵戦の被害の方が大きかったりします。
>> 白兵戦では、民間人から徴兵された政府軍は、ほぼ全員士族
>> の薩軍の敵ではなく、旧幕軍兵士による抜刀隊わずか50人
>> が来るまで勝てなかったといいますから、当時の剣客の戦闘
>> 能力はとんでもないですね。
銃の時代鎌倉時代のような甲冑が意味をなさなくなって兵が軽装になった分、白兵戦では刀による戦闘能力が威力を発揮したのでしょうか。
>> それでも政府軍は西南戦争後、火力を増強しているようです
>> が、西洋化を推進しつつも、日本武術を無視できなくなった
>> らしくて、武術家を警視庁武術世話係として採用したり、大
>> 日本武徳会が設立されたりしています。
>> 第二次世界大戦の時代には、武徳会付属組織である武術専門
>> 学校は特殊部隊の隊員養成機関となっていったようです。
>> 大正時代になると、陸軍戸山学校で古流を参考として戸山流
>> という軍刀操法の流儀が創始されています。
>> 第二次世界大戦の時代、白兵戦は外国の軍隊でも結構やって
>> いたらしいですね。塹壕を突破する場合、砲撃、銃撃から始
>> まって、塹壕にたどり着いたら手榴弾を投げて、後は白兵戦
>> になったようです。
やっぱり数字だけ見て実態を知らないトンデモ本といってもいいような感じですね。
●都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也。
(1)なぜ、魏志なのか?
三世紀成立の魏志は、倭の女王の都する所を邪馬壹国とする。
五世紀成立の後漢書は、大倭王の居すところを邪馬臺国とする。
七世紀成立の隋書は、倭国を[イ妥]国とし、都を邪靡堆とする。
隋書の撰者魏徴は邪靡堆に対し、「則魏志所謂邪馬臺者也」と注釈している。
版本魏志の“壹”は誤刻であり、魏志も本来は後漢書のとおり“臺”とあったとする通説には、この魏徴の証言がなによりの根拠となっている。
しかし、後漢書と同じく魏志も邪馬臺であったら、魏徴がこのような注釈をする必要はない。
読む人は、邪靡堆は<ヤマ(メ)タイ>としか読みようがないので、これが漢の時代から魏の時代の倭の都、邪馬臺<ヤマタイ>のことであることは誰もが理解できる。
よしんば理解することが出来ない人の為に、魏徴が親切心で注釈をしているのであれば、魏志ではなく後漢書としてあげなければ「不親切」というものである。
(2)則とは?
そもそも、「者也」は決定の意を示す<者である>というのに用いる。(諸橋大漢和辞典:「者也」は「者矣」と同じ。矣が詞を緊張せしめるのに用いられるのに対し、也は慢なるに用いる。)
「者也」は決定の意を示すのであるから、「則」は“レバ則”ではなく対待の関係を表す助詞の<は>の意である。
すなわち、この証言は<魏志の謂う所“は”邪馬臺である>と、魏徴が決定したのである。
つまり、この証言の対待の関係には、魏徴が見ていた魏志には“臺”とはなかったということである。
同じ都をいうのに似たような字形の、“臺”とする本と“壹”とする本があれば、「壹・臺」論争があるのはいつの時代も変わらない。
魏徴も邪馬臺とする後漢書と、邪馬壹とする魏志を眼前にし、いずれかが誤りであろうと考えた。(隋書編纂の勅命を承けたときに、「御下問」があったのかもしれない。)
結果、魏徴は後漢書の“臺”が正しく、魏志の“壹”は“臺”の誤りとする結論に至った。
(3)邪靡堆とは?
「邪靡堆」は隋の時代の倭都の表記だとされている。(後漢書李賢注の「邪摩惟」は、この表記についての注釈だとされている。)
しかし、隋書と同じ時期に成立した梁書には邪靡堆ではなく祁馬臺とある。
また、北史は隋書に倣って大倭王を[イ妥]王としているが、都は邪馬臺のままである。
隋の時代に邪馬臺の表記が、邪靡堆に変わっていた様子はない。
邪靡堆は隋の時代の倭都の表記ではなく、魏徴が後漢書の邪馬臺が正しいとした根拠である。
魏徴の時代には、倭都は<邪靡堆(=ヤマトに通ずるか)>と発音する地にあったということかも知れない。
それとも、倭都は<邪靡の堆(小高い丘)>にあったということかも知れない。
魏徴は、倭奴国を[イ妥]奴国としていることからも、倭を[イ妥](タイ)としているのは意図的な改定である。
どちらかというと、後者ではなかろうか。
(4)結論
わざわざ本文中に魏志を持ち出して「都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也」と注釈をすること自体が、逆に、魏志には“臺”ではなく“壹”とあったことを証言していたのである。
元の発言 [ Re: Title家畜の輸送 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 12月10日(月)11時32分26秒 ]
>>
>>
>>
>>
>>
>>
確かにそうなんでしょうね。
>> ですが、やはり大きな疑問が残ります。
>> 対馬や壱岐、マツラ、伊都、ナ国辺りで馬とその効用を知るもがゼロとは、
>> 到底思えないでしょう。
>> 大陸から渡ってきた人も多いのだから。
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>> では、当然として馬を輸入しようとする方が、自然だと思います。
>> まして、漢に使者を出して色々もらっているぐらいなのだから。
>> この点、大きすぎるなぞですね。
>>
>>
>>
那国の王は、倭王の称号をもらっているのに、
その王の馬さえないとは、思え無いと言う事、
そして、中国本土からも来た人はいるでしょうに、
其の中に、馬飼がまったく居なかっただろうか?
中国からの人が、馬を知らないわけも無い。
と言う事が不思議だといっているのですが。
そして、中国が比較的安定していた、漢の時代
沿岸航海で、馬を運べば、かなり安全に運べるのでは?
一日航海、一日休みと言う具合なら、馬だって十分持つでしょう。
そのくらいの、航海距離でしょう。
半島沿い、対馬海峡辺りのこうすなら。
如何ですか?
元の発言 [ 邪靡堆 ] お名前 [ 大場嘉門 ] 日付 [ 12月10日(月)17時27分48秒 ]
大場嘉門さん こんばんは ご無沙汰しております。マルセです。
「邪馬臺」と「邪靡堆」の音は、上古音ではそれぞれ「yia-mag-d6g(6は本当はeの反対のやつです、以下同じ)」と「yia-muar-tu6r」、中古音では「zia-ma-d6i」と「zia-mua-tu6i」です。かなで書くと「やまど」と「やむぁつぉ」、「じゃまど」と「じゃむぁつぉ」くらい?
中古音では「邪」は「じゃ」としか読めませんから、邪馬臺と邪靡堆の表記は、両方とも、上古音で発音されていた魏晋の時代からあるのだと思います。
たぶん、邪馬臺だと最後の音が「ど」と濁ってしまい、「と」と読めないので、「邪馬臺」に替えて、原音により近い「邪靡堆」の表記が晋の時代に作られたのではないか、と思いますが、いかがでしょうか。
元の発言 [ Re: 邪靡堆 ] お名前 [ マルセ ] 日付 [ 12月10日(月)20時36分37秒 ]
>> 大場嘉門さん、マルセさん、こんばんは
>> 中古音では「邪」は「じゃ」としか読めませんから、邪馬臺と邪靡堆の表記は、両方とも、上古音で発音されていた魏晋の時代からあるのだと思います。
>> たぶん、邪馬臺だと最後の音が「ど」と濁ってしまい、「と」と読めないので、「邪馬臺」に替えて、原音により近い「邪靡堆」の表記が晋の時代に作られたのではないか、と思いますが、いかがでしょうか。
中国語に濁音ってありましたか?
中国で「カンペー(乾杯)」と言ったら通訳に「杯を見ますか」と言ってからかわれました、「シャーウー(降雨)」と言ったらこれもまた「魚が降りますか」とからかわれました。
「邪馬臺」も倭人の“喋った”事葉を中国語で“書いた”んですよネ。
元の発言 [ Re: Titleわが国最古、奈良・箸墓古墳周濠跡から木製馬具出土 ] お名前 [ ピクポポデミ ] 日付 [ 12月2日(日)21時33分08秒 ]
こんばんは
>> イリヒコさんのページには野生馬はいたと書いてあるが、根拠はわかりません。
かつて、弥生時代の馬の骨が出土しているといわれたことによるのですが、最
近のフッ素(だったかな?)による研究では、ずいぶん新しいものが誤認されて
いたケースがあるようで、弥生時代に馬がいたかどうかはかなり怪しくなって
いるようです。
そのうちに訂正したいと思います。
豊橋あたりの縄文人骨にも中世の骨が結構混じっている可能性があるらしく馬
に限らず、骨はどれももう一度整理し直す必要がありそうです。
この前も千葉でそんなことがありましたしね。
元の発言 [ 邪靡堆 ] お名前 [ 大場嘉門 ] 日付 [ 12月10日(月)17時27分48秒 ]
>> ●都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也。
>> (1)なぜ、魏志なのか?
>> 三世紀成立の魏志は、倭の女王の都する所を邪馬壹国とする。
>> 五世紀成立の後漢書は、大倭王の居すところを邪馬臺国とする。
>> 七世紀成立の隋書は、倭国を[イ妥]国とし、都を邪靡堆とする。
>> 隋書の撰者魏徴は邪靡堆に対し、「則魏志所謂邪馬臺者也」と注釈している。
>> 版本魏志の“壹”は誤刻であり、魏志も本来は後漢書のとおり“臺”とあったとする通説には、この魏徴の証言がなによりの根拠となっている。
>> しかし、後漢書と同じく魏志も邪馬臺であったら、魏徴がこのような注釈をする必要はない。
>> 読む人は、邪靡堆は<ヤマ(メ)タイ>としか読みようがないので、これが漢の時代から魏の時代の倭の都、邪馬臺<ヤマタイ>のことであることは誰もが理解できる。
>> よしんば理解することが出来ない人の為に、魏徴が親切心で注釈をしているのであれば、魏志ではなく後漢書としてあげなければ「不親切」というものである。
>> (4)結論
>> わざわざ本文中に魏志を持ち出して「都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也」と注釈をすること自体が、逆に、魏志には“臺”ではなく“壹”とあったことを証言していたのである。
「壹」が「臺」の誤りと言う話がなり立つならば何故
「堆」は「惟」の間違いであったと言う話が出ないのでしょう。
「壹」と「臺」より「堆」と「惟」の方がよほど間違いやすい。
そして「惟」は「イ、ユイ」の音を持ちます。
または「堆」が「イ」と読める可能性は無いのでしょうか。
漢字は「つくり」が音を表す事が多いです。「唯」も「惟」も「イ、ユイ」でしょう?
元の発言 [ Re: 冬夏生菜を食す(Re: 神功摂政前紀) ] お名前 [ 馬頭鬼 ] 日付 [ 12月7日(金)07時57分31秒 ]
あ、生菜=全ての食品じゃなくて、
生菜=野菜類ではないかと言う意味です。
今でも西安に行きますと暑い時期に果物
買って、日陰干しにして冬食べる。
ドライフルーツ=保存食。
「温暖」だから冬でも採り立ての野菜が
食べられる意味ととります。
やはり冬は「鍋」だったんじゃないかと・・^^:。
春の七草なんかは、ずっと後世のものですが、
穀類と魚介類に七草の原型いれれば「鍋」です。
若菜摘んで衣に雪降らせていた時代もあるし。
雑穀と合わせて雑炊じゃないかなー。
倭人伝記事は樹木については詳しいが、食べることを
しらない果実・実が書いてあり、食べているものを
書いていないのは、ある意味面白い。
元の発言 [ Re: Title家畜の輸送 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 12月10日(月)10時49分15秒 ]
>>
>>
>>
>>
>>
船がおおきくなった18世紀ですらその状態ですから、距離が短いとはいえ小さな準構造船で晋の下賜で馬が来る事は考えられない。
馬が10頭の内9頭が死んでも馬が必要だった集団によって運ばれた。
それは元々大陸で馬を使っていた集団以外には考えにくいのでは?
元の発言 [ 邪靡堆 ] お名前 [ 大場嘉門 ] 日付 [ 12月10日(月)17時27分48秒 ]
>> ●都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也。
>> (1)なぜ、魏志なのか?
>> しかし、後漢書と同じく魏志も邪馬臺であったら、魏徴がこのような注釈をする必要はない。
>> (2)則とは?
>> すなわち、この証言は<魏志の謂う所“は”邪馬臺である>と、魏徴が決定したのである。
>> つまり、この証言の対待の関係には、魏徴が見ていた魏志には“臺”とはなかったということである。
>> (4)結論
>> わざわざ本文中に魏志を持ち出して「都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也」と注釈をすること自体が、逆に、魏志には“臺”ではなく“壹”とあったことを証言していたのである。
魏志に“臺”とはなかったとして、
則魏志所謂邪馬臺者也
と書いたのはなぜですか?
則魏志所謂邪馬壹者也
なら分かりますが・・・。
(隋書編纂の勅命を承けたときに、「御下問」があったのかもしれない。)ならなおさら。
元の発言 [ Re: Title家畜の輸送 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 12月10日(月)10時49分15秒 ]
>>
>>
>>
>>
>>
船がおおきくなった18世紀ですらその状態ですから、距離が短いとはいえ小さな準構造船で晋の下賜で馬が来る事は考えられない。
馬が10頭の内9頭が死んでも馬が必要だった集団によって運ばれた。
それは元々大陸で馬を使っていた集団以外には考えにくいのでは?
東夷伝によれば高句麗の馬は体が小さく力があって山登りに適していたとか。
日本の在来種の馬の特徴とピッタリ一致しますね。
元の発言 [ Re: 倭姫命世記(Re: 弥生後期の「伊勢遺跡」) ] お名前 [ ちょっと一服 ] 日付 [ 12月10日(月)12時18分57秒 ]
補足です。
トヨ名については,
卑弥呼が豊受大神の系譜と見れば,
どちらも,
丹後〜丹波の籠神社と由来が重なるのでは?
元の発言 [ Re: 邪靡堆 ] お名前 [ 豊玉 ] 日付 [ 12月10日(月)23時53分54秒 ]
>> >> わざわざ本文中に魏志を持ち出して「都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也」と注釈をすること自体が、逆に、魏志には“臺”ではなく“壹”とあったことを証言していたのである。
>> 魏志に“臺”とはなかったとして、
>> 則魏志所謂邪馬臺者也
>> と書いたのはなぜですか?
# これは訂正の為の注釈であるという着想がユニークなんですね。発想の転換です。
しかしながら、原文を改定すべきだという注を付けるときは「案ずるに〜」とか「当作」とか、いくつか決まり文句があるもので、この場合やはり「魏志の謂ふ所」は「邪馬臺」です。
魏徴が目にした魏志には「邪馬臺」とあったとすべきでしょう。
元の発言 [ Re: Title 謎とき 日本合戦史 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 12月10日(月)11時04分30秒 ]
>>
>>
そこでありえないと決めつけてしまう事はできないでしょう。
実際に戦った、又は戦うところを見た訳ではないのですから。
それに、騎兵が歩兵とどの程度戦ったか?という疑問もあり
ます。
戦の主役は武士であり、武士団は武士団同士で戦ったという
ことが考えられます。少なくとも、戦国時代の白兵戦では武
士は武士と、足軽は足軽と戦うというのが基本だったようで
す。
また、馬上剣術がなかったとしたら、日本刀の大型化をどの
ように説明するのか?という疑問が出てきます。
軍記物にしても、信憑性の低い物もあれば高い物もあります
から一概には言えません。
>> 戦国時代に宣教師が残した記録によると、馬から武士が下り
>> て戦ったという話があり、宣教師はこれがこの国の戦い方だ
>> と書いているんですよね。
>>
>>
戦国時代、弓は基本的には足軽の武器でしょう。騎兵の武器
ではないです。実際、合戦に参加した黒田長政の指示で製作
された、大坂夏の陣、冬の陣図屏風を見ても武士は槍で戦っ
ています。弓を使う武士がいなかった訳ではありませんが。
また、一番槍、七本槍等の称号が使われていますから、足軽
はともかく槍が武士の象徴的な武器であった事は間違いない
でしょう。弓取りという称号も残ってはいましたが、少ない
です。
軍記物ではなく、実際に合戦に参加した渡辺水庵の記録であ
る渡辺水庵覚書にしても、圧倒的に多いのは槍合わせの話で
す。
刀については応仁の乱の少し前に、一番の太刀打ちという表
現があり、この時代は南北朝の少し後ですから、やはり南北
朝時代は刀による戦いが重視されていたのでしょう。少なく
とも武士の間では。
天正三年の上杉家軍役帳によると、5509人中鉄砲316
人、弓5人というのはどういう事なんでしょうか?
まあ、小競り合いであれば、鉄砲316人もいればそれで良
いのかもしれませんが、これは鉄砲足軽隊の武装でしょう。
騎兵の武装は、甲、篭手、打物(刀、槍など)腰差(小刀)
と書いてあります。
>> まあ、騎兵の機動力、打撃力を生かした本格的騎馬軍団はな
>> くても、馬上戦闘はそれなりにあったと思いますけどね。時
>> 代は違いますが、軍記物などによると、源平の武士が馬上で
>> 太刀を振るうという描写がありますし、戦国時代に創始され
>> た古武道にも、馬上の敵を想定した技があったりしますから。
>>
>>
>>
この流儀は戦国時代に創始されたと書いたはずです。
他の流儀にしても、組討を最も重視する流儀が天文元年に
創始されています。因みにこの流儀の創始者は、約1万石の
領地を持つ城主です。
それに、剣術、槍術、薙刀術などはどう考えても白兵戦じゃ
ないですか?鎧を付けた状態を想定していないと言われるか
もしれませんが、鎧なしの剣術は素肌剣術、鎧ありの剣術は
介者剣術といって、戦場技法があります。
塚原ト伝は合戦に参加していますが、出陣37回、討ち取る
もの212人とあります。また、ト伝は諸国を巡って重用さ
れたという人です。
松本備前守は、祓の太刀の名人で、生涯で取った首の数は6
7と言います。
新陰流の開祖、上泉伊勢守はもと戦国武将で、武田信玄の軍
勢と何度も戦ってします。
>>
>>
>>
>>
そうなってくると、以前議論した膨大な数の数打の存在を説
明できなくなりますね。
>>
>>
戦国時代には、数十万回の戦いがあったであろうと言われて
いますが、軍記物以外で記録が残っているのはその中の一部
ですからね。
それに、東北から、九州の南までまったく同じやり方で戦っ
ていたと考える事にも無理があるような気がします。
九州の島津の場合は、島津軍法というのがあり、それによる
と『一人の敵をも殺したる証拠のない者は死罪、その父子親
族は重科に処せらるることあるべし。わが、隊将の首級を敵
に委ふべからず、この仇を報ずるあたわざる時は一隊ことご
とく討死にせよ。』とあります。
また、忘れてはいけないのが倭寇です。
戦国時代になると、中国人倭寇が増えますが、もともと日本
の地方武士団が中心だった訳ですから、倭寇の主力武器は日
本刀です。明の時代は、優れた武術家もある程度残っていた
でしょうが、全体的には中国武術の衰退期で、明代の兵法書
『武備志』によると、中国の剣術、刀術は失伝した。それ故
に剣は朝鮮に残っていた勢法を取る、とあります。
さらに明軍は、兵士に日本刀を持たせています。
それだけで、正式に日本剣術を学んだ倭寇に対抗する事は出
来ませんから、補助的な武器だったようですが。
その為、倭寇討伐指揮官である戚継光は、集団戦法である鴛
鴦陣を編み出しています。
基本は、1人の指揮官に10人の兵を付けるのですが、最低
でも1人の倭寇に5人でかかっていってます。
当時の少林寺の武僧である程宗猷は、倭寇剣術を学び、剣術
書『単刀法選』を刊行していますが、それだけ日本刀と日本
剣術が脅威だったという事でしょう。
>>
>>
>>
>>
>>
ある程度は可能です。
馬庭念流には有名な矢留の術というのがあります。
これは、鏃は外しますが、実際に飛んでくる矢を剣ではじきま
す。馬庭念流以外にも同じような技はあります。
>>
>>
日本刀信仰というのが何を指すのか分かりませんが、昔から
刀を特別な物と考えていたのは間違いないでしょう。
>> 第二次世界大戦の時代には、武徳会付属組織である武術専門
>> 学校は特殊部隊の隊員養成機関となっていったようです。
>>
>>
それは、短絡的すぎるでしょう。
勝てないのに、撤退も降伏もできないから、玉砕という事に
なったんでしょう。
それに、武徳会出身者が皆前線で戦っていた訳ではなく、確
か諜報活動やってた人達もいたはずです。
>>
>>
>>
あったでしょう。
実際に人を斬った人達がいるのですから。
戸山流は仮想敵が、中国刀、銃剣、槍です。
因みに、どこだったか忘れましたが、ヨーロッパのある国の
特殊部隊は今でも、山刀、手槍、弓矢の訓練をしています。
元の発言 [ Re: Title 謎とき 日本合戦史 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 12月10日(月)21時58分15秒 ]
>>
>>
>>
>>
>>
中世の様式化した、しばしば身代金目的の戦闘と違って、古代の戦闘はほとんど部族皆殺しの場合があるので、接近戦もあったはずです。
ハンニバル戦争なんかでも、カンナエなどではローマ軍は壊滅している。(8万中戦死5万)
トレイブルク森やアドリアノープルでも。
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
ヨーロッパで接近戦がはやったのは、相手を人質にして身代金を取るためで、手加減のために弓を使わなかったという説もあります。
そうすると、弓を使うということは、手加減しないということになります。
>>
>>
>>
>>
これで十字軍はそれなりの戦果をあげた。
この戦法がやぶれるのは、百年戦争当時のクレイシーの戦い。
http://plaza.harmonix.ne.jp/~gaisui/battle/battle1.html
歩兵の復権、近代の兆し。
>>
>>
>>
>>
>>
>>
何処だったかで、矢を射尽くして突撃した話があったとおもいました。
>>
>>
平安初期のアテルイと官軍の戦いでは、官軍4000のうち戦死するもの25人・矢に中(あた)るもの245人・河に投じて溺死するもの1036人・裸身にして游(およ)ぎ来る
もの1257人。
白兵戦の場合でも、武装したあいてに致命傷を負わすのは難しく、結局敗走中の事故、餓死などが多くなる。
>>
>>
>>
>>
白兵戦がなければ、刀剣類はそれほど発達しなかったでしょう。
平安期の大鎧は明らかに矢戦用ですが、その後の鎧は接近戦を意識して作られています。
合戦屏風にも描かれていますし、戦功を首で評価する仕組みにしても白兵戦の存在は疑いえません。
また戦国の開けた場所での合戦は2回だけとのことですが、戦国の決戦は基本的に後詰決戦であるので、これは当然です。
後詰決戦も間違いなく合戦であることに変わりありません。
元の発言 [ Re: Title 謎とき 日本合戦史 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 12月10日(月)21時58分15秒 ]
>> ヨーロッパ中世の騎士ぐらいですか。
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
私は、西洋の事はよくしりませんし、騎士の武術は現存して
いませんが(最近になって、騎士の真似をしている人達はい
るらしいですが)、以前テレビで騎士の鎧は重くてまともに
動けないというのは本当でしょうか?といって、鎧を着た白
人のおじさんが軽快に受身を取ってみせていました。
その人によると、重量は確かにあるが、全身にバランスよく
重さがかかるようになっているので、十分動けると言ってい
ました。まあ、西洋の鎧も時代と共に変化しているでしょう
から、全ての鎧で軽快に動けるかどうか分かりませんが。
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
回収する為には敵陣に接近するわけですよね?そうすると白
兵戦になるのでは?
>> ただ戦闘の最後には突撃、白兵戦になると思います。
>> 白兵戦も当然あったと思います。
>> 大体最後は白兵戦でしょう。
>>
>>
>>
>>
無理でしょうね。弓どころか第二次世界大戦でも接近された
ら白兵戦なんですから。
それに、19世紀後半のアフリカで大英帝国軍対ズールー族
の戦いがありました。
ズールー族は少数の旧式銃と、槍と盾で武装した歩兵だけの
軍隊ですから、イギリス軍は油断していました。結局この油
断が命取りとなり、ズールー族に接近され、イサンドルワナ
でイギリス軍1774人の内1329人を失っています。
第二次進攻ではイギリス軍も本気になり、最新兵器である機
関銃まで投入して勝利していますが。
元の発言 [ Re: 邪靡堆 ] お名前 [ マルセ ] 日付 [ 12月10日(月)20時36分37秒 ]
マルセさん、お久しぶりです。
>>中古音では「邪」は「じゃ」としか読めませんから、邪馬臺と邪靡堆の表記は、両方とも、上古音で発音されていた魏晋の時代からあるのだと思います。
>>たぶん、邪馬臺だと最後の音が「ど」と濁ってしまい、「と」と読めないので、「邪馬臺」に替えて、原音により近い「邪靡堆」の表記が晋の時代に作られたのではないか、と思いますが、いかがでしょうか。
私は、邪馬臺・邪靡堆が上古音でどう発音されていたかは、今は問題にしていません。
で、魏徴の時代は中古音ということで異論のないところだと思います。
中古音では「邪」は「じゃ」としか読めないのであれば、時の人が邪馬臺・邪靡堆を<ジャマト>と読んだとしても良いのです。
時の人は倭都をいう邪靡堆(ジャマト)は、魏徴に指摘されるまでもなく、これが後漢書や魏志の邪馬臺<時の人は「ジャマト」と読む>のことであることは、容易に理解できるでしょう。
と、いうことです。
質問なのですが、
中古音では「邪」は「じゃ」としか読めないと、どうして、邪馬臺・邪靡堆の表記が魏晋の時代からあることになるのですか。
元の発言 [ Re: Title 謎とき 日本合戦史 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 12月10日(月)11時21分22秒 ]
>>
>>
>>
>>
江戸時代にもどの程度そういう考えがあったか分かりませ
んね。弓術、砲術の流儀がありますし、古武道は流儀にも
よりますが、暗殺用の技がありますし、中には暗殺技が中
心になっているような流儀もあるようですから。
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
いや、命中率は低いでしょう。
織田信長は、何度か鉄砲で狙撃されてますが、失敗していま
すし、上杉謙信も狙撃されましたがこれも失敗してます。
砲術の研究をしていて、実際に火縄銃を使用した実験をした
人によると、命中率は低くて、近づかないと当たらないと何
かの本に書いていました。
元の発言 [ Re: 邪靡堆 ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 12月10日(月)22時00分42秒 ]
>>「壹」が「臺」の誤りと言う話がなり立つならば何故
>>「堆」は「惟」の間違いであったと言う話が出ないのでしょう。
「堆」は魏徴(580-643)で、「惟」は李賢(654-684)です。
これは私に聞くより、李賢に聞いた方が早いでしょう。
元の発言 [ Re: 冬夏生菜を食す(Re: 神功摂政前紀) ] お名前 [ 豊玉 ] 日付 [ 12月10日(月)22時47分43秒 ]
>> あ、生菜=全ての食品じゃなくて、
>> 生菜=野菜類ではないかと言う意味です。
>> 今でも西安に行きますと暑い時期に果物
>> 買って、日陰干しにして冬食べる。
>> ドライフルーツ=保存食。
>> 「温暖」だから冬でも採り立ての野菜が
>> 食べられる意味ととります。
つまりは、生鮮食料の調達が可能と言う記事ですね。
>> やはり冬は「鍋」だったんじゃないかと・・^^:。
>> 春の七草なんかは、ずっと後世のものですが、
>> 穀類と魚介類に七草の原型いれれば「鍋」です。
>> 若菜摘んで衣に雪降らせていた時代もあるし。
>> 雑穀と合わせて雑炊じゃないかなー。
>> 倭人伝記事は樹木については詳しいが、食べることを
>> しらない果実・実が書いてあり、食べているものを
>> 書いていないのは、ある意味面白い。
つまり、その頃から、自然破壊の激しかった中国では、
樹木が貴重だったか、使者が西域の出身で必全的に樹木の方に目が行ったか?
食べていない物と言うことは、深読みすれば、侵攻時の
食料の調達を考えていると見ることもできる。
採取して利用してるだけであれば、地元民と食料調達の競合を避けられるから。
また、量だって豊富である可能性が有るし。
元の発言 [ Re: 邪靡堆 ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 12月11日(火)00時48分30秒 ]
ALEXさん、ご無沙汰しておりました。
この「大論争」が、誰もが参加できるように、と願ってやみません。
>>しかしながら、原文を改定すべきだという注を付けるときは「案ずるに〜」とか「当作」とか、いくつか決まり文句があるもので、この場合やはり「魏志の謂ふ所」は「邪馬臺」です。
私の「着想」は、諸橋大漢和に則(すなわち)には“レバ則”だけでなく、対待の関係を表す助詞の<は>の意があることを見つけたことにあります。
“「魏志の謂ふ所」は「邪馬臺」です”ということであれば、「則」は必要ないと思われますが、如何でしょうか。
>>魏徴が目にした魏志には「邪馬臺」とあったとすべきでしょう。
どうして、魏徴はこのような注釈をしたとお考えでしょうか。
どうして、後漢書ではなく魏志なのでしょうか。
元の発言 [ Re: Title家畜の輸送 ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 12月10日(月)23時55分31秒 ]
>> 船がおおきくなった18世紀ですらその状態ですから、距離が短いとはいえ小さな準構造船で晋の下賜で馬が来る事は考えられない。
>> 馬が10頭の内9頭が死んでも馬が必要だった集団によって運ばれた。
>> それは元々大陸で馬を使っていた集団以外には考えにくいのでは?
>> 東夷伝によれば高句麗の馬は体が小さく力があって山登りに適していたとか。
>> 日本の在来種の馬の特徴とピッタリ一致しますね。
古代の豪族王族と言う物を、考慮してのご発言とは、思えませんね。
連中、必要とか欲しいと言ったらとんでもない事をしても手に入れる人種でしょう。
それを考えると、どんな工夫をしても運ぶと思いますね。
しばらく、馬の博物館にも行っていないので、
日本在来種の馬の研究を学んでませんが、高句麗の馬と言うのは、
確かに考えられますね。
元の発言 [ Re: 邪靡堆 ] お名前 [ 大場嘉門 ] 日付 [ 12月11日(火)12時13分17秒 ]
>> >>「壹」が「臺」の誤りと言う話がなり立つならば何故
>> >>「堆」は「惟」の間違いであったと言う話が出ないのでしょう。
>> 「堆」は魏徴(580-643)で、「惟」は李賢(654-684)です。
>> これは私に聞くより、李賢に聞いた方が早いでしょう。
この議論は以前に大場嘉門さんによって提起されていたのですね。私はまだここに参加していなかった。
このときは後でついたレスによって議題がそれて深い議論にはならなかったんですね。
李賢の後漢書註に「惟」があることを知りませんでした。恥ずかし。
大場嘉門さんの意見には私としては賛成です。
ところで「堆」が「イ」と発音する可能性についてはどうでしょう。
3,4世紀ころ「イ」、「タイ」の両方の読みがあって、范曄が見た資料に「堆」の字が存在していてこれを范曄が「臺」と書き改めたのかも。
元の発言 [ Re: 邪靡堆 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 12月10日(月)21時26分04秒 ]
>> 中国語に濁音ってありましたか?
>>
そうですか。
何によって分かったんでしょう。
元の発言 [ Re: 邪靡堆 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 12月10日(月)21時31分59秒 ]
こんばんは どうもご無沙汰してました。
>>
>>
>>
>>
>>
#「山門」は甲類で、「大和」は乙類で違うという話ですか。なにで読んだか忘れてしまったのですけど、これについては、「播磨?のほうに大和郷?というところがあって、木簡?かなにかに、大和と山門の両方の表記があって、山門の表記も本当は乙類だったのでは。山の前みたいな地形の場所で、その意味に引っ張られて山門という表記になったのでは」というのを読んだ記憶があります。かなり、うろ覚えでごめんなさいです。
>>
>>
>>
>>
#なるほど!!
元の発言 [ Re: 邪靡堆 ] お名前 [ 大場嘉門 ] 日付 [ 12月11日(火)12時11分10秒 ]
こんばんは
>>時の人は倭都をいう邪靡堆(ジャマト)は、魏徴に指摘されるまでもなく、これが後漢書や魏志の邪馬臺<時の人は「ジャマト」と読む>のことであることは、容易に理解できるでしょう。
>>と、いうことです。
#「邪靡堆」が標準語の「やまと」として、「邪馬臺」のほうは東北弁で「やまど〜」(書くとあんまり違いがわかりませんけど)といったくらい発音が違っているので、読んだ人にはわかりにくいかな?ってところなんじゃないでしょうか。
>>質問なのですが、
>>中古音では「邪」は「じゃ」としか読めないと、どうして、邪馬臺・邪靡堆の表記が魏晋の時代からあることになるのですか。
#原音が「やまと」であって中古音で写し取るなら、「邪馬臺」や「邪靡堆」ではなくて、ちゃんと「やまと」と読める「夜馬登」とか「野麻等」とかにするんじゃないでしょうか。
じゃ、原音が「じゃまと」や「ざまと」のような言葉だった可能性はないのかということになりますけれど、それは、「濁音から始まるやまと言葉はない」ってことで否定されると思います。ちなみに、和名抄の国郡名や国造本紀の国名の中で濁音で始まるものは、美濃国の「郡上郡」だけです。もちろん、これはやまと言葉の地名ではないでしょう(武藝郡の上って意味?)。
もっとも、倭人伝の中の地名では、「投馬(dug-mag)」国が濁音から始まっていて、例外になっていますね。これはたぶん、「つま」の聞き間違いが、頭の一音を聞き落としたと考えていいと思います。「太平御覧」の引用する「魏志」には、ここが「於投馬(・ag-dug-mag)」になっているそうで、これならやまと言葉の「あづま」と読めそうです。
元の発言 [ Re: Title 謎とき 日本合戦史 ] お名前 [ 景虎 ] 日付 [ 12月11日(火)12時00分43秒 ]
詳しい事は判らないので知ってることを交えて質問形式にさせともらいます。
>> >> もちろん、鎧のほうも、頑丈なので、さすことはできな
>> >> いが、馬から突き落とす。もちろん、百キロ近いような
>> >> 重たい重装の鎧をつけていると、もう一度馬に乗るわけ
其れ専用の、ダガーが有ったようですね。
でも、日本の鎧通ト違い逆手に持って叩きつけるように使うアイスピックみたいなもののようですね。
>> >> にいかないから、下で、もがいている間に、軽装の歩兵
>> >> に近づかれて、鎧通しで、ぐさっとやられるっていう
>> >> やつですね。
>> 私は、西洋の事はよくしりませんし、騎士の武術は現存して
>> いませんが(最近になって、騎士の真似をしている人達はい
>> るらしいですが)、以前テレビで騎士の鎧は重くてまともに
>> 動けないというのは本当でしょうか?といって、鎧を着た白
>> 人のおじさんが軽快に受身を取ってみせていました。
>> その人によると、重量は確かにあるが、全身にバランスよく
>> 重さがかかるようになっているので、十分動けると言ってい
>> ました。まあ、西洋の鎧も時代と共に変化しているでしょう
>> から、全ての鎧で軽快に動けるかどうか分かりませんが。
まったく残っていない訳でもないらしいです。
スコットランドだったカナ、Catch as catch can (つづり間違えてないよね。)
なんてのが残っているらしいですが。
名前だけで、ドンなのかわかりません。
後、日本刀は、馬上で使う太刀から発達したと言っても良いと言うのが定説
馬上で片手で使い振り下ろすのと、なで斬りにするためと、
鎧兜の隙間を突くために反りが発達したと言う説。
まあ、世界の各地を見てもサーベル、シュミターなどなど騎馬用の極東が発達してる事を思えば、
前者に部があるように思えますけど。
十字軍でも、イスラム騎兵は、曲刀を使っているようですし
>> >> でも、鉄砲の場合の玉はどうにもなりませんが、弓なら、
>> >> 地面にささっているものをぬいて集めながら、という
>> >> ことが可能ではないかと思いますが、いかがでしょうか。
>> >> あるいは、楯にささったやつとか。
>> >> 双方回収しつつ戦ったと思うんです。
>> >> そのあたりが、鉄砲の弾とは違う。
ここの所、面白い話を聞きたことが有るのですが、
騎士が、鎧を注文するとき、クロスボウが通るのは、仕方ないが、
銃弾は止めるようにしてくれと、要求していたなんて話を聞きましたが、本とかな?
>> 回収する為には敵陣に接近するわけですよね?そうすると白
>> 兵戦になるのでは?
>> >> >> ただ戦闘の最後には突撃、白兵戦になると思います。
>> >> >> 白兵戦も当然あったと思います。
>> >> >> 大体最後は白兵戦でしょう。
城に攻めこめば必然的に白兵戦でしょう。
>> >> それでも、物陰から、弓っていうほうが最後の最後まで
>> >> 有効ではないか、と。
>> >> まあ、わかりませんが。投げナイフの類もありえますし
>> >> ね。
>> 無理でしょうね。弓どころか第二次世界大戦でも接近された
>> ら白兵戦なんですから。
>> それに、19世紀後半のアフリカで大英帝国軍対ズールー族
>> の戦いがありました。
>> ズールー族は少数の旧式銃と、槍と盾で武装した歩兵だけの
>> 軍隊ですから、イギリス軍は油断していました。結局この油
>> 断が命取りとなり、ズールー族に接近され、イサンドルワナ
>> でイギリス軍1774人の内1329人を失っています。
>> 第二次進攻ではイギリス軍も本気になり、最新兵器である機
>> 関銃まで投入して勝利していますが。
近代戦では、塹壕戦での武器は、拳銃、サブマシンガン、ナイフ、スコップ、鉈の類のようですね。
白兵戦と成れば仕方ない様ですが、そうなるのでしょう。
先月も書きましたけど、西遊記の沙 悟浄の武器は、スコップから変化したサンでしたっけ。
薙刀みたいなものは、中国でも使われてますが、
比較的近世では、戟みたいですね。
後は、棍棒の類。フレイル見たいな物が覆い様ですけど、
来れたしか、ほとんどの国に共通するのでは?
そう言えば、薙刀を騎馬武者が手挟んで居たり、
馬の鞍に、立てていたような絵があって酔うな記憶がありますが?
元の発言 [ Re: 邪靡堆 ] お名前 [ マルセ ] 日付 [ 12月11日(火)22時01分13秒 ]
こんにちは
>>#「邪靡堆」が標準語の「やまと」として、「邪馬臺」のほうは東北弁で「やまど〜」(書くとあんまり違いがわかりませんけど)といったくらい発音が違っているので、読んだ人にはわかりにくいかな?ってところなんじゃないでしょうか。
中古音で、隋書の『倭都』の邪靡堆が「やまと」で、後漢書・魏志の『倭都』の邪馬臺が「やまど〜」という“ハッキリ”発音の違いがあっても、読む人は邪靡堆=倭都=邪馬臺ということは、魏徴に指摘されるまでもなく、容易に理解できるでしょう。
と、いうことですが、これは見解の相違ということにしておきましょう。
問題は“読んだ人にはわかりにくいかな?”ってことで、どうして魏徴は後漢書・魏志共にいう邪馬臺から、時代的には前代になる後漢書ではなく魏志の邪馬臺をチョイスしたか、ということです。
>>#原音が「やまと」であって中古音で写し取るなら、「邪馬臺」や「邪靡堆」ではなくて、ちゃんと「やまと」と読める「夜馬登」とか「野麻等」とかにするんじゃないでしょうか。
>>じゃ、原音が「じゃまと」や「ざまと」のような言葉だった可能性はないのかということになりますけれど、それは、「濁音から始まるやまと言葉はない」ってことで否定されると思います。
先に「やまと」ありきでしたか。
中古音では「邪」は「じゃ」としか読めないから、邪馬臺・邪靡堆の表記の成立は、「邪」を「や」と発音した上古音の魏晋の時代というわけですね。
上のスレッドにある紀さんの『邪馬壹(臺)国は“壹(臺)国の中の邪馬の地”を表しており、「ヤマト」という地名を表しているのではない』とのご意見については、どう思われますか。
元の発言 [ Re: 邪靡堆 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 12月11日(火)23時57分49秒 ]
>>
>>
岩波文庫版古事記では「夜麻登」(歌謡全句索引)です。
ト乙類・清音。
地名以外の興味深い例としては,
大国主命が倭(やまと)に上る時,
スセリヒメへの歌に,
「夜麻登能 比登母登須須岐」
という一節があり,岩波版(第51頁)では,
「山處の 一本薄」と直してあります。
訳注には
「山のあたりのただ一本のススキのように」
とあります。
これ,ちょうど鐙が出てくる場面。
# ちなみに「山田」は「夜麻陀」
鳥越憲三郎著『古代朝鮮と倭族』(中公新書)の第85頁に,
「女真族の『徒』は部族,または部族の居住地の意であろう。」
という一節があります。
「ど」と読むらしい。
つづけて,
女真族はツングース族で,
高句麗を建てたワイ族もそうとか,
モンゴル族系の扶余族がツングース族と混血して,
扶余国を建てたとか,
滅亡後,馬韓を討って百済を建てたとか,
高句麗か百済が耽羅国の実権を握ったらしいとかの解説。
はっとしたが,
和語では「徒」は,ト甲類・清音の部類ですよね。
というわけで,
いわゆる騎馬民族派の人は,
むしろ「山門」(熊本など)に注目すべきか?
# ま,狗奴国とか。
元の発言 [ Re: 邪靡堆 ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 12月11日(火)18時47分20秒 ]
>>ところで「堆」が「イ」と発音する可能性についてはどうでしょう。
>>3,4世紀ころ「イ」、「タイ」の両方の読みがあって、范曄が見た資料に「堆」の字が存在していてこれを范曄が「臺」と書き改めたのかも。
『基本的に偏が相違するだけの漢字は上古に同じ音で読まれていたと考えてよい』そうです。
『複数の音があるといっても、去声と入声の違いや、声母の清濁や、同じ調音点の別の音韻などのような違いで「違う音」であることが多いのでこれらは、上古音では、「非常に近い音」である』そうです。
3,4世紀ころ「イ」、「タイ」の両方の読みがあった可能性は低いのではないでしょうか。
元の発言 [ Re: 「邪馬壹国」は、“ヤマト”とは読めない ] お名前 [ 大場嘉門 ] 日付 [ 12月7日(金)17時24分22秒 ]
>> な〜んだ。九州王朝のことだったんですか。
>> このスレッドで「隋書は?」っていうから、「?」はてっきり「有阿蘇山」の「都於邪靡堆」のことかと早とちりしてしまいました。
#難解で、す。解説していただけますか。
皆さんの大和論、色々興味深い物が有るのですが、
なんか、前提条件が正しいのかと言うような気がしてきました。
まず、縄文の言葉は、どんなでしょう?
一説によると、 山 は ダマ 星 は ボジ に近いものであったといいます。
ほんとかどうかは、また別にして、本とにその時代の言葉は、単一に近い物なんでしょうか?
公用語に近い物はあったと思いますけど、幾つかの言葉が使われていたと考える方が、自然では?
では、複数の言葉を話すとして、マザータングと言う物が、中心の言葉に影響していないはずもありません。
邪馬台国が、連合国である事に、反対は、ないでしょう。
だとすると、縄文、中国、朝鮮また最近言われてる雲南やベトナム方面またインド辺り、
これだけの言語が、融合過程にあり、各個人の中心的な言語に影響する状況で、
公用語、にも影響してきませんかね。
個人個人で?
元の発言 [ Re: Title 謎とき 日本合戦史 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 12月10日(月)09時53分47秒 ]
おもしろいかもしれませんが、、、
矢は撃ったら無くなるのでね。そんなにたくさんの矢を
一人ずつもっていたのでしょうかね?
武器は飛ばしたら使い物にならないので、
何度でも使えることが必要だと思うのだが、、、
確かに先陣は弓が主体になると思うのだが、そんなに
矢はねらって当たるものでもないと思いますが。
ちょっと信じられないな。
元の発言 [ Re: 邪靡堆 ] お名前 [ 大場嘉門 ] 日付 [ 12月12日(水)12時16分37秒 ]
>> 『基本的に偏が相違するだけの漢字は上古に同じ音で読まれていたと考えてよい』そうです。
つまり「惟、維、帷」などの「イ」と「堆、推」の「タイ」その他、「スイ」「シュン」とかも「シ」「チ」とか、
「旁-つくり」が同じなら元は同じ音で読まれていた?
いずれも「i」を含んでいますね。
>> 『複数の音があるといっても、去声と入声の違いや、声母の清濁や、同じ調音点の別の音韻などのような違いで「違う音」であることが多いのでこれらは、上古音では、「非常に近い音」である』そうです。
>> 3,4世紀ころ「イ」、「タイ」の両方の読みがあった可能性は低いのではないでしょうか。
「タイ」も「ッァイ」のようにタは非常に弱く発音されて「ュイ」と近かったとか。
ありえないのでしょうか?
元の発言 [ Re: 邪靡堆 ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 12月12日(水)14時12分57秒 ]
>>「旁-つくり」が同じなら元は同じ音で読まれていた?
『基本的に』は、ということだと思います。
>>「タイ」も「ッァイ」のようにタは非常に弱く発音されて「ュイ」と近かったとか。
>>ありえないのでしょうか?
周代の上古音ではありえないと、おにりんさんが上にレスされています。
後の時代の両読文字は、漢代においても、両読文字であったと見るべきだということですから、漢代の上古音では“ありえない”とは断言できないということだろうと思います。
#すみません。この辺りについては、おにりんさんが詳しいので、そちらに振ってください。おにりんさん、よろしく。
元の発言 [ Re: 「邪馬壹国」は、“ヤマト”とは読めない ] お名前 [ EK ] 日付 [ 12月12日(水)12時24分14秒 ]
>> #難解で、す。解説していただけますか。
ディープに取らないでください。
下の「邪靡堆」の“前振り”とでもお考え下さい。
元の発言 [ Re: Title弥生の日本語 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 12月12日(水)13時32分48秒 ]
>>
>>
>>
>>
>>
>> では、複数の言葉を話すとして、マザータングと言う物が、中心の言葉に影響していないはずもありません。
>> 邪馬台国が、連合国である事に、反対は、ないでしょう。
>> だとすると、縄文、中国、朝鮮また最近言われてる雲南やベトナム方面またインド辺り、
>> これだけの言語が、融合過程にあり、各個人の中心的な言語に影響する状況で、
>> 公用語、にも影響してきませんかね。
>> 個人個人で?
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
只、まだまだ、流入は、続いてる最中でしょう?
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
邪馬台国が、祭政国家連合であれば、宗教カリスマで、
祭政、葬送儀礼、他は、変化中であると考えて良いのでは?
西洋で言えば、キリスト教への改宗に近い物を、考えれば、簡単に説明できるのでは?
女王の、それあっての、邪馬台国だったのではないですかね。
>>
>>
>>
>>
>>
>>
流入民毎の集落があったと考えると、それ毎の言葉があっておかしくない様に、思えますが。
実際、そんな村の話は、明日香辺りまで合ったでは、ありませんか
元の発言 [ Re: 邪靡堆 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 12月12日(水)13時22分56秒 ]
>>
>>
>>
>>
おにりんさんも、先に「山処」ありきでしたか。
>>
>>
>>
“「臺」は首都を表すというような意味”とは、
「復、立卑彌呼宗女壹與、年十三爲王、國中遂定。政等以檄告喩壹與。壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人、送政等還、因詣臺。」の臺を指してのことですよね。
古田氏は、だから、これを夷蛮の国の名に使うはずはない、と言う。
おんりんさは、だから、「邪馬臺国」は「邪馬の臺国」という意味で考えてもおかしくはない、と言う。
これだから、おもしろいんですよ。この「大論争」が。
ところで、ここに連続して出てくる壹與も、邪馬壹国と同じく版本魏志の誤刻とされています。
元々の魏志は邪馬臺国、臺與とあったということでしょうが、最後の最後になって詣臺の臺だけが誤刻されていないのは、どう考えたら良いのでしょう。
元の発言 [ Re: 邪靡堆 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 12月12日(水)13時20分04秒 ]
おんりんさん、教えてください。
>>
>>
>>
>>
>>
仮に、「邪馬壱」という語彙があったとして、
入声韻尾の子音があった当時の中国人は、yamaitを(ヤマイッ)と促音で発音できたのでしょうか。
それとも、yamaitでは発音のしようがなかったのでしょうか。
元の発言 [ Re: 邪靡堆 ] お名前 [ 大場嘉門 ] 日付 [ 12月12日(水)12時13分01秒 ]
大場嘉門さん こんばんは
まず始めに、お詫びと訂正をいたします。
「学研漢和大字典」で、話題となっている文字の上古音−中古音を再確認したところ、以下のとおりでした。ページは、初版のものです。
邪(1343ページ)Giag-(yia)-zia、もしくはGiag-yia[Gは鼻濁音のgです]
馬(1498ページ)mag-ma(mba)
靡(1458ページ)mI6r-mIe
臺(206ページ)d6g-d6i
堆(278ページ)tu6r-tu6i
というわけで、「邪」の文字は、中古音で「じゃ」と「や」と両方に読めました。それと「靡」の音は、「み」もしくは「め」でした。先に書いたものは、以前にメモったものを元にして書いたのですが、すっかり間違えていました。すみませんでした。
>> 中古音では「邪」は「じゃ」としか読めないから、邪馬臺・邪靡堆の表記の成立は、「邪」を「や」と発音した上古音の魏晋の時代というわけですね。
#というわけで、「邪馬臺」のほうは後漢書に書かれているので、魏晋の時代というのは確かですが、「邪靡堆」の表記が隋代に成立した可能性があるということになります。
>> 問題は“読んだ人にはわかりにくいかな?”ってことで、どうして魏徴は後漢書・魏志共にいう邪馬臺から、時代的には前代になる後漢書ではなく魏志の邪馬臺をチョイスしたか、ということです。
#これは、「後漢書より三国志のほうが広く読まれていて有名だったから」というだけじゃだめなんでしょうか。
>> 上のスレッドにある紀さんの『邪馬壹(臺)国は“壹(臺)国の中の邪馬の地”を表しており、「ヤマト」という地名を表しているのではない』とのご意見については、どう思われますか。
#三国志の中に三字以上の地名はいっぱいありますから、特に「邪馬臺」で一つの地名と見てもおかしいとは思えません。「高句麗」は「麗国」の中の「高句」じゃないですし、「弁辰狗邪国」は「狗邪国」の中の「弁辰」ではありません。
それに、韓やワイは、そういう国・地域があったということが魏志の中に書いてありますが、「壹(臺)国」については他に記述がないと思います。
元の発言 [ Re: 邪靡堆 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 12月11日(火)23時57分49秒 ]
こんばんは
#読んだのは、「日本の古代1 倭人の登場」(中央公論社)でした。
>>
>>
>>
>>
>>
本書の中に森博達氏の文で、『上代特殊仮名遣は位置論の決め手とはならない。「山門」の「ト」が甲類であったとは断言できないからである。「山門」という表記は字訓または字義によったものであり、音仮名ほど明確に甲乙ニ類が書き分けられない。実際、田中卓氏(「邪馬台国の所在と上代特殊仮名遣」『国語・国文』二四−五)の指摘するように、『播磨風土記』美嚢郡の条には「針間国之山門領」とあり、筑後山門と同じ用字で畿内大和が表記されているのである。』
とあります。大分記憶と違っていましたが、発音上、筑紫「山門」=畿内「大和」の可能性があるという内容はあってました。ちなみに「播磨風土記」の成立時期は諸説があるようですが、記紀とそれほど違わない時期とみてよいみたいです。
元の発言 [ Re: Titleわが国最古、奈良・箸墓古墳周濠跡から木製馬具出土 ] お名前 [ おにりん@実は京阪奈 ] 日付 [ 12月6日(木)21時26分05秒 ]
本日ソウルから帰朝した湖南です。
卑弥呼の鬼道 = 弥生時代以来の首長霊祭祀 + 中国道教
#そりゃ、習合!
失礼!! _(__)_
元の発言 [ Re: 邪靡堆 ] お名前 [ 大場嘉門 ] 日付 [ 12月11日(火)12時20分27秒 ]
なるほど。
「則魏志所謂邪馬臺者也」を
「魏志には邪馬壹となっているが、
魏志にいう邪馬壹は邪馬臺である」
と解釈されているわけですね。そういうことですか?
「奈良県桜井市箸中の前方後円墳、箸墓(はしはか)古墳の周濠(しゅうごう)跡から古墳時代前期(3世紀末―4世紀初め)の木製輪鐙(わあぶみ)が出土したと、同市教委が30日、発表した。馬具としては国内最古で、現存する鐙では世界最古と見られる。わが国の乗馬の始まりを100年近くさかのぼらせる発見で、4世紀後半―5世紀初めごろに、朝鮮半島の騎馬軍団に対抗するため導入したとする通説は見直しを迫られることになりそうだ。」読売新聞12/1
と言う事は箸墓が卑弥呼の墓である可能性は完全になくなった事になります。
元の発言 [ Re: Titleわが国最古、奈良・箸墓古墳周濠跡から木製馬具出土 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 12月3日(月)01時35分19秒 ]
>> 前のスレにも書きましたが、今回は周濠の底のほうから出たと言う訳で勝山の木片とは違って築造から年代を経ずに投棄された、
>> または流入したと考えていいと思います。
>>
>>
>>
例えば同じ所から布留0式と布留1式が出てきたらそこは布留1式が正しい年代なのです。
なんと言っても一番底から出てきたので築造から20年、30年後の流入は考えられません。
>>
>>
>>
西晋時代に伝わったとしてもおそらく晋での発明が265年と言う訳ではなく270年から280年で、更に中国で普及するのに20年位、
日本に伝えられるのはそれ以後のことでしょう。
>>
>>
>>
>>
>>
当時、馬を日本まで送ると言う事は一大事業ですから、日本に馬を送ればそのような記述が晋書などに記載されてもよさそうな気がします。
>> 写真で見る限り実用品で飾りにはならないし、使い古しで壊れたので捨てられたように見えます。
ですからこれは晋の皇帝から邪馬台国に贈られた物ではありません。
民間レベルで、あるいは騎馬兵士と共にやって来た物です。
日本に来る前に死んでしまう可能性が強い神経質な馬の海上移送です。
国と国の交流での贈り物としては最も適さない物でした。
騎馬兵隊なら馬は必需品ですから死ぬ可能性が強くても運ぼうとしたかも知れません。
馬が日本に来たのは馬を必需とする人間が駄目元で運んだからでしょう。
>>
>>
よーするに、騎馬民族来朝が三世紀末か四世紀だった可能性がでてきたわけです。
元の発言 [ Re: 邪靡堆 ] お名前 [ 大場嘉門 ] 日付 [ 12月12日(水)18時44分09秒 ]
むかし,台湾の方が書いた畿内説の本があって,
「邪馬壱」だと中国語なら「やまいっ」となるから不可,
「邪馬台」が正しい,とあったような・・・。
(記憶曖昧)
元の発言 [ Re: 倭姫命世記(Re: 弥生後期の「伊勢遺跡」) ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 12月13日(木)01時09分15秒 ]
>>
そんじゃ,ま,ちーと解毒じゃない解説。
ところで,真面目に検討してみると,
意外に面白いですねー。>卑弥呼=豊鍬入姫命説
昔の喫茶店なんかでの議論では,
けっこう支持が多かったが,
一般書となると論者は二人か三人という・・・。
そんで,
たいていやっぱり,
男弟=活目尊(垂仁)とできる点が魅力。>纏向珠城宮
兄の豊城命は,もともとは祭祀関連のフシがあるが,
東国支配が実は東海で後に関東へ,とか?
倭国の乱の所に,欠史数代を振り込めば,
これぞ歴年主なしふう。
卑弥呼共立の謂われは,
大和,吉備,東海,山陰,近江等の勢力間で,
天照大神の御神体を共有化する必要に迫られたからで,
崇神天皇は実は圧力に屈服。
これぞ伊勢祭祀の起源。
ついでに,豊受大神が天照大神に奉仕する形となるから,
3世紀初頭において,
外宮と内宮の原型があったことになりますねー。
台与なんかは倭姫命だとぴったりきそうですが?
倭迹迹日百襲姫命は,大田田根子と共に,
孝霊・孝元紀辺りのフォルダに解凍 unzip すれば,
ま,唐古・鍵先遣隊による三輪の地元神祭祀ですかー,単なる。
(^◇^)/~
ついでに茶髪な,いや,奇抜な奇想を一つ,それは,
「天照大神は太古,銅鐸神だった。」というもの。
珠というより銅鐸を鳴らしていた,と。
岩戸隠れは埋納儀礼,
岩戸開きの時,時代の要請を受けて,
鏡の神へと変容。
錆びた銅鐸のままなら勝てると踏んだスサノヲが
,
真新しい鏡に変身した天照大神の輝かしさを見て,
ずって〜んころりん。
いや〜,岩戸というのは人間鋳型だったんですねー。
# やっぱ国産では? >御神体
元の発言 [ Re: Title 謎とき 日本合戦史 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 12月12日(水)11時24分33秒 ]
>> 回収する為には敵陣に接近するわけですよね?そうすると白
>> 兵戦になるのでは?
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
そういう記録があるのですか?
あったとしても、そこまでいったら白兵戦になる可能性が高
いのではないですか。敵だって馬鹿じゃないんですから、矢
を拾っている間に、逃げるとか反撃するとかするでしょう。
>> 無理でしょうね。弓どころか第二次世界大戦でも接近された
>> ら白兵戦なんですから。
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
銃剣突撃だけが白兵戦でもないでしょう。
第二次世界大戦では、ドイツ軍とロシア軍が銃剣やスコップ
まで使ってかなり激しい白兵戦をしているはずですが。
今でも自衛隊は銃剣道やってますね。
名前は忘れましたが、日本人の元傭兵が射撃の後に銃剣で刺
す訓練をしないと駄目だと何かに書いてましたが。
日本軍の敗因は、飛行場の建設場所が悪かったり、米軍の新
作戦を予想できなかったり、基地建設能力、補給能力が低か
った為でしょう。というかそれ以前に国力の差が大きいです
ね。
白兵戦というのは敵に接近した時に行うものでしょう。
前にも書きましたが、無謀な銃剣突撃は、基本的に撤退も降
伏もできなかったからやったのであって、敗因とは言えない
でしょう。
元の発言 [ Re: Titleわが国最古、奈良・箸墓古墳周濠跡から木製馬具出土 ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 12月3日(月)00時28分42秒 ]
>> 普通に考えれば箸墓は布留1の時代に築造された事になるのでしょう。
墳墓の調査からは布留0の時代とされています。
周濠は清掃された可能性もあるし。
>> >> 鐙が西晋の発明というのは、単に現在確認されている最古の鐙が、4世紀の西晋時代のものだからで、それ以外の根拠はありません。
>> 西晋時代の遺跡から沢山発見されそれ以前には一個も見つかっていなければ西晋時代に作られたと考えるのが素直だと思います。
西晋時代に2−3箇所ですか。
あと今回のように怪しいものをふくめると、後漢代にもあります。
それほど出土例はありませんよ。
日本の土器の編年とは、質量ともに比較になりません。
私のように馬具にも関心の有る向きには、他の方法で年代を決定するのが妥当と思います。
とてもそれ自体で年代をうんぬんできるものではありません。
また前述しましたが、革製の鐙状のものは紀元前に南方で生まれています。
今回の木製輪鐙のようなものは、江南生まれではないでしょうか。
私自身は、西晋が呉を滅ぼしたあと、馬に乗りなれない江南人が作ったものかなと思います。
同じく馬に乗りなれない倭人が試しに乗るにはよいものかも知れません。
木製ですから磨り減るのも早いでしょうし、(可動部ですから)他の中国文物が、中国の流行からそう遅れることなく入っていることを考えると、箸墓形成の次の時代に西晋から入ってきて、早々にあきられたと見たいですが。
これはほとんど消耗品でしょう。
>> 列島に馬がいたにしても邪馬台国では飼育されていなかった事は確実でしょう。
>> 「西晋のやり方をまねて、試しに乗ってみる」事が行われたにしても265年よりかなり後の事です。
すると布留1が西晋代で、箸墓の布留0はそれ以前になり、年代的には問題ない。
>> 布留1の土器と一緒に出てきたのですから箸墓の築造はむしろ4世紀が確定したといっていいのではないでしょうか?
寺澤氏などの幾度かの調査で布留0とされていますね。
本当に箸墓=卑弥呼の墓説を取りたい人は、以前はなんとか庄内期に引き上げたがっていたようですが。
ちなみに寺澤氏は初代男王の墓説のようです。
布留1が西晋代なら、布留0(箸墓)は魏代の可能性もありますね。
定説の寺澤編年どうり、布留0=280年前後なら、布留1は3世紀末か4世紀初頭かで、何にも矛盾はなさそうです。
布留0=250年でも、特に支障は感じません。
元の発言 [ Re: Title 謎とき 日本合戦史 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 12月13日(木)00時29分39秒 ]
>> 確かに先陣は弓が主体になると思うのだが、そんなに
>> 矢はねらって当たるものでもないと思いますが。
>>
>>
鎧というのは、白兵戦だけ考えて作っている訳ではなく、飛び
道具対策でもあります。
特に、平安時代の大鎧は白兵戦より矢を意識した作りになって
ますから、そんなに当たらない、というか当たっても効果が低
いでしょう。
狙って射る場合は、鎧の隙間を狙うくらいですから。
元の発言 [ Re: Title 謎とき 日本合戦史 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 12月13日(木)00時56分48秒 ]
>> 戦国時代、弓は基本的には足軽の武器でしょう。騎兵の武器
>> ではないです。実際、合戦に参加した黒田長政の指示で製作
>> された、大坂夏の陣、冬の陣図屏風を見ても武士は槍で戦っ
>> ています。弓を使う武士がいなかった訳ではありませんが。
>>
>>
>>
>>
平安時代の主力は弓ですね。
これは昔からそう言われてなかったですか?
軍記物でもそうなってますし。
軍記物では平安末期(源平合戦)になると、弓が主力とは言
え白兵戦の記述が以前より増えますが。
また、軍記物によると、『盾突戦は度々したれども、馳組戦
はこれこそ初めなれ、何様にあふべきぞ』とあります。
盾突戦とは盾に隠れて集団で矢を射る事。馳組戦とは騎射戦
のことで、騎射による一騎打や、白兵戦が戦の中心という考
え方とは反対の事が書かれています。
>> また、一番槍、七本槍等の称号が使われていますから、足軽
>> はともかく槍が武士の象徴的な武器であった事は間違いない
>> でしょう。弓取りという称号も残ってはいましたが、少ない
>> です。
>>
>>
>>
違うでしょうね。
そういう使い方をまったくしなかった訳ではないでしょうが、
号令をかける道具として軍配がありますからね。
それに、何とか槍とかいう称号は大将の称号ではありませんよ。
実際に、槍で敵を倒した人の称号です。
>> 刀については応仁の乱の少し前に、一番の太刀打ちという表
>> 現があり、この時代は南北朝の少し後ですから、やはり南北
>> 朝時代は刀による戦いが重視されていたのでしょう。少なく
>> とも武士の間では。
>>
>>
では何故、元軍の革鎧に不利だったという理由で、日本刀が
変化するのでしょうか。
>> この流儀は戦国時代に創始されたと書いたはずです。
>>
>>
>>
誤解とは何ですか。
>> それに、剣術、槍術、薙刀術などはどう考えても白兵戦じゃ
>> ないですか?鎧を付けた状態を想定していないと言われるか
>> もしれませんが、鎧なしの剣術は素肌剣術、鎧ありの剣術は
>> 介者剣術といって、戦場技法があります。
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
剣術は広く行われていたでしょう。
基本的に武士は常に帯刀しているのですから。
実際、真壁闇夜軒とか富田重政とか色々いますね。
>> 松本備前守は、祓の太刀の名人で、生涯で取った首の数は6
>> 7と言います。
>> 新陰流の開祖、上泉伊勢守はもと戦国武将で、武田信玄の軍
>> 勢と何度も戦ってします。
>>
>>
>>
弓が中心なら、弓術の流儀を創始するでしょう。
でも、実戦で活躍した名人達が白兵戦の技術を残しているの
です。弓術の流儀もありますが少ない。
>> そうなってくると、以前議論した膨大な数の数打の存在を説
>> 明できなくなりますね。
>>
>>
>>
>>
>>
鎌倉時代の刀はあまり残っていませんが、これは戦場で失わ
れたのでは?
戦国時代になると、鎌倉以上に大量生産されたので残ってい
るのでしょう。
>> それだけで、正式に日本剣術を学んだ倭寇に対抗する事は出
>> 来ませんから、補助的な武器だったようですが。
>> その為、倭寇討伐指揮官である戚継光は、集団戦法である鴛
>> 鴦陣を編み出しています。
>>
比較の問題というのはどういう意味でしょうか?
>> 日本刀信仰というのが何を指すのか分かりませんが、昔から
>> 刀を特別な物と考えていたのは間違いないでしょう。
>>
具体的にどういう意味ですか?
>>
>>
>>
>>
>>
平安時代は、軍記物でも弓の記述が中心ですね。
>>
>>
>>
>>
戦国の戦いでは、足軽部隊と武士団は完全に役割が違います。
弓、鉄砲足軽が攻撃し、次ぎに長柄足軽(足軽槍隊)が出る。
そして、最後に決戦兵力(白兵戦兵力)としての武士団とい
う形が基本だったようです。
騎乗したまま戦う事もあったでしょうが、基本的には武士団
も徒歩でたたかったと思われます。そして、1人1人の武士
には従者が付いて、主と一緒に戦う。
私が言っている激戦とは、決戦兵力である武士団と武士団が
激突するような戦いの事です。
しかし、そのような戦いは少なく、足軽隊や少数の武士によ
る小競り合いだけという戦が多かった。だから、矢傷の記録
が多いという事ではないかと。
このような形になったのは、農民を動員するようになったか
らだと思われます。
足軽はもともとは、普通の農民ではなく野武士であり、一種
の傭兵、ゲリラ兵的な存在であり、正規軍とは別行動をとる
ことが多かったようです。
それが、応仁の乱の頃から正規軍と一緒に行動するようになり、
応仁の乱を実際にみた僧の日記『碧山日録』によると、東陣
に精兵の徒三百余人あり、足軽と号す。甲を環せず、戈をと
らず、只一剣を持って敵軍に突入す。とあります。
この時点では、まだ野武士集団でしょうが、戦国時代になる
と農民が足軽として動員されます。
武士団の場合、撤退とか突撃とか大雑把な命令はあっても、
散開してそれぞれ個人的に戦っていたのですが、これは子供
の頃から戦闘のプロとしての教育を受けていたからです。
それに対して足軽(農民)は、そいう戦い方はできませんか
ら、徹底した集団戦になります。密集隊形で奉行(足軽隊の
指揮官)の号令に合わせて、攻撃する訳です。
>>
そうですね、読んでみます。
元の発言 [ Re: Title 謎とき 日本合戦史 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 12月12日(水)10時44分07秒 ]
>> いや、命中率は低いでしょう。
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
日本では城攻めが多かったですから、狙って撃ったとは限
らないのではないですか?
砲術が生れた国ですから、外国よりは狙って撃ったのかも
しれませんが。
>>
>>
>>
戦国はともかく、江戸時代の日本には変った銃が色々あり
ますからね。連射銃がなかったかどうか。
砲術の人によると、黒船がこなくても日本の銃は数十年あ
れば恐らくヨーロッパに追いついたであろう、と言ってた
りします。まあ、火縄銃には詳しくないので正確には分か
りませんが。
元の発言 [ Re: 邪靡堆 ] お名前 [ 豊玉 ] 日付 [ 12月12日(水)20時15分54秒 ]
>> 「則魏志所謂邪馬臺者也」を
>> 「魏志には邪馬壹となっているが、
>> 魏志にいう邪馬壹は邪馬臺である」
>> と解釈されているわけですね。そういうことですか?
そういうことです。
元の発言 [ Re: 邪靡堆(おわびと訂正) ] お名前 [ マルセ ] 日付 [ 12月12日(水)18時49分09秒 ]
マルセさん こんにちは
>> というわけで、「邪」の文字は、中古音で「じゃ」と「や」と両方に読めました。
ということなら、漢代の上古音でも「じゃ」と「や」の両読みということですよね。
邪馬臺を「やまと」と読むのは、恣意的ということになりませんか。
「濁音から始まるやまと言葉はない」ということは、おにりんさんが、「半母音的な、ya [ja] というのについて、子音の[j] が、[d3] のような摩擦をともなったものであった可能性はある。」と、否定されていますから。
>> #というわけで、「邪馬臺」のほうは後漢書に書かれているので、魏晋の時代というのは確かですが、「邪靡堆」の表記が隋代に成立した可能性があるということになります。
南朝宋の時代の後漢書に「邪馬臺」と書かれていると、どうして、この表記の成立が魏晋の時代で“確か”なのですか。
どうして、「邪靡堆」の表記が隋代に成立した可能性があることになるのですか。
>> #これは、「後漢書より三国志のほうが広く読まれていて有名だったから」というだけじゃだめなんでしょうか。
ウ〜ン。そう来ましたか。
この三国志は、羅貫中の「演義」のことでは勿論ありませんよね。
隋書は皇帝の詔によって正史として批准されているのですから、三国志が「有名」だったからというだけで、後漢書の邪馬臺国の存在が消されてしまうのでしょうか。
この大論争の管理人さんの※おわびと御注意※中に「承前」とありますよね。
この語の由来は史書は前史を承け継ぐということにあります。(管理人さんが敢えてこの語をつかうのも、大論争が古代史中心ということを意識してのことだと思います。多分、、、。)
後漢書倭伝が魏志倭人伝に依っていることは明らかですが、それでも魏志の前史として(魏志が後漢書を承前しているように)描こうとしています。
後漢書の邪馬臺国の存在を消してしまうと、皇帝自らが承前の原則を否定してしまうことになるのではないでしょうか。
>> #三国志の中に三字以上の地名はいっぱいありますから、特に「邪馬臺」で一つの地名と見てもおかしいとは思えません。
やっぱり、「やまと」の音訳ということですか、、、
元の発言 [ Re: 邪靡堆 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 12月12日(水)21時49分36秒 ]
>>
>>
そうなんですが、、、
全ての版本魏志が邪馬壹国ですからね。
この意味では一箇所だけではない。
>>
>>
>>
>>
そうですね。
せめて、「邪馬壹」が二箇所でも出ていれば、、、
それでも駄目か。
三カ所出ている壹与も、全てが誤刻とされちゃうんだから。
元の発言 [ Re: 邪靡堆 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 12月12日(水)21時15分44秒 ]
>>
>>
>>
ということでであれば、
中国人には「邪馬壱」を(やまいっ)と発音できるのですから、版本魏志にみられる邪馬壹は、中国人が作った語彙の可能性もあるということですよね。
これを(やまと)に当てようと、“当時の日本語の音訳である”という前提でしか捉えてこなかった、これまでの考察に問題があるのかも知れません。
そもそも、日本語に促音が当時あったとも思えません。から、、、
元の発言 [ Re: Title 謎とき 日本合戦史 ] お名前 [ 景虎 ] 日付 [ 12月13日(木)10時43分52秒 ]
以前NHKで紹介された、雑兵物語と言う書物があるそうですね。
一度読みたいと、思っていますが、手に入らない物で、
NHKが、その番組で行った、実験では、高い実用性が証明されたように感じられたんですが。
くだんの件の書物には、この雑兵物語は、どの様に紹介されているのでしょうか。
また、討論の内容からすると、なんか、その番組の中で読まれた内容、よく覚えていないのですが、違和感があります。
元の発言 [ Re: Title弥生の日本語 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 12月12日(水)21時44分54秒 ]
>> 只、まだまだ、流入は、続いてる最中でしょう?
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
なんか違和感があります。
動乱の、三国志の時代ですよ、証拠が無いので破傷がないですが、状況からしてチョット信じられないですね。
それに、少ないのと無いのでは、大きな違いです。
>> 邪馬台国が、祭政国家連合であれば、宗教カリスマで、
>> 祭政、葬送儀礼、他は、変化中であると考えて良いのでは?
>> 西洋で言えば、キリスト教への改宗に近い物を、考えれば、簡単に説明できるのでは?
>>
>>
>>
統一などされていないと考えます。
公用語に近い物があるかどうか、という事でしょう。
大体、ヨーロッパの状況をみれば、700年程度でどの位のもんですて言う事です。
文化的にも特に、抜き出た部族があるのかも疑問ですし、
太平洋の部族社会の交易と言語の状態を見れば一目両全だと思いますね。
中国の様に、強力な封建制があるのかも疑問です。
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
それ自体、報告者が知らないだけと言う疑いの方が濃厚ですね。
大体、玄界灘辺りでは、同じような習慣を持つ人たちが、住んでいた気配があると言う事なのだから。
方言どころか複数の言語が介在状態だと考えた方がよいとおもいますね。
話す人たちが、複数の言語で話し理解していれば、一つの言語と思うではないでしょうかね?
会話してる人たちが、複数の言語である事を明確に分離して理解してれば。
第一階層が違えば、言葉が違うのは予来る話しだし。
>>
>>
>> 流入民毎の集落があったと考えると、それ毎の言葉があっておかしくない様に、思えますが。
>>
その前提、自体がおかしいのではないかと思いますがね。
実際、工人集団の説だってあるのでしょう?
>> 実際、そんな村の話は、明日香辺りまで合ったでは、ありませんか
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
それ自体が、怪しいですね。
使わなきゃ忘れるでしょうが。
元の発言 [ Re: 邪靡堆(おわびと訂正) ] お名前 [ 大場嘉門 ] 日付 [ 12月13日(木)13時53分59秒 ]
こんばんは
>> ということなら、漢代の上古音でも「じゃ」と「や」の両読みということですよね。
#「邪」の上古音の「Giag(ngiagと書いたほうが良かったですか)」という音は、鼻にかかった感じで「や」と発音した音であって、「じゃ」ではないと思うんですが。
>> 邪馬臺を「やまと」と読むのは、恣意的ということになりませんか。
>> 「濁音から始まるやまと言葉はない」ということは、おにりんさんが、「半母音的な、ya [ja] というのについて、子音の[j] が、[d3] のような摩擦をともなったものであった可能性はある。」と、否定されていますから。
#魏の時代の倭人たちの発音は「やまと」と微妙に違っていたかも知れませんが、後の時代に倭人たちから「やまと」と呼ばれる単語を表していたと見て、特に不都合はないようですが。
>> 南朝宋の時代の後漢書に「邪馬臺」と書かれていると、どうして、この表記の成立が魏晋の時代で“確か”なのですか。
#范曄の見た魏志には「邪馬臺」と書いてあったので、范曄は後漢書に「邪馬臺」と書いたんじゃないんでしょうか。もし、別の表記(例えば邪馬壹)で書いてあったのなら、なんらかの注をするのが普通と思います。范曄の見た魏志は、オリジナルだったか写本だったかはわかりませんけれど、魏晋の時代のものの可能性が非常に高いといっていいんじゃないでしょうか。確かに、「確か」とはいえませんけれど。
>> どうして、「邪靡堆」の表記が隋代に成立した可能性があることになるのですか。
#舌足らずだったですか。
隋代に限定されるという意味ではなくて、隋や唐の時代という中古音が使われた時代かもしくはそれ以前の上古音の使われた時代のどちらかの時期に成立したのだろうという意味で書きました。
「邪靡堆(たぶん本当は邪摩堆)」のほうは、「邪馬臺」より後に成立した表記であって、後漢書の李賢の注から考えると、唐の時代には、こちらのほうが一般的に使われていた表記であるっていうことでしょうね。
>> 隋書は皇帝の詔によって正史として批准されているのですから、三国志が「有名」だったからというだけで、後漢書の邪馬臺国の存在が消されてしまうのでしょうか。
>> 後漢書の邪馬臺国の存在を消してしまうと、皇帝自らが承前の原則を否定してしまうことになるのではないでしょうか。
#よくわかりませんけれど、後漢書と魏志と両方に「邪馬臺」の表記があったら、大場嘉門さんのいう承前の原則があったとしても、より新しい時代を記述した魏志のほうから引用するのが自然ということにはなりませんか。
元の発言 [ Re: Titleわが国最古、奈良・箸墓古墳周濠跡から木製馬具出土 ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 12月3日(月)08時43分34秒 ]
>> よーするに、騎馬民族来朝が三世紀末か四世紀だった可能性がでてきたわけです。
あんまり資料が無いのでなんともいえませんが、三世紀末か四世紀の騎馬民族が、馬に乗るためだけの、片側鐙を使っていたとは思えません。
これは南方系の発明とされています。
むしろこんなものが出てきたことは、騎馬民族とのかかわりの薄さを示しているのでしょう。
元の発言 [ Re: 卑弥呼=豊鍬入姫命説(Re: 倭姫命世記) ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 12月13日(木)09時21分13秒 ]
>>
崇神天皇の場合,男王の系譜かもしれないが,
少し影が薄かったかもしれないです。
三輪の神祭祀の件では,
大田田根子と倭迹迹日百襲姫命を立てる役,
後には,垂仁天皇と豊鍬入姫命の父としての役,
という形になりますね,この場合。
垂仁が補佐していたのは崇神かもしれないし。
>>
>>
はい。今んとこ,台与=豊鍬入姫命として,
その前に,もう一代もってきたほうが,
すっきりはするでしょうね。
ただし,豊鍬入姫命を卑弥呼とすれば,
生年210年代以前に遡らせることもできる,
また,倭迹迹日百襲姫命の場合,伝承からは,
死亡時の年齢が実は若かったのではないか,
とも考えられます。
それで,親子関係から,
フォルダを移して解凍する技を使ってみる。
すると,唐古・鍵勢が,三輪辺りに先遣隊を送り,
三輪の神を祀り始めた相が見えてくる。
諸勢力との妥協・懐柔後に,
豊鍬入姫命を卑弥呼として共立。
>>
>>
銅鐸といっても元は九州。
まずは銅鐸を御神体とする旧天照派が,
出雲や畿内などの分布圏へ広がり,
その後,銅鏡を御神体とする新天照派が,
瀬戸内・畿内へという線。
旧天照派はイザナキと未分化な要素を含むかも。
>>
>>
>>
ちょっと語弊はありましたが,
それは伊勢神宮がある場所での起源でしょ。
度会氏が祀っていたという南伊勢の太陽神。
通説では,これが外宮に転じているんです。
ただ,これも九州起源かもしれないです。
皇室は皇室で,何かを祀っていたわけで,
卑弥呼=豊鍬入姫命とすれば,
倭人伝の記述の中に既に,
外宮・内宮の形態が見られるかもしれない,と。
>>
>>
>>
>>
それは確か,律令期における,
日神の位格と「アマテラス」という御神名の問題です。
銅鐸を収穫祭の後で埋納し,
春が来ると掘り返して祀るとか,
そういうことはあったかもしれないですよねー。
銅鏡のほうがナウい,ってんで,替えたんでしょー。
元の発言 [ Re: Titleわが国最古、奈良・箸墓古墳周濠跡から木製馬具出土 ] お名前 [ ピクポポデミ ] 日付 [ 12月3日(月)09時44分48秒 ]
>> 墳墓の調査からは布留0の時代とされています。
>> 周濠は清掃された可能性もあるし。
内部の発掘が待たれます。
>> >> 西晋時代の遺跡から沢山発見されそれ以前には一個も見つかっていなければ西晋時代に作られたと考えるのが素直だと思います。
>> 西晋時代に2−3箇所ですか。
>> あと今回のように怪しいものをふくめると、後漢代にもあります。
>> それほど出土例はありませんよ。
>> 日本の土器の編年とは、質量ともに比較になりません。
>> 私のように馬具にも関心の有る向きには、他の方法で年代を決定するのが妥当と思います。
>> とてもそれ自体で年代をうんぬんできるものではありません。
>> 同じく馬に乗りなれない倭人が試しに乗るにはよいものかも知れません。
>> 木製ですから磨り減るのも早いでしょうし、(可動部ですから)他の中国文物が、中国の流行からそう遅れることなく入っていることを考えると、箸墓形成の次の時代に西晋から入ってきて、早々にあきられたと見たいですが。
>> これはほとんど消耗品でしょう。
馬具自体より箸墓築造のころ馬が畿内にいた可能性が強いことが問題だと思いますが?
>> >> 列島に馬がいたにしても邪馬台国では飼育されていなかった事は確実でしょう。
>> >> 「西晋のやり方をまねて、試しに乗ってみる」事が行われたにしても265年よりかなり後の事です。
>> すると布留1が西晋代で、箸墓の布留0はそれ以前になり、年代的には問題ない。
甲板ができ船倉が設けられる位であっても馬が暴れてしまい大変だったでしょう。
馬は邪馬台国当時の準構造船程度の船で輸送するのは全く無理だったでしょう。
馬がそんな船に大人しく乗るとは思えない。
江戸時代でさえ朝鮮通信使の日記によれば釜山から呼子まで一ヶ月かかっている。
馬では殆んど死んでしまいます。
珍しい動物を倭人に見せてやろう程度で運ぶなら牛が先です。
それでも牛ではなく馬が畿内にやって来た。
馬を運ぼうとした人は馬がなければ生きていけないと言う思いで無理して運んだのではないでしょうか。
>> >> 布留1の土器と一緒に出てきたのですから箸墓の築造はむしろ4世紀が確定したといっていいのではないでしょうか?
>> 寺澤氏などの幾度かの調査で布留0とされていますね。
内部発掘ではないですから箸墓の年代確定は未だですよね。
>> 本当に箸墓=卑弥呼の墓説を取りたい人は、以前はなんとか庄内期に引き上げたがっていたようですが。
>> ちなみに寺澤氏は初代男王の墓説のようです。
>> 布留1が西晋代なら、布留0(箸墓)は魏代の可能性もありますね。
>> 定説の寺澤編年どうり、布留0=280年前後なら、布留1は3世紀末か4世紀初頭かで、何にも矛盾はなさそうです。
>> 布留0=250年でも、特に支障は感じません。
私も土器の寺澤編年は支持します。特に根拠はありませんが。
元の発言 [ Re: 卑弥呼=豊鍬入姫命説(Re: 倭姫命世記) ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 12月14日(金)01時13分39秒 ]
>>
>>
>>
>>
台与=豊鍬入姫命という前提を元にしていません?
ま,それはいいにしても,
Alexさんだかイリヒコさんのホームページでは,
箸墓は百襲姫の墓ではないらしい,
という説だったですよね。
「卑弥呼」の墓であったとしても,
被葬者については,断定的には分からない。
また,豊鍬入姫命の場合,御陵が見当たらないような?
>>
倭人伝での問題というより,
一般論としてでした,ここは。
>>
>>
崇神紀6年に豊鍬入姫命を通じて天照大神を祀っています。
>>
>>
崇神記では意富多多泥古のみです。また,
「豊金且比売命は伊勢の大神の宮を拝き祭りたまひき。」
との但し書きがついています。
>>
>>
>>
>>
>>
ところで,あれは? 最近出たという,
内行花紋鏡と方格規矩鏡説。
柳本の天神山古墳(4世紀?)からも出ていますが。
>崇神陵に近いとか。
>>
>>
>>
>>
その銅鐸が,三輪の出雲派ということは?
倭迹迹日百襲姫命のでもいいですけど。 >神浅茅原
# イザナキの話は膨大になるので,
# 機会があればまた。
元の発言 [ Re: Title 謎とき 日本合戦史 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 12月13日(木)23時09分35秒 ]
>> そういう記録があるのですか?
>>
あのですね、拾った家が、その間々すぐ完全に使えるなんて、うそですよ。
それは、至近で咄嗟に使うなら当然でしょうけど、
そんな矢で普通に射るなんて事できません。
それは、中には、使える物もあるでしょうけどね。
まともに飛ばない事だって有るし、弓道やってる人たちでは、
射た後の矢は、ちゃんと確認しておくのが心得なんですから。
>> あったとしても、そこまでいったら白兵戦になる可能性が高
>> いのではないですか。敵だって馬鹿じゃないんですから、矢
>> を拾っている間に、逃げるとか反撃するとかするでしょう。
>>
そうなのでしょうけど、至近距離で使うものだけね、
まともに使えると思っている人は射ません。
>> 銃剣突撃だけが白兵戦でもないでしょう。
>>
>>
>>
>>
塹壕戦では、白兵に成るのは、むしろ常識だったんですよ。
ただ、凄惨さが酷すぎたのね。この場合、機関銃打ち合ってるんですから、
近づいて、叩くしか方法無いからですよ。
日露戦争の頃から分かってた事です。
船戦なんて、たいてい白兵にならざる終えないのに、おかしな話です。
初心者です。
大杉博氏の四国説をほぼ支持しています。
理由は、国名と地名と弥生遺跡がほぼ
対応していると思われるからです。HPも参照してください。
(ただし、大杉氏の地名は国名に類似していないと思います。)
地図 国名 音 比定地 類似地名
A 對海(馬) といかい(ま) 対馬 対馬(つしま)国
B 一大(支) いつだい(き) 壱岐 石田(いしだ)郡、壱岐(いき)国
C 末廬 まつら 唐津市 松浦(まつうら)郡
D 伊都 いた 前原市 怡土(いと)郡
E 奴 な 福岡市 那か(なか)郡
F 不彌 ふみ 新宮町 うみ?
G 投馬 どま 四国西部 駄場(だば)
H 邪馬壹(台)やまいつ(だい)四国東部 山(やま)
1 斯馬 しま 児島 児島(こじま)郡
2 巳(己)百支じ(き)わき 塩飽諸島 塩飽(しわく)
3 伊邪 いや 坂出市 五夜(いや)ケ岳 明神原
4 都(郡)支 た(ぐん)き 丸亀市 土器(どき)、郡家(ぐうけ)
5 彌奴 みな 三野町 三野(みの)郡
6 好古都 はかた 高瀬町 羽方(はがた)
7 不呼 ふか 川之江市・伊予三島市 大岡(おおおか)駅
8 姐奴 しゃな 新居浜市 庄内(しょうない)
9 對蘇 といさ 西条市・東予市南部 ?
10 蘇奴 さな 東予市北部 庄内(しょうない)
11 呼邑 こよ 朝倉町・今治市 古谷(こや)
12 華奴蘇奴 かなさな 北条市・松山市北部 高ノ砂(こうのすな)
13 鬼 くわい 松山市東南部 海上(かいじょう) 宝泉
14 為吾 わが 伊予市 吾河(わかは)郷
15 鬼奴 くわいな 砥部町・旧浮穴郡 浮穴(うきあな)郡
16 邪馬 やま 久万町 久万山(やま)
17 躬臣 くじ 南国市・土佐山田町 楠目(くずめ) 談義所
18 巴利 はり 安芸市・安芸郡 奈半利(なはり)
19 支惟 きゆい 海部郡 宍喰(ししくい)
20 烏奴 うな 阿南市北部 大野(おおの)郷
21 奴 な 小松島市 太奈(たな)荘
22 狗奴 こな 阿南市南部 桑野(くわの)
D,G-21女王国 ** 女王が統治する国 (狗奴国は属さない)
最も情報がありそうなこの部分を無視すると
邪馬壹国の比定は困難になりそうな気がしますが
どうでしょうか?
元の発言 [ Re: 邪靡堆 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 12月13日(木)23時05分06秒 ]
>>
>>
@ 狗邪韓国
A 不耐穢王(漢字がないので、この字を使う)
のようにですか。
#ところで大論争のページ、全部開けてますか?
#私のは途中でちょん切れています。
元の発言 [ Re: 邪靡堆(おわびと訂正) ] お名前 [ マルセ ] 日付 [ 12月13日(木)18時49分01秒 ]
マルセさん こんにちは
>> #「邪」の上古音の「Giag(ngiagと書いたほうが良かったですか)」という音は、鼻にかかった感じで「や」と発音した音であって、「じゃ」ではないと思うんですが。
>> #魏の時代の倭人たちの発音は「やまと」と微妙に違っていたかも知れませんが、後の時代に倭人たちから「やまと」と呼ばれる単語を表していたと見て、特に不都合はないようですが。
私も「や」の単一読みであると都合が良いのですが、、、
これを言うなら、おにりんさんの、「後の時代の両読文字は、漢代においても、両読文字であった」に反論してからしていただかないと。
>> #范曄の見た魏志には「邪馬臺」と書いてあったので、范曄は後漢書に「邪馬臺」と書いたんじゃないんでしょうか。
と、いう通説に対する投稿のつもりでしたが、、、
マルセさんは、どうして、魏志には「邪馬臺」と書いてあったと思うのですか。
>> もし、別の表記(例えば邪馬壹)で書いてあったのなら、なんらかの注をするのが普通と思います。
范曄は、魏志の前史を書いているのですよ。
>> 范曄の見た魏志は、オリジナルだったか写本だったかはわかりませんけれど、魏晋の時代のものの可能性が非常に高いといっていいんじゃないでしょうか。
范曄と同時代の裴松之は【臣松之以爲(おも)へらく「地」應(まさ)に「[糸弟]」と爲すべし。漢の文帝「[サウ」衣を著(き)、之を「戈[糸弟]」と謂ふ、是れ也。此の字不體にして、魏朝之失に非ずば、則ち傳冩者の誤ち也】 と注をつけています。
>> 隋代に限定されるという意味ではなくて、隋や唐の時代という中古音が使われた時代かもしくはそれ以前の上古音の使われた時代のどちらかの時期に成立したのだろうという意味で書きました。
梁書には「祁馬臺」とありますよ。
>> 「邪靡堆(たぶん本当は邪摩堆)」のほうは、「邪馬臺」より後に成立した表記であって、後漢書の李賢の注から考えると、唐の時代には、こちらのほうが一般的に使われていた表記であるっていうことでしょうね。
北史には「邪馬臺」とありますよ。
>> #よくわかりませんけれど、後漢書と魏志と両方に「邪馬臺」の表記があったら、大場嘉門さんのいう承前の原則があったとしても、より新しい時代を記述した魏志のほうから引用するのが自然ということにはなりませんか。
より新しい時代は、梁では?
後漢書・魏志には倭都の「邪馬臺」だけでなく、そもそもの国名が「倭」とあるのですよ。
[イ妥]に対しては、「則魏志所謂倭者也」としなかったのでしょう。
元の発言 [ Re: 邪靡堆 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 12月13日(木)21時37分37秒 ]
>>
>>
>>
>>
>>
この根拠については、古田氏が詳細に反論しているのは、良くご存知のことと思います。
古田氏の反論に反論があるのであれば、別にスレッドを建ててください。
私は、古田説に依拠してこの議論をしていない(つもりです)。
>>
>>
「直せば」ですか。
初心者ですが、よろしくお願いします。
現在、大杉博氏の四国説をほぼ正しいと考えています。
理由は、以下のように倭人伝の国名と地名と遺跡が対応している
と考えるためです。(但し、大杉氏が「邪馬台国はまちがいなく四国にあった」で
提案されている地名の多くは、国名と類似していないと思います。)
地図 国名 音 比定地 類似地名
A 對海(馬) といかい(ま) 対馬 対馬(つしま)国
B 一大(支) いつだい(き) 壱岐 石田(いしだ)郡、壱岐(いき)国
C 末廬 まつら 唐津市 松浦(まつうら)郡
D 伊都 いた 前原市 怡土(いと)郡
E 奴 な 福岡市 那か(なか)郡
F 不彌 ふみ 新宮町 うみ?
G 投馬 どま 四国西部 駄場(だば)
H 邪馬壹(台) やまいつ(だい) 四国東部 山(やま)
1 斯馬 しま 児島 児島(こじま)郡
2 巳(己)百支 じ(き)わき 塩飽諸島 塩飽(しわく)
3 伊邪 いや 坂出市 五夜(いや)ケ岳 明神原
4 都(郡)支 た(ぐん)き 丸亀市 土器(どき)、郡家(ぐうけ)
5 彌奴 みな 三野町 三野(みの)郡
6 好古都 はかた 高瀬町 羽方(はがた)
7 不呼 ふか 川之江市・伊予三島市 大岡(おおおか)駅
8 姐奴 しゃな 新居浜市 庄内(しょうない)
9 對蘇 といさ 西条市・東予市南部 ?
10 蘇奴 さな 東予市北部 庄内(しょうない)
11 呼邑 こよ 朝倉町・今治市 古谷(こや)
12 華奴蘇奴 かなさな 北条市・松山市北部 高ノ砂(こうのすな)
13 鬼 くわい 松山市東南部 海上(かいじょう) 宝泉
14 為吾 わが 伊予市 吾河(わかは)郷
15 鬼奴 くわいな 砥部町・旧浮穴郡 浮穴(うきあな)郡
16 邪馬 やま 久万町 久万山(やま)
17 躬臣 くじ 南国市・土佐山田町 楠目(くずめ) 談義所
18 巴利 はり 安芸市・安芸郡 奈半利(なはり)
19 支惟 きゆい 海部郡 宍喰(ししくい)
20 烏奴 うな 阿南市北部 大野(おおの)郷
21 奴 な 小松島市 太奈(たな)荘
22 狗奴 こな 阿南市南部 桑野(くわの)
D,G-21 女王国 ** 女王が統治する国 (狗奴国は属さない)
詳しくはホームページをご覧になってください。
国名は、倭人伝の中で最も情報量がある部分だと思います。
特に比定に関しては、遺跡と共に最重要視するべき要素だと考えます。
(この掲示板、現在調子悪いのかな?)
# 確かに壊れてますねー。
素朴な疑問でテスト投稿です。
ラストに凄みのあった大河ドラマ『北条時宗』
を見ていて感じたんですが,
倭人の髪型は,実は謝さんみたいなものだった,
とかの発想はないんでしょうか。
元の発言 [ Re: Titleわが国最古、奈良・箸墓古墳周濠跡から木製馬具出土 ] お名前 [ ピクポポデミ ] 日付 [ 12月3日(月)09時53分20秒 ]
>> あんまり資料が無いのでなんともいえませんが、三世紀末か四世紀の騎馬民族が、馬に乗るためだけの、片側鐙を使っていたとは思えません。
>> これは南方系の発明とされています。
>> むしろこんなものが出てきたことは、騎馬民族とのかかわりの薄さを示しているのでしょう。
中国は三世紀末から4世紀も戦乱期ですから南方系の発明品が各地に伝播していたかも。
倭人に乗馬を教えようと大陸にこんないいものがあるよと持ってきたのかも。
元の発言 [ Re: 邪靡堆 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 12月11日(火)23時57分49秒 ]
この辺に、ぶる下げておきます。
昔々、日本語を学び始めたというイギリス人に、「アップルは日本語でなんというのか」と聞かれた。「リンゴ」と私。「そうか、ディンゴと言うのか。」「ノーノー、リンゴ。」「だから、ディンゴだろ。おまえはディンゴと言っている。」
それ以来、私はリンゴと言えなくなってしまった。
もともと日本語では、ら行音が語頭に立つ言葉はない。しかし漢語を受け入れて以来千年以上にわたって、ら行音で始まるたくさんの言葉を日本人は使い続けてきた。それなのに、この発音しにくさはなんなのだ。
思うに、日本語のら行音は、もともと語頭にくると非常に発音しにくい音なのだ。そして、この千年以上の乱雑・林檎・流浪・恋慕・労働にもかかわらず、その発音はまったく変わっていないのではないだろうか。子音はともかく、母音の発音は非常に変化しにくい、といえるのではないか。
英語のlowとlawは、日本人は両方とも「ロー」というが、英語人にはまったく異なる音である。似ているとさえ意識しないに違いない。英語でlowとlawが収斂してしまう可能性などまったく考えられないのだ。
*****
だからさー。私は甲類乙類ってのは昔からあまりピンとこなかったのです。游惟さんの「甲類乙類はなかった」説は衝撃的かつ非常に納得でした。しかし、おにりんさんはそんな大論争が半年前にあったこともすっかり忘れているんでしょうね。
元の発言 [ 「リンゴ」と言えますか? ] お名前 [ EK ] 日付 [ 12月15日(土)21時53分53秒 ]
>> ・・・子音はともかく、母音の発音は非常に変化しにくい、といえるのではないか。
#これは無視してください。意味不明だ。
元の発言 [ 「リンゴ」と言えますか? ] お名前 [ EK ] 日付 [ 12月15日(土)21時53分53秒 ]
>> 昔々、日本語を学び始めたというイギリス人に、「アップルは日本語でなんというのか」と聞かれた。「リンゴ」と私。「そうか、ディンゴと言うのか。」「ノーノー、リンゴ。」「だから、ディンゴだろ。おまえはディンゴと言っている。」
>> それ以来、私はリンゴと言えなくなってしまった。
>> もともと日本語では、ら行音が語頭に立つ言葉はない。しかし漢語を受け入れて以来千年以上にわたって、ら行音で始まるたくさんの言葉を日本人は使い続けてきた。それなのに、この発音しにくさはなんなのだ。
>> 思うに、日本語のら行音は、もともと語頭にくると非常に発音しにくい音なのだ。そして、この千年以上の乱雑・林檎・流浪・恋慕・労働にもかかわらず、その発音はまったく変わっていないのではないだろうか。子音はともかく、母音の発音は非常に変化しにくい、といえるのではないか。
>> 英語のlowとlawは、日本人は両方とも「ロー」というが、英語人にはまったく異なる音である。似ているとさえ意識しないに違いない。英語でlowとlawが収斂してしまう可能性などまったく考えられないのだ。
>> *****
>> だからさー。私は甲類乙類ってのは昔からあまりピンとこなかったのです。游惟さんの「甲類乙類はなかった」説は衝撃的かつ非常に納得でした。しかし、おにりんさんはそんな大論争が半年前にあったこともすっかり忘れているんでしょうね。
そういえば中国人の話す日本語って大抵変ですよね。
文法や表現の仕方でなく発音が日本的じゃない。
アグネスチャンなんか日本に住んで20年以上になって日本人と結婚しているのに未だまともな発音が出来ていない。
ケント・ギルバートの方がまともな発音をしている。
初心者ですが、よろしくお願いします。
現在、邪馬壹国の比定に関しては大杉博氏の四国説がほぼ正しいのではないか
と思っています。
理由は、以下のように倭人伝の国名と地名と遺跡が対応している
と考えるためです。但し、大杉氏が「邪馬台国はまちがいなく四国にあった」で
提案されている地名の多くは、国名と類似していないと思います。
地図 国名 音 比定地 類似地名 (対応する音)
A 對海(馬) といかい(ま) 対馬 対馬(つしま)国
B 一大(支) いつだい(き) 壱岐 石田(いしだ)郡、壱岐(いき)国
C 末廬 まつら 唐津市 松浦(まつうら)郡
D 伊都 いた 前原市 怡土(いと)郡
E 奴 な 福岡市 那か(な)郡
F 不彌 ふみ 新宮町 うみ?
G 投馬 どま 四国西部 駄場(だば)
H 邪馬壹(台) やまいつ(だい) 四国東部 山(やま)
1 斯馬 しま 児島 児島(しま)郡
2 巳(己)百支 じ(き)わき 塩飽諸島 塩飽(しわく)
3 伊邪 いや 坂出市 五夜(いや)ケ岳 明神原
4 都(郡)支 た(ぐん)き 丸亀市 土器(どき)、郡家(ぐうけ)
5 彌奴 みな 三野町 三野(みの)郡
6 好古都 はかた 高瀬町 羽方(はがた)
7 不呼 ふか 川之江市・伊予三島市 大岡(おか)駅
8 姐奴 しゃな 新居浜市 庄内(しょうな)
9 對蘇 といさ 西条市・東予市南部 ?
10 蘇奴 さな 東予市北部 庄内(しょうな)
11 呼邑 こよ 朝倉町・今治市 古谷(こや)
12 華奴蘇奴 かなさな 北条市・松山市北部 高ノ砂(こうのすな)
13 鬼 くわい 松山市東南部 海上(かい) 宝泉
14 為吾 わが 伊予市 吾河(わか)郷
15 鬼奴 くわいな 砥部町・旧浮穴郡 浮穴(きあな)郡
16 邪馬 やま 久万町 久万山(やま)
17 躬臣 くじ 南国市・土佐山田町 楠目(くず) 談義所
18 巴利 はり 安芸市・安芸郡 奈半利(はり)
19 支惟 きゆい 海部郡 宍喰(くい)
20 烏奴 うな 阿南市北部 大野(おおの)郷
21 奴 な 小松島市 太奈(な)荘
22 狗奴 こな 阿南市南部 桑野(くわの)
D,G-21 女王国 ** 女王が統治する国 (狗奴国は属さない)
詳しくはホームページをご覧になって下さるとありがたいです。
国名は、倭人伝の中で最も情報量がある部分だと思います。
特に比定に関しては、遺跡と共に最重要視するべき要素だと考えます。
もちろん音韻の転訛など難しい問題はあると思いますが、基本的に地名は何らかの
形では残るものではないでしょうか。
(先日投稿しましたが、掲示板が不調だった様子ですね。)
元の発言 [ 「リンゴ」と言えますか? ] お名前 [ EK ] 日付 [ 12月15日(土)21時53分53秒 ]
>> この辺に、ぶる下げておきます。
便乗してみます。新規は壊れているから。
>> だからさー。私は甲類乙類ってのは昔からあまりピンとこなかったのです。游惟さんの「甲類乙類はなかった」説は衝撃的かつ非常に納得でした。
自分も半信半疑でしたが,少なくとも,
指標にはなります。
--
最近,ウィルスメールみたいなのが多いので,
皆さん,御注意。
元の発言 [ 邪靡堆 ] お名前 [ 大場嘉門 ] 日付 [ 12月10日(月)17時27分48秒 ]
邪馬壱国については、壱か台か、甲音乙音など詳しく分析され、
比定地も多いようですが、他の二十数箇所の国々についてはどうでしょうか。
本来これら全部をきちんと比定できるような場所が、邪馬壱国の候補地に
なるべきだと思います。
四国山上説の大杉博氏は「邪馬台国はまちがいなく四国にあった」
でそのように批判しましたが、残念ながら提案されている地名の多くは
国名と類似していません。
私は本当に類似地名がないか検討した所、以下のように倭人伝の国名と地名
が類似し、遺跡が対応する場所を見つけたと考えています。
(大杉氏の比定にほぼ近い形です。)
地図 国名 音 比定地 類似地名 (類似部分)
A 對海(馬) といかい(ま) 対馬 対馬国 (つしま)
B 一大(支) いつだい(き) 壱岐 石田郡、壱岐国 (いしだ、いき)
C 末廬 まつら 唐津市 松浦郡 (まつうら)
D 伊都 いた 前原市 怡土郡 (いと)
E 奴 な 福岡市 那か郡 (な)
F 不彌 ふみ 新宮町 うみ?
G 投馬 どま 四国西部 駄場 (だば)
H 邪馬壹(台) やまいつ(だい) 四国東部 山(やま)
1 斯馬 しま 児島 児島郡 (しま)
2 巳(己)百支 じ(き)わき 塩飽諸島 塩飽 (しわく)
3 伊邪 いや 坂出市 五夜ケ岳 明神原 (いや)
4 都(郡)支 た(ぐん)き 丸亀市 土器、郡家 (どき、ぐうけ)
5 彌奴 みな 三野町 三野郡 (みの)
6 好古都 はかた 高瀬町 羽方 (はがた)
7 不呼 ふか 川之江市・伊予三島市 大岡駅 (おか)
8 姐奴 しゃな 新居浜市 庄内 (しょうな)
9 對蘇 といさ 西条市・東予市南部 ?
10 蘇奴 さな 東予市北部 庄内 (しょうな)
11 呼邑 こよ 朝倉町・今治市 古谷 (こや)
12 華奴蘇奴 かなさな 北条市・松山市北部 高ノ砂 (こうのすな)
13 鬼 くわい 松山市東南部 海上 宝泉 (かい)
14 為吾 わが 伊予市 吾河郷 (わが)
15 鬼奴 くわいな 砥部町・旧浮穴郡 浮穴郡 (きあな)
16 邪馬 やま 久万町 久万山 (やま)
17 躬臣 くじ 南国市・土佐山田町 楠目 談義所 (くず)
18 巴利 はり 安芸市・安芸郡 奈半利 (はり)
19 支惟 きゆい 海部郡 宍喰 (くい)
20 烏奴 うな 阿南市北部 大野郷 (おおの)
21 奴 な 小松島市 太奈荘 (な)
22 狗奴 こな 阿南市南部 桑野 (くわの)
D,G-21 女王国 ** 女王が統治する国
位置や遺跡との対応はホームページをご覧になって下さるとありがたいです。
国名は、倭人伝の中で最も情報量がある部分だと思います。
特に比定に関しては、遺跡と共に最重要視するべき要素だと考えます。
もちろん音韻の転訛など難しい問題はあると思いますが、基本的に地名は何らかの
形では残るものではないでしょうか。
元の発言 [ Re: Titleわが国最古、奈良・箸墓古墳周濠跡から木製馬具出土 ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 12月3日(月)11時04分42秒 ]
>> 中国は三世紀末から4世紀も戦乱期ですから南方系の発明品が各地に伝播していたかも。
>> 倭人に乗馬を教えようと大陸にこんないいものがあるよと持ってきたのかも。
南方系の遺物ですから騎馬民族の証拠にならないことは明らかです。
元の発言 [ Re: 卑弥呼=豊鍬入姫命説(Re: 倭姫命世記) ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 12月16日(日)19時59分54秒 ]
倭迹迹日百襲姫命の場合,
大物主大神と大田田根子を立てただけの役であり,
その自害・頓死を思わせる死に方から見ると,
貧乏くじを引いた脇役のような印象です。
ただし,崇神天皇が頼り切っていた点で,
鬼道の主に相応しい強みがあります。
この助言する巫女という側面は,
日本武尊に示唆を与えた倭姫命にも言えます。
(豊鍬入姫命にあったと推定しても変ではありません。)
豊鍬入姫命については,崇神紀6年によると,
天照大神を倭の笠縫邑に祭ったことと,
磯堅城(しかたき)の神籬(ひもろき)を立てたことで,
この2点は,卑弥呼の居所か,とも思わせます。
従って,女王としての卑弥呼は豊鍬入姫命であるが,
崇神天皇が頼り切っていた「霊能者」が,
倭迹迹日百襲姫命だった,
と考えてみることもできます。
あるいは,見方によっては,
豊鍬入姫命から卑弥呼の鬼道的側面を抽出して,
倭迹迹日百襲姫命伝承に合成させた,とも考えられます。
以上,異論・推理は尽きないので,
皆さんも,多角的に考えてみて下さい。
>>
>>
>>
神功皇后は天日矛命の流れで但馬国がらみ,
豊鍬入姫命と倭姫命は丹波国がらみ,
武内宿祢は孝元天皇の流れで北陸がらみ,
豊鍬入姫命と倭姫命と神功皇后は天照大神がらみ。
>>
>>
>>
だから,それは,崇神紀。
>>
いわゆる三角縁神獣鏡への疑義でしょ。
ただ,この点は,詳しい人達で議論して下さい。
といっても,飽きるほど出尽くしているけど。
>>
>>
>>
>>
>>
>>
鍵は垂仁紀にあり,ってところでしょう。
元の発言 [ Re: 邪靡堆(おわびと訂正) ] お名前 [ 大場嘉門 ] 日付 [ 12月14日(金)13時57分47秒 ]
大場嘉門さん こんばんは ちょっと出かけていました。
>> 私も「や」の単一読みであると都合が良いのですが、、、
>> これを言うなら、おにりんさんの、「後の時代の両読文字は、漢代においても、両読文字であった」に反論してからしていただかないと。
#「邪」の文字は特殊例のようです。学研大漢和字典の最初の100ページ(全体の1/15くらい)を見ましたけれど、「邪」のように意味も読み方も二種類あって、上古音までは同じ発音だった文字は「倩」の文字しか見当たりませんでしたので。
意味が違わないで発音が二つある文字で、中古音以降で分かれた文字なら、「伝」とか「乗」とかいくつかありました。
>> マルセさんは、どうして、魏志には「邪馬臺」と書いてあったと思うのですか。
#「特に、そう考えて不都合な点が見当たらないから」といっちゃだめですか。「壹」は「臺」の単なる誤字(他にたくさんある誤字と同種の)に思えます。
>> 范曄は、魏志の前史を書いているのですよ。
#少なくとも、裴松之か李賢かが、注をつけそうですが。
>> 梁書には「祁馬臺」とありますよ。
>> 北史には「邪馬臺」とありますよ。
#おっしゃりたいことがよくわからないのですが、「邪摩堆」の表記が唐代に一般化しているなら、「邪馬臺」に替えて「邪摩堆」を使うのではないかということですか。
>> より新しい時代は、梁では?
#隋書の書かれたときには、梁書ってもうあったんでしょうか。まあ、あったとしても、梁書の記述は、ほとんど魏志の丸写しに近いですから。
>> 後漢書・魏志には倭都の「邪馬臺」だけでなく、そもそもの国名が「倭」とあるのですよ。
>> [イ妥]に対しては、「則魏志所謂倭者也」としなかったのでしょう。
#隋書のオリジナルには[イ妥]じゃなくて、「倭」とあったからじゃないでしょうか。
元の発言 [ Re: 邪靡堆(おわびと訂正) ] お名前 [ マルセ ] 日付 [ 12月17日(月)01時02分24秒 ]
マルセさん こんいちは
>> #「邪」の文字は特殊例のようです。学研大漢和字典の最初の100ページ(全体の1/15くらい)を見ましたけれど、「邪」のように意味も読み方も二種類あって、上古音までは同じ発音だった文字は「倩」の文字しか見当たりませんでしたので。
>> 意味が違わないで発音が二つある文字で、中古音以降で分かれた文字なら、「伝」とか「乗」とかいくつかありました。
これが、おにりんさんの『後の時代の両読文字は、漢代においても、両読文字であった』の反論になっているのかは、私には判断する能力がありません。
おにりんさんは、マルセさんの『「邪」の文字は、中古音で「じゃ」と「や」と両方に読めました。』に対して、『邪は、後に「耶」と混同されるんです。上古音までは発音が違うように思うんですがね。』ともレスされています。(これがどういう意味かも、私にはわかりません。)
>> #「特に、そう考えて不都合な点が見当たらないから」といっちゃだめですか。
「邪馬壹」とすると、なにか「不都合」な点があるのですか。
「邪馬臺」とする魏志は世の中に存在しないのに、どうして魏志には「邪馬臺」とあったという、世の中の事実を無視するようなお考えに至ったかを、お尋ねしたつもりでした。
>> 「壹」は「臺」の単なる誤字(他にたくさんある誤字と同種の)に思えます。
「壹」と「臺」が似たような字形であるのは確かですね。
どちらかが誤りなのでしょうが、どうして「壹」は「臺」の単なる誤字って言い切れるのでしょう。
後漢書は魏志を参考にしているのですから、「臺」は「壹」の単なる誤字ってことはありえないのでしょうか。
>> #少なくとも、裴松之か李賢かが、注をつけそうですが。
李賢は、注をつけていますが、裴松之も魏志を校勘するに見ていた写本に「邪馬臺」とするものと「邪馬壹」とするものがあったら、必ずや注をつけたことでしょう。
>> #おっしゃりたいことがよくわからないのですが、「邪摩堆」の表記が唐代に一般化しているなら、「邪馬臺」に替えて「邪摩堆」を使うのではないかということですか。
「邪摩堆」の表記が唐代に一般化しているなら、 梁書も北史も「祁(邪)馬臺」に替えて「邪摩堆」を使うのではないか、といっているのです。
>> #隋書の書かれたときには、梁書ってもうあったんでしょうか。まあ、あったとしても、梁書の記述は、ほとんど魏志の丸写しに近いですから。
梁書は魏志の丸写しではなく、「祁馬臺」とあるのですよ。
これも梁書のオリジナルには「邪馬臺」とあったとされるのでしょうか。
後漢書・魏志との関係では「より新しい時代を引用するのが自然」で後漢書が否定され、魏志・梁書との関係では「魏志の丸写し」で梁書が否定されるのでは、、、、
後漢書を「魏志の丸写し」で否定されるならともかく、“ダブスタ”ではないでしょうか。
>> #隋書のオリジナルには[イ妥]じゃなくて、「倭」とあったからじゃないでしょうか。
[イ妥]も誤写・誤刻だと?
[イ妥]奴国も、オリジナルには倭奴国とあったと?
元の発言 [ Re: 卑弥呼=豊鍬入姫命説(Re: 倭姫命世記) ] お名前 [ ちょっと一服 ] 日付 [ 12月14日(金)07時40分24秒 ]
補足です。
>> また,豊鍬入姫命の場合,御陵が見当たらないような?
以下のサイトに,
豊鍬入姫の御陵についての一説が載っていました。
2000年3月28日(火)山陰中央新報より
http://www.st.rim.or.jp/~adachima/sinpou2000.3.28.3.html
これによると,『磯城郡史』に,
「ホケノ山古墳の被葬者は豊鍬入姫」とあるそうです。
ホケノ山古墳
http://www2.begin.or.jp/sakura/maho.htm
これによると,「大神神社は、この古墳を豊鋤入姫の墓に比定している。
(桜井の文化財 桜井市教育委員会、石野) 」
ということです。ま,おにりんさんなら御存知か。
元の発言 [ Re: 「リンゴ」と言えますか? ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 12月16日(日)18時15分40秒 ]
>>
>>
#大学に入ったら、関西出身者が英語を関西弁で読むので非常にびっくりしました。今にして思えばあたりまえですね。
元の発言 [ 結局、英語のl、rの発音が日本語に対応しないということ ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 12月18日(火)01時14分38秒 ]
>>
#ま、そう言われてしまうとそれまでですが。彼の耳が私の「り」をdにマップしても何の不思議もありませんね、おっしゃるとおり。
しかし、問題はそれ以来私がリンゴといえない点にあります。言語が使用する音のレパートリっていうのはそれくらい根が深い生理的な問題をはらんでいるんじゃないだろうか、というのが私の問題提起です。だから、私の「論理」は8母音から5母音に変化したんだという知識を受け入れても、私の「非論理」は納得していないわけです。第一、甲類と乙類のオが似た音だというのは5母音で暮らす我々の発想でしょ。8母音世代には似た音だという概念自身が無いに違いない。
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
#ま、高校の国語でこのような話を聞いたわけですが、なんかな〜、腑に落ちなかったですよ。「ありそう」って言われてもね〜。「専門家」の言うことはね〜。
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
#こういうのも、現存する文献を書いた人々が変わったというだけで、つまり方言の勢力地図に変化があったというだけで、どちらの発音も昔からあったんじゃないのかな。
>>
>>
#あの方は鬼燐さんとの付き合いに慣れていませんからね。論争が途中で終ってしまったのは実に残念なことです。
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
#こんなこと言わせておいていいんですか >游惟さん。
元の発言 [ Re: 卑弥呼=豊鍬入姫命説(Re: 倭姫命世記) ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 12月18日(火)01時08分14秒 ]
あくまで一つの推理ですからね。
>>
>>
>>
>>
神武の場合には,即位前紀では,
冒頭には,高皇産霊尊・大日霤女尊とあります。
特に,戊午九月,高皇産霊尊の顕斎を行っています。
同六月,高倉下に,天照大神・武甕雷神の神示があり,
その直後に,神武にも天照大神の神示(頭八咫烏派遣),
ところが,古事記では,
八咫烏派遣は高木大神による神示なんです。
というわけで,高皇産霊尊色が強い。
紀の倭迹迹日百襲姫命伝承は倭人伝を意識したもので,
高倉下は尾張氏系図に関わるではないか,
という強みはありますね。
倭人伝の「令亀法」の話は,崇神+倭迹迹日百襲姫命,
の線に類似します。(崇神紀7年の記事参照)
これは九州でもどこでもあったことだが,
倭迹迹日百襲姫命派にとっては強み。
また,
「鬼道」というからには,
大物主大神と倭迹迹日百襲姫命のものだろう,
という発想が実は多い。
昔は,畿内説に立つと,
倭迹迹日百襲姫命か豊鍬入姫命のどっちか,
九州説に立つと,
女酋か天照大神のどっちか,
という線でしたが,
平成以降,かなり変わってきていて,
安本系九州派と百襲姫命系畿内派が一世を風靡しており,(ほどではないか)
豊鍬入姫命説は消滅傾向で,
サイトを探しているが,
まとまった論が見当たりません。
どなたか御存知でしょうか。
>> この助言する巫女という側面は,
>> 日本武尊に示唆を与えた倭姫命にも言えます。
>> (豊鍬入姫命にあったと推定しても変ではありません。)
>>
この点,倭人伝の「寿考八,九十年」を,
仮説として文字通りに受け取り,
〜というのは,倭人の年寄りの若い頃の体験談から推定したと判断する〜
その寿考の範囲で記紀を再構築すると,
倭姫命の時代は,ちょうど,3世紀中葉〜後半の線で,
日本書紀前半が綺麗にまとまってしまうんです。
崇神一代記を基にして,
孝霊以降の欠史に振り分けるはずが停止したものか,
という考え方。
また,
垂仁は140才とされるが,70〜80才に縮める,
とかの作業です。(たまたま半分ですけどね)
>>
>>
>>
>>
神宝信仰を軸にして,
天照大神信仰と呼ばれるものを,
「正統派銅鏡信仰」と置き直し,
倭迹迹日百襲姫命のものを,
「大三輪信仰」と置き直せば,
倭迹迹日百襲姫命から豊鍬入姫命への線は,
直系とは言い難くなりますが,
この辺り,古代史スリラーふうには,
倭迹迹日百襲姫命が初代卑弥呼であったが,
しかし大物主大神派である立場から,
内乱平定後,勢力の狭間で自害を強要され,
直後に豊鍬入姫命が卑弥呼に成り代わり倭人伝の主役,
という線も設定できるでしょう。(ステキ〜はぁと)
卑弥呼なる豊鍬入姫命は,
247年以前に既に高齢で動けなくなり,
後継を「台与」へと内々に譲っていたが,
実はポスト豊鍬入姫命の意で実体は倭姫命。
# 次の段を参照
>>
>>
>>
>>
2世紀後半の「倭国の乱」の所に,崇神紀から,
倭迹迹日百襲姫命の伝承とともに,
「四道将軍派遣」の記事を移動・解凍すると,
これが桓霊の間にあったという「倭国乱れ」の正体です。
討伐後,政権が堅固となり,倭迹迹日百襲姫命頓死,
卑弥呼(豊鍬入姫命)共立が生き,
また,歴年主なしと言われた時代を脱して崇神肇国,
崇神朝(皇室)に本来の生彩が生じる,
という組立。
一大率の権威は,
「四道将軍派遣」後に可能であったろう,と。
邪馬台国の官名は,
壱岐,任那(または美馬),奴に対応している,
との見方からは,
伊都国一大率(一支率=壱岐管理局?)の重要性が。
つまり,投馬・邪馬台へは対馬南下後,
壱岐経由で東行の線。
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
これを伝承として尊重すれば,
倭迹迹日百襲姫命しかおりませんな,そりゃ。
ただし,紀の仕組みに引っかって馬脚を現したもの,
とも考えられないではない。
>>
>>
>>
>>
個人的には,そんな感じがします。
>>
>>
>>
Alexさんによると,築造は布留0式の少し前で,云々とか。
ホケノ山のが倭迹迹日百襲姫命で,
箸墓が豊鍬入姫命とか,
そういうツッコミも聞こえてきそうなんで。
ところで,この点,本当は,
紀に倭迹迹日百襲姫命とあるのが豊鍬入姫命で,
豊鍬入姫命とあるのが倭迹迹日百襲姫命,
という発想の転換はどうでしょう? なんて(^◇^)
卑弥呼=豊鍬入姫命説で役柄を振り込むと,
豊城命(男子一人あり)と,
豊鍬入姫命(卑弥呼)のコンビが笠縫邑での祭祀,
活目尊(男弟)が政治,崇神は長老(大倭)とかの線。
>> 鍵は垂仁紀にあり,ってところでしょう。
>>
>>
いえ,伊勢神宮・前方後円墳の起源に関わり,
但馬・丹波・出雲・海外と関連するので,
なっから重要です。
布留式の起源にも関わるのではないか,
とも勘ぐっています。
紀を尊重する限り,纏向の主ですから。
# いわゆる垂仁陵については,
# 対武埴安彦戦(北陸系狗奴派?)での勝利に関する配置かもしれないし。
# (狗奴国そのものは大牟田周辺だと確信犯的に思いますけど。)
先日、もう何年もおみえにならない方からメールがあり、それが破損ファイルで、なんやこりゃと思っておりましたら、それが近頃巷で評判のあれでございました。
というわけで、少々復旧に時間が掛かりましたが、皆様が本ボード閲覧もしくは投稿で罹病した/もしくはする可能性はありませんので、ご安心ください。
ただ、管理人から意味不明のメールを受けとった方がいらっしゃいましたら、ひらにご容赦ください。
元の発言 [ 結局、英語のl、rの発音が日本語に対応しないということ ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 12月18日(火)01時14分38秒 ]
>>
>>
>>
>>
>>
>>
私には、おにりんさんの論法だと、其の時代の日本語の発音は、
すべて、中国語の範囲内にあると言うように聞こえてしまうんですけど?
揚げ足とりではなく、実際に中国人の発音に無い言葉が含まれていたとすると
当然あったと考えますけどそれは、結構おかしな当て字になるのでは?
伊勢神宮は、内宮・外宮とも、女性が祭られているが、これはおかしい。
内宮 : 天照大神
外宮 : 豊受大神
ところが、両宮の千木を見てみよう。
内宮 : 内削ぎ
外宮 : 外削ぎ
すなわち、内宮は女性の神でよいが、外宮は男性の神を表している。
一方、丹波にある“元伊勢”といわれている籠(コノ)神社の縁起をみると、はじめに豊
受大神が祭られ、その後天照大神が移されてきたとある。
格からいうと、豊受大神が上位でえ天照大神のほうが格下のようである。
とすると、伊勢神宮の祭神も、外宮は元々男性の神が祭られ、内宮が豊受大神であったも
のが、なにかの意図により、現在のように変えられたと考えるが………。
元の発言 [ 倭人伝の国名 ] お名前 [ 邪馬四 ] 日付 [ 12月16日(日)16時30分43秒 ]
いくつか質問、というか、ちゃちゃ。
>> E 奴 な 福岡市 那か郡 (な)
#「奴=な=那」は定説ですが、私はほんとかな〜と思っています。で、
>> 5 彌奴 みな 三野町 三野郡 (みの)
#でしょ。「奴=野」と考えるべきじゃありませんか。
もっとも、一文字の「野」っていう地名はあり得ませんけどね。
>> 6 好古都 はかた 高瀬町 羽方 (はがた)
#博多のほうがぴったり。
>> 10 蘇奴 さな 東予市北部 庄内 (しょうな)
#でもここは「奴=野」じゃないのですね。
>> 20 烏奴 うな 阿南市北部 大野郷 (おおの)
>> 22 狗奴 こな 阿南市南部 桑野 (くわの)
#ここはふたたび「奴=野」ですね。
>> 7 不呼 ふか 川之江市・伊予三島市 大岡駅 (おか)
#ははあ。「呼=か」ですね。
>> 11 呼邑 こよ 朝倉町・今治市 古谷 (こや)
#あれれ。「呼=こ」ですか。
>> D,G-21 女王国 ** 女王が統治する国
#私は古田武彦の「百女国は八女の意訳だ」という説が結構好きです。
元の発言 [ 倭人伝の国名 ] お名前 [ 邪馬四 ] 日付 [ 12月16日(日)16時30分43秒 ]
いくつか質問、というか、ちゃちゃ。
>> E 奴 な 福岡市 那か郡 (な)
#「奴=な=那」は定説ですが、私はほんとかな〜と思っています。で、
>> 5 彌奴 みな 三野町 三野郡 (みの)
#でしょ。「奴=野」と考えるべきじゃありませんか。
もっとも、一文字の「野」っていう地名はあり得ませんけどね。
>> 6 好古都 はかた 高瀬町 羽方 (はがた)
#博多のほうがぴったり。
>> 10 蘇奴 さな 東予市北部 庄内 (しょうな)
#でもここは「奴=野」じゃないのですね。
>> 20 烏奴 うな 阿南市北部 大野郷 (おおの)
>> 22 狗奴 こな 阿南市南部 桑野 (くわの)
#ここはふたたび「奴=野」ですね。
>> 7 不呼 ふか 川之江市・伊予三島市 大岡駅 (おか)
#ははあ。「呼=か」ですね。
>> 11 呼邑 こよ 朝倉町・今治市 古谷 (こや)
#あれれ。「呼=こ」ですか。
>> D,G-21 女王国 ** 女王が統治する国
#私は古田武彦の「百女国は八女の意訳だ」という説が結構好きです。
元の発言 [ Re: Titleわが国最古、奈良・箸墓古墳周濠跡から木製馬具出土 ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 12月3日(月)10時49分45秒 ]
>> 馬具自体より箸墓築造のころ馬が畿内にいた可能性が強いことが問題だと思いますが?
>> >> >> 列島に馬がいたにしても邪馬台国では飼育されていなかった事は確実でしょう。
>> >> >> 「西晋のやり方をまねて、試しに乗ってみる」事が行われたにしても265年よりかなり後の事です。
>> >> すると布留1が西晋代で、箸墓の布留0はそれ以前になり、年代的には問題ない。
>> 甲板ができ船倉が設けられる位であっても馬が暴れてしまい大変だったでしょう。
>> 馬は邪馬台国当時の準構造船程度の船で輸送するのは全く無理だったでしょう。
>> 馬がそんな船に大人しく乗るとは思えない。
>> 江戸時代でさえ朝鮮通信使の日記によれば釜山から呼子まで一ヶ月かかっている。
>> 馬では殆んど死んでしまいます。
>> 珍しい動物を倭人に見せてやろう程度で運ぶなら牛が先です。
>> それでも牛ではなく馬が畿内にやって来た。
>> 馬を運ぼうとした人は馬がなければ生きていけないと言う思いで無理して運んだのではないでしょうか。
馬については今後の調査を待ちます。
中国船が馬を積んで渡海できたことは確実と考えています。
この点は3世紀と4世紀でおおきな違いは無いでしょう。
つまり年代論としては根拠がありません。
元の発言 [ 伊勢神宮の祭神は? ] お名前 [ かまくら龍 ] 日付 [ 12月19日(水)11時49分24秒 ]
男千木・女千木の区別は,
近世に始まったものとの説があるそうです。
VOL.5 しまねには 日本の根がある/千 木(ちぎ)/鎌倉時代の千木のナゾ
http://www.kankou.pref.shimane.jp/library/sharuru/2000/k_shar5t.html
したがって,それで全てを解釈するにはムリがあり,
元は別の意味があったもの,と考えみたい。
たとえば,水平の千木は高所から受ける,
垂直の千木は高所へ捧げる,とか。
水平の千木は天を属性とし,
垂直の千木は地を属性とするとか。
次のような文学的な付会もあったようです。
-----------------------------------------------------------------
萩原龍夫.鎌倉時代の神宮参詣記
http://www2.justnet.ne.jp/~jingu/just-hagiwara-tatuo-sankeiki.htm
内宮を拝すると、瑞垣・玉垣で隔てているかなたに、
ここの千木(ちぎ)が「上一人を守らんとて内へそがれたる」
さまをうかがい見るにつけ、彼女にはすぐ都のことが思い出される。
-----------------------------------------------------------------
いいですねぇー,これ。ステキ。
# あるいは鳥の所作と関係したのかもしれない。
>> 格からいうと、豊受大神が上位でえ天照大神のほうが格下のようである。
コンビなんじゃ?
>> のが、なにかの意図により、現在のように変えられたと考えるが………。
ま,一応,雄略朝とか。
素朴な疑問です。
倭人の髪型って,ミズラでしょうか?
それとも,
『北条時宗』に出てきた謝さん型でしょうか?
●「邪馬臺(台)国はなかった」論争
「内容に関する、疑問質問さらに苦情などは大論争にお願いします。」ということですので、、、
(1)
『多くの学者は12世紀以前の「三国志」の「魏志倭人伝」では「邪馬臺国」となっていたと証明している。』とありますが、誰がどう証明されているのでしょうか?
(2)
A:『古田氏の調査は3世紀の「三国志」の調査が必要なのに、12世紀に刊行された「三国志」、即ち異なる母集団の調査をして結果を出したと言うことになる。もし3世紀以来刊行された「三国志」全体を母集団とするならば、これらすべてからランダムサンプリングする必要があった(実際不可能であるが)。』
B:『邪馬台国論争で保証したい単位は3世紀に刊行された三国史(数百冊あるとすれば)の各本の「邪馬台国」の表示がどうなっていたかである(台か壱か)。従ってこの場合でも本当に調査すべきは3世紀の本の抜取り検査である。』
Aとしながら、Bとするのは論理矛盾ではありませんか?
Aは不可能ですから、Bの「従ってこの場合でも本当に調査すべきは3世紀の本の抜取り検査である」も不可能では、、、
(3)
『いずれにしても古田氏の調査では12世紀の「紹煕刊本」では「邪馬壹国」としていた確率が高いと言う程度の結論であろう。』とありますが、12世紀の「紹煕刊本」が「邪馬壹国」としているのは「事実」ですから、「確率が高いと言う程度」というのは事実に反しませんか?
(4)
『これとても12世紀の1冊の紹煕刊本のみの調査ではどれほどのことが言えるか疑問である。』とありますが、紹煕刊本以外の版本に「邪馬臺国」とあるということですか?
以上、いずれも回答していただく必要はありませんが、当世奇妙さんの論調から推し量ると、私には古田氏の論理を曲解されているように思えます。
古田氏は統計理論をレトリックに使って、「3世紀の魏志には『壹』とあった」ことを証明しようとしているのではありません。
古田氏は、通説が版本の「壹」は「臺」の誤刻というのであれば、せめて当の版本を調べるぐらいのことはして、「臺」が「壹」に誤刻されている例を示すべきだと主張されているのです。
古田氏が調べたところ、『「三国志」全体の中に「壹」の字は86箇所、「臺」は56箇所あり、この56の「臺」のうち「壹」の誤記は一つも無い。また「壹」で「臺」と誤記されたものも一つもない。』とのことです。
古田氏は、なにも「証明」しようとはしていません。
「証明」すべきは、3世紀の魏志には「臺」とあったと主張される側にあると言っているのです。
この「証明」は至極簡単です。
魏志のみならず全ての漢籍の中から、「臺」が「壹」に誤写・誤刻されている例を見つければ良いのですから、、、
そして『3世紀に刊行された三国史(数百冊あるとすれば)の各本の「邪馬台国」』が、現存する全ての版本に「邪馬壹国」とある状況を説明すれば良いのです。
元の発言 [ Re: 四国東部説−国名と地名と遺跡 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 12月19日(水)02時03分58秒 ]
>> 初心者ですが、よろしくお願いします。
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
今、丁度、四国と東海地方浜松の西方辺りを怪しいとにらんでるのですが、
やはり、青玉いづが引っかかってまして。
中国の記述では、産物の集積地に対してもこの表現があるようですね。
勿論、連合王国の首都なのですから、当然の事として魚狂いの交易拠点、集積地になりうるのです。
当然真珠にも、この事は、適用されてしまいますが・・・・
あと、はっきり丹の記述が有る所ですので、
近くに当然古くから丹を、採取している場所となります。
丹は、大和でも採取されていましたので大和説を覆す事は出来ません。
ですが、集積地ではなく、産地だとするならば、高知と浜松近辺が、有力候補になりうるのです。
其の頃、当然富士は煙を吐いていたはずですから、浜松直鉄は有得ません。
随書の例で有る通り、記述が残るはずですから。
では、東海では、浜松より西で玉の産地を領域として含み得る富士の見えない地方と言う事になります。
それと、もう一つは、高知市を含む同様の条件を持つ辺りとなるでしょう。
あと、句那国の問題ですが、如何して地上のみ考えるのかと言うことに気づきました。
縄文人、海の民であり山の民であること、弥生もそう言う面は、大きかったのではと?
この時代の交通を考えれば、船を重要視しなければならないのに。
この事をあわせて考えれば、句那国は、海辺であれば、
かなりの広範囲を候補に上げられると思います。
海賊王国的な国を想定すれば、また違って見えてくるのでは?と
元の発言 [ Re: 邪靡堆(おわびと訂正) ] お名前 [ 大場嘉門 ] 日付 [ 12月17日(月)17時33分04秒 ]
大場嘉門さん こんばんは
>> 「邪馬壹」とすると、なにか「不都合」な点があるのですか。
>> 「邪馬臺」とする魏志は世の中に存在しないのに、どうして魏志には「邪馬臺」とあったという、世の中の事実を無視するようなお考えに至ったかを、お尋ねしたつもりでした。
#「臺」とあるのは、後漢書、梁書、北史、隋書、通典と5つあるのに(他にもあるかも知れませんが)、「壹」とあるのは、魏志だけですよ。しかも、隋書と北史には「魏志にある」と書いてあるのですから。
>> 「壹」と「臺」が似たような字形であるのは確かですね。
>> どちらかが誤りなのでしょうが、どうして「壹」は「臺」の単なる誤字って言い切れるのでしょう。
>> 後漢書は魏志を参考にしているのですから、「臺」は「壹」の単なる誤字ってことはありえないのでしょうか。
#「臺」と「壹」の二つだけを比べればどちらが正しいとは言えないのでしょうけれど、「堆」と発音が似ているのは明らかに「臺」のほうです。
>> 李賢は、注をつけていますが、裴松之も魏志を校勘するに見ていた写本に「邪馬臺」とするものと「邪馬壹」とするものがあったら、必ずや注をつけたことでしょう。
#ですから、『裴松之が見たものは全て「邪馬臺」となっていて、一つも「邪馬壹」とするものがなかったから』なんじゃないでしょうか。
>> 「邪摩堆」の表記が唐代に一般化しているなら、 梁書も北史も「祁(邪)馬臺」に替えて「邪摩堆」を使うのではないか、といっているのです。
#中国人にとって、倭のことなどどうでもよい東夷のことなのですから、一般化といっても、一般人ならだれでも知っているというまでのことではないでしょう。昔の本のままに新しい知識のことを触れないで書いた本があったとしても、別におかしく感じません。
もっとも、梁の時代までは「邪馬臺」の表記で、それ以後「邪摩堆」に替わったためと考えられなくもない気はします。
>> 梁書は魏志の丸写しではなく、「祁馬臺」とあるのですよ。
>> これも梁書のオリジナルには「邪馬臺」とあったとされるのでしょうか。
#たぶんそうです。梁書の著者が引用するときに、写し間違えた可能性もありますけど。
>> 後漢書・魏志との関係では「より新しい時代を引用するのが自然」で後漢書が否定され、魏志・梁書との関係では「魏志の丸写し」で梁書が否定されるのでは、、、、
>> 後漢書を「魏志の丸写し」で否定されるならともかく、“ダブスタ”ではないでしょうか。
#「まず、より著名な史書から引用。著名度が同等な場合は、より新しい史書から引用する」という、ごく普通の、一般的とも言える基準があったと考えれば、別にダブルスタンダードではありません。
ちなみに、三国志が著名な書物だったというのは、マルセだけの主張ではなく、例えば、前にもちょっと引用した「日本の古代1 倭人の登場(中央公論)」で杉本憲司氏も次のように書いています。
「陳寿の死後、『三国志』はすぐに書写されて広く流布したと推測される。それは、一九四二年に新疆省ゼン善県から、東晋時代の写本と考えられる『呉書』虞翻伝の残巻が出土し、一九六五年一月に新疆ウイグル自治区吐魯番の仏塔の下にあった陶瓮の中から仏典とともに、西晋時代の写本と推測される『呉書』孫権伝の残巻が出土したことによって知られる。このように『三国志』の写本が非常に早く、しかもはるか西方の、今日の新疆の地にまで流布したことは、この『三国志』がいかに読まれたかのあらわれであろう。」
「裴松之は百四十余種の書物を広く参考にして注を書いたので、本文を補正するところが多く、また異伝をも載せていることから、『三国志』は裴松之の注を得て、ますますその価値が高められ、正史の中において、その地位を固めたことを述べておく。」
>> [イ妥]も誤写・誤刻だと?
>> [イ妥]奴国も、オリジナルには倭奴国とあったと?
#これも、もちろん隋書の著者の写し間違いの可能性はあります。隋書を参考にして書かれたらしい北史にも[イ妥]とありますから。
元の発言 [ 「会員論文館」の当世奇妙さんへ ] お名前 [ 大場嘉門 ] 日付 [ 12月19日(水)18時25分09秒 ]
こんばんは マルセが書いちゃいけないのかもしれませんが、
>> 古田氏が調べたところ、『「三国志」全体の中に「壹」の字は86箇所、「臺」は56箇所あり、この56の「臺」のうち「壹」の誤記は一つも無い。また「壹」で「臺」と誤記されたものも一つもない。』とのことです。
古田氏は、なにも「証明」しようとはしていません。
「証明」すべきは、3世紀の魏志には「臺」とあったと主張される側にあると言っているのです。
この「証明」は至極簡単です。
魏志のみならず全ての漢籍の中から、「臺」が「壹」に誤写・誤刻されている例を見つければ良いのですから、、、
#呉書の宗室伝第六孫賁伝の書き出しのところで、
「孫賁字伯陽。父羌字聖壹」
とありますが、この「壹」は「臺」の誤りではないかというのが、
ちくま学芸文庫の「正史三国志6 呉書T」の本文319ページ、注343ページにあります。弟の孫堅の字が文臺、孫静の字が幼臺だから、兄の字も聖臺とすべきであろうということです。
元の発言 [ 「臺」と「壹」と書き間違いはあるみたいです ] お名前 [ マルセ ] 日付 [ 12月19日(水)23時53分06秒 ]
>> 古田氏が調べたところ、『「三国志」全体の中に「壹」の字は86箇所、「臺」は56箇所あり、
なお、マルセが調べた範囲では、「三国志」中に「臺」の使用は117箇所、「壹」の使用は118箇所です。古田氏の調査にはかなりのもれがあるようです。
元の発言 [ 「臺」と「壹」と書き間違いはあるみたいです ] お名前 [ マルセ ] 日付 [ 12月19日(水)23時53分06秒 ]
>> #呉書の宗室伝第六孫賁伝の書き出しのところで、
>> 「孫賁字伯陽。父羌字聖壹」
>> とありますが、この「壹」は「臺」の誤りではないかというのが、
>> ちくま学芸文庫の「正史三国志6 呉書T」の本文319ページ、注343ページにあります。弟の孫堅の字が文臺、孫静の字が幼臺だから、兄の字も聖臺とすべきであろうということです。
割り込み失礼。
古田氏は「邪馬台国はなかった」の中でこの件についても触れていて
「兄弟が名前の一字を共有すると言う原則があったと言う証明がなされない限り、これを間違いとするのは妥当ではない。
むしろ其の時代、長男であることを示す一字が名前に組み込まれる事が多かった。
[聖臺]では長男であることを示す字がなくなってしまう。
[聖壹]の方が長男の名前にふさわしい。」
といっていたように思いますが?
元の発言 [ Re: 「臺」と「壹」と書き間違いはあるみたいです ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 12月20日(木)07時18分52秒 ]
おはようございます
>> 古田氏は「邪馬台国はなかった」の中でこの件についても触れていて
>> 「兄弟が名前の一字を共有すると言う原則があったと言う証明がなされない限り、これを間違いとするのは妥当ではない。
>> むしろ其の時代、長男であることを示す一字が名前に組み込まれる事が多かった。
>> [聖臺]では長男であることを示す字がなくなってしまう。
>> [聖壹]の方が長男の名前にふさわしい。」
>> といっていたように思いますが?
#古田氏の著述は読んだことがないので、失礼しました。また、中国での字のつけ方について詳しいわけではないので、この件についてはもう書きませんが、ちょっとだけ。
三国志の中に、「臺」と「壹」以外の書き間違いは、1000箇所とか10000箇所とか(正確に数えたわけでないのではっきりしませんけれど、ともかく)膨大な数があるわけですので、一般的に考えれば他の状況証拠から、邪馬壹國の「臺」の字は「壹」の間違いと考えるのが妥当であると思います。
それに対し、古田氏の主張するところは、「臺」の字は特殊で絶対に「壹」の字に間違えるはずがないということで成り立っているんじゃないでしょうか。
したがって、反証する立場からは、「臺」の字であっても、単に書き間違われることも十分あり得ることを指摘できれば、それでよいはずです。逆に古田氏の方にこそ「聖壹」でなかったことを確実に証明できなければ話が変です。
特に、「聖壹(臺)」のところは、邪馬臺―邪馬壹論争を知っている日本人が言い出した話ではなくて、中華書局本にも載っていて、中国人が見ても「聖臺」の方が妥当だろうと認めている話ですし。
元の発言 [ 追記 ] お名前 [ マルセ ] 日付 [ 12月20日(木)00時19分46秒 ]
>> >> 古田氏が調べたところ、『「三国志」全体の中に「壹」の字は86箇所、「臺」は56箇所あり、
>> なお、マルセが調べた範囲では、「三国志」中に「臺」の使用は117箇所、「壹」の使用は118箇所です。古田氏の調査にはかなりのもれがあるようです。
私は調べようとも思いません。
マルセさんは、どうして調べようと思ったのですか。
その動機に大変興味があります。
元の発言 [ Re: 邪靡堆(おわびと訂正) ] お名前 [ マルセ ] 日付 [ 12月19日(水)23時22分43秒 ]
マルセさん こんにちは
>> #「臺」とあるのは、後漢書、梁書、北史、隋書、通典と5つあるのに(他にもあるかも知れませんが)、「壹」とあるのは、魏志だけですよ。しかも、隋書と北史には「魏志にある」と書いてあるのですから。
ですから、私は「版本魏志の“壹”は誤刻であり、魏志も本来は後漢書のとおり“臺”とあったとする通説には、この魏徴の証言がなによりの根拠となっている。」と、言っているではありませんか。
>> #「臺」と「壹」の二つだけを比べればどちらが正しいとは言えないのでしょうけれど、「堆」と発音が似ているのは明らかに「臺」のほうです。
そうですね。
私も「堆」と「臺」は発音が似ていて、「音之訛」というほどの違いはないように思います。
>> #ですから、『裴松之が見たものは全て「邪馬臺」となっていて、一つも「邪馬壹」とするものがなかったから』なんじゃないでしょうか。
「陳寿の死後、『三国志』はすぐに書写されて広く流布したと推測される。それは、一九四二年に新疆省ゼン善県から、東晋時代の写本と考えられる『呉書』虞翻伝の残巻が出土し、一九六五年一月に新疆ウイグル自治区吐魯番の仏塔の下にあった陶瓮の中から仏典とともに、西晋時代の写本と推測される『呉書』孫権伝の残巻が出土したことによって知られる。このように『三国志』の写本が非常に早く、しかもはるか西方の、今日の新疆の地にまで流布したことは、この『三国志』がいかに読まれたかのあらわれであろう。」
の全てが「邪馬臺」となっていて、
「裴松之は百四十余種の書物を広く参考にして注を書いたので、本文を補正するところが多く、また異伝をも載せていることから、『三国志』は裴松之の注を得て、ますますその価値が高められ、正史の中において、その地位を固めたことを述べておく。」
が一つも「邪馬壹」とするものがなかったからであるなら、
一本ぐらい「臺」とする版本があってもよさそうなものだとは思いませんか。
どちらがオリジナルかは別にして、「対海国」とする版本と「対馬国」とする版本があるくらいですから、、、
>> #中国人にとって、倭のことなどどうでもよい東夷のことなのですから、一般化といっても、一般人ならだれでも知っているというまでのことではないでしょう。昔の本のままに新しい知識のことを触れないで書いた本があったとしても、別におかしく感じません。
史書を書くのは「一般人」ではありません。
>> もっとも、梁の時代までは「邪馬臺」の表記で、それ以後「邪摩堆」に替わったためと考えられなくもない気はします。
漢の時代から梁の時代までは一貫して、「邪馬臺」の表記で一般化していたということですね。
>> #たぶんそうです。梁書の著者が引用するときに、写し間違えた可能性もありますけど。
北京の中華書局で、盧振華が梁書を勘考した時の記録に「至邪馬臺國『邪』各本譌『祁』、據冊府元龜九五七改。」とあります。(「各本」は梁書の百衲本、明南監本、汲古閣本、清武英殿本等の諸本を指す。)
著者が写し間違えっちゃったら、この校勘記も意味無いけど、、、
>> #「まず、より著名な史書から引用。著名度が同等な場合は、より新しい史書から引用する」という、ごく普通の、一般的とも言える基準があったと考えれば、別にダブルスタンダードではありません。
この二重の基準からなる「ごく普通の、一般的とも言える基準」が、そもそもダブルスタンダードではありませんか。
>> #これも、もちろん隋書の著者の写し間違いの可能性はあります。隋書を参考にして書かれたらしい北史にも[イ妥]とありますから。
隋書の著者が写し間違えたのなら、[イ妥]には「則魏志所謂倭者也」、[イ妥]奴には「則後漢書所謂倭奴者也」とはしなかったのでしょうか、といっているのです。
>> 隋書を参考にして書かれたらしい北史にも[イ妥]とありますから。
どうして、北史には「邪馬臺」とあるのでしょう。
元の発言 [ Re: 「臺」と「壹」と書き間違いはあるみたいです ] お名前 [ マルセ ] 日付 [ 12月20日(木)09時23分31秒 ]
マルセさん、こんにちは。参加させてください。
>> #古田氏の著述は読んだことがないので、・・・
#それはいけません。いろいろ欠点はあれ、古田はするどい問題提起をたくさんしています。邪馬台国を論じるには目を通しておく必要があります。古田の疑問に答えようとすることで、大和説にも大きな収穫があるはずです。これぞ、大論争の醍醐味でしょ。
>> それに対し、古田氏の主張するところは、「臺」の字は特殊で絶対に「壹」の字に間違えるはずがないということで成り立っているんじゃないでしょうか。
#国名に関しては、そうですね。ただ、古田は国名問題を旧来の方法論(自分に都合のいいようにテキストを読み替える)を否定するためのシンボルに使っているので、邪馬台国が正しいと証明されても全体としての彼の主張には影響ないんじゃないでしょうか。
めちゃくちゃ初心者ですが、最近邪馬台国の事に興味を持っていろいろ調べていて、疑問に思った事がいくつかあったので質問します。
1、欠史八代天皇の名前に「〜日本根子彦〜」とありますが「本」は後に書き足されたもので本当は「日本根子」は「日根子」だったのではないでしょうか。欠史八代の名前は後世的といいますが、逆に後世の人が真似たとも考えられます。僕はこの欠史八代の名前の「〜日本根子彦〜」の「本」と「彦」は後世の人が付けたしたものではないかと思います。本当は「卑弥呼」の「弥」は「祢」の誤りで「卑祢呼」だったのではないかと思います。そうすると「日根子」と読みが同じになります。魏人に対して倭人が「根」とは「御霊やの事だ」とゆう説明をしたから「祢(みたまや)」とゆう字を当てた、しかし、故意か誤りで「祢」が「弥」と書かれてしまった、とゆうような事は考えられませんか?
2、「卑奴母離」に母離とゆう字を当てたのは、魏人にたいして倭人が「ヒナモリは、母里を離れてこの地を警備する為に地方から集められた人たちだ」とゆう説明をしたからではないでしょうか?
3、邪馬台国の副官に「弥馬升」と「弥馬獲支」とあり、この「弥馬」同様に本当は「弥馬台国」であったのを「邪馬台国」としたとゆうような事は考えられませんか?
4、「卑弥弓呼」の「弓」ですがこれは「タラシ」と読めますが、天皇などの名前に「〜タラシ〜」と付く名前の人がいますが、関係ないのでしょうか?
5、昔、出雲の辺に「温羅(うら)」という韓人がいて、吉備津彦に退治されたらしいですが、この「温羅(うら)」を韓国語で読むと「おんろ」と読め、この前に「大倭の」と付けると「ヤマトノオンロ」となり、この吉備津彦の「ヤマトノオンロ退治伝説」がのちに「ヤマタノオロチ退治伝説」になったとは考えられないでしょうか?
元の発言 [ Re: 邪靡堆(おわびと訂正) ] お名前 [ 大場嘉門 ] 日付 [ 12月20日(木)12時08分43秒 ]
大場嘉門さん こんにちは 今日は昼間もちょっと書いてます。みなさんも風邪にご注意!
>>ですから、私は「版本魏志の“壹”は誤刻であり、魏志も本来は後漢書のとおり“臺”とあったとする通説には、この魏徴の証言がなによりの根拠となっている。」と、言っているではありませんか。
#「つまり、魏徴だけでなく、他の書の著者もみんなそう言っているのではないか」ということです。
>>私も「堆」と「臺」は発音が似ていて、「音之訛」というほどの違いはないように思います。
#発音が似ていて微妙に違うわけですから、まさしく「音之訛」という表現が的確であると思います。
>>一つも「邪馬壹」とするものがなかったからであるなら、
>>一本ぐらい「臺」とする版本があってもよさそうなものだとは思いませんか。
>>どちらがオリジナルかは別にして、「対海国」とする版本と「対海国」とする版本があるくらいですから、、、
#すみませんが、一つもないことが別におかしいとは思えません。進化の系統図みたいなもので考えると、「邪馬臺」とあった本は絶滅してしまって、「邪馬壹」のほうが生き残り、その中から、「対海国」と「対海国」とに分かれたということでしょう?
>>漢の時代から梁の時代までは一貫して、「邪馬臺」の表記で一般化していたということですね。
#そういう可能性はないかと聞かれたら、ないとは断言できないというくらいです。
>>北京の中華書局で、盧振華が梁書を勘考した時の記録に「至邪馬臺國『邪』各本譌『祁』、據冊府元龜九五七改。」とあります。(「各本」は梁書の百衲本、明南監本、汲古閣本、清武英殿本等の諸本を指す。)
>>著者が写し間違えっちゃったら、この校勘記も意味無いけど、、、
#「著者本人が『邪』と書いたつもりで『祁』と書いちゃった」ということはよくあることじゃないんですか。著者の間違いの指摘は、まあ勘合というと変なのかもしれませんけれど。この大論争の書き込みを見たって、オリジナルの文書であっても、なにかの引用の部分であっても、皆さん誤字脱字だらけですよ。著者の勘違い・間違い自体は珍しいものじゃないでしょう?(私もなるべくしないように気をつけているんですが、けっこうやっちゃいます。読みにくくて、ごめんなさい。)
もっともこの感じでいったら、まさしく『魏志』もオリジナルから『邪馬壹國』とあった可能性もあります。「陳寿も『邪馬臺國』と書いたつもりで、つい間違って『邪馬壹國』と書いちゃってたとか。でも誰がど〜見ても単なる誤記なので、だれも注をつけなかった」ってことで。。。
>>この二重の基準からなる「ごく普通の、一般的とも言える基準」が、そもそもダブルスタンダードではありませんか。
#一瞬、ダブルスタンダードという言葉を今まで間違った意味で使っていたのかと思って、辞書を引いてしまいました。
>>隋書の著者が写し間違えたのなら、[イ妥]には「則魏志所謂倭者也」、[イ妥]奴には「則後漢書所謂倭奴者也」とはしなかったのでしょうか、といっているのです。
#本人は「倭」と書いたつもりで、間違って[イ妥]と書いてしまったわけですから、注のつけようがありません。
>>どうして、北史には「邪馬臺」とあるのでしょう。
#隋書を引き写したからじゃないでしょうか。
元の発言 [ Re: 追記 ] お名前 [ 大場嘉門 ] 日付 [ 12月20日(木)12時05分45秒 ]
>>私は調べようとも思いません。
>>マルセさんは、どうして調べようと思ったのですか。
>>その動機に大変興味があります。
#寒泉とかのサイトで引けば、いくつあるのかぐらいは簡単にわかりますよ。そんなに大変なことではありません。いくつの段落で使用されているのかが、何筆という形で表示されますし。
あとは検索結果をワードに貼って、編集の置換機能をうまく使って、文字カウントすればOK。だれにでも3分もあれば調べることができます。
元の発言 [ Re: 「臺」と「壹」と書き間違いはあるみたいです ] お名前 [ EK ] 日付 [ 12月20日(木)12時46分49秒 ]
EKさん こんにちは
>>それはいけません。いろいろ欠点はあれ、古田はするどい問題提起をたくさんしています。邪馬台国を論じるには目を通しておく必要があります。古田の疑問に答えようとすることで、大和説にも大きな収穫があるはずです。これぞ、大論争の醍醐味でしょ。
#古田氏の著書も、今度、図書館で借りてきて読んでみます。
で、マルセは別に畿内派ではないです。たぶん、九州派でもないですけれどね、今のところは。
元の発言 [ Re: 邪靡堆(おわびと訂正) ] お名前 [ マルセ ] 日付 [ 12月20日(木)15時29分41秒 ]
>>進化の系統図みたいなもので考えると、...
#ああ、言ったそばから。
もちろん「系統樹」の間違いです。
元の発言 [ Re: 邪靡堆(おわびと訂正) ] お名前 [ マルセ ] 日付 [ 12月20日(木)15時29分41秒 ]
マルセさん こんにちは
>> まさしく『魏志』もオリジナルから『邪馬壹國』とあった可能性もあります。
イントロ談議としては、これを一応の結論としておきましょうか。
で、本投稿のポイントである私の「着想」についても、ご批判をいただけると幸甚です。
元の発言 [ Re: 追記 ] お名前 [ マルセ ] 日付 [ 12月20日(木)15時31分05秒 ]
通じなかったようで、、、(いや、過ぎるほどに通じたのかな)
元の発言 [ Re: 「臺」と「壹」と書き間違いはあるみたいです ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 12月20日(木)14時09分52秒 ]
>>
>>
>>
>>
>>
“それらの諸本”とありますが、どのようなものですか?
>>
“信憑性のある論理”とは、具体的に例をあげていただけませんか?
元の発言 [ Re: 「臺」と「壹」と書き間違いはあるみたいです ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 12月20日(木)07時18分52秒 ]
以前、投稿したことがある者です。
兄弟の字に共通の一文字を用いるというのは、当時の中国には決して珍しくなかったようですね。勿論、全てがそういう法則でつけられていたわけではありませんが、例えば、司馬氏の兄弟の字には「達」が用いられていて、長男の司馬朗の字は伯達、次男の司馬懿の字は仲達です(司馬の八達)。他には、蜀に仕えた馬氏が有名ですね。司馬氏兄弟の場合は、字のつけ方のもう一つの法則も用いられています(年齢順に伯・仲・叔・・・・を用いる)。こちらは、古田氏の仰る「とくに長男だけは、何らかの字で、その長男たるを示していることが多い」に関連するものです。
ただ、古田氏が仰るように、劉備の三人の子息のうち、劉禅と劉永には字に「公」が用いられ、劉理の字には「公」が用いられていないことから、孫羌の字が「聖壹」ではなく「聖臺」だと確実に言えるわけでもないと思います。ただ、古田氏が、長男を示す文字として「伯」だけではなく「壹」や「嗣」も例に出されているのは疑問で、「壹」や「嗣」を字の一文字に入れることで兄弟間の長幼の順序(或いは長男)を示すような慣習があったことは確認できませんでした。「嗣」についても、劉禅の一例だけでは法則の証明とはいきません。
そういうわけで、ちくま『三国志』6巻P343の注は妥当なもので、恐らく「聖壹」とあるのは「聖臺」の誤りだと思います。ただ、私は浅学でして、或いは「壹」や「嗣」を字の一文字に入れることで兄弟間の長幼の順序を示すような慣習があったのかもしれず、もしそうだとしたら、どなたかに御教示して頂きたいと思います。
元の発言 [ Re: Titleしつもん ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 12月20日(木)16時04分50秒 ]
にゃんちゅーさんへ
>>
>>
「キチガイのような」の部分は無視してください。(それでも意味は通じます)
これは、おにりんさんのいつもの「癖」ですから。
おにりんさんも、精神障害者の「差別語」としては使っていないはずです。
元の発言 [ Titleしつもん ] お名前 [ にゃんちゅー ] 日付 [ 12月20日(木)15時04分28秒 ]
にゃんちゅーさん はじめまして
>>1、欠史八代天皇の名前に「〜日本根子彦〜」とありますが...
#「彌」と「禰」の書き間違いは、たくさんあることは事実ですけれど。逆に、「日本根子」「倭根子」ってもともとは「倭祢子」で、実は「倭弥子」の書き違いで「やまとのみこ」だったりして。
>>3、邪馬台国の副官に「弥馬升」と「弥馬獲支」とあり、この「弥馬」同様に本当は「弥馬台国」であったのを「邪馬台国」としたとゆうような事は考えられませんか?
#さすがに「弥馬台国」はどうかなあと思いますけれど。
「弥馬」は、おそらく「ミマ」を写した言葉でしょう。地名としては、徳島県美馬郡美馬町、愛媛県北宇和郡三間町というのが現在でもあります。阿波国美馬郡は延喜式にも載っているわけですから、「ミマ」という地名が近年になってできたわけではありません。したがって、この二人が日本列島内のどこか「ミマ」というところの出身で、名前の一部に地名が入っているということは十分に考えられます。
記紀にも「ミマツヒコ」や「ミマツヒメ」、「ミマキイリヒコ」がありますね。ただし、こちらは奈良市内に水間町もあるところだし、大和内部の出身と考えても特に変な話ではありません。
>>4、「卑弥弓呼」の「弓」ですがこれは「タラシ」と読めますが、...
#私もおにりんさんと同じで、「弓」を「タラシ」と読む例を知りません。「垂」「足」「帯」ならわかるんですけれでも。これは、何に書いてあるんでしょうか。
>> 5、昔、出雲の辺に「温羅(うら)」という韓人がいて、...
#場所は出雲じゃなくて吉備なのでは?
元の発言 [ Re: 追記 ] お名前 [ 大場嘉門 ] 日付 [ 12月20日(木)17時25分33秒 ]
具体的な数字(事象)が書いてあったから、それをちょっとチェックしてみたくなっただけです。それほど深い意味では、やっていません。
まあ、マルセのは、なんか職業病みたいなものと思ってください。
元の発言 [ Re: Titleしつもん ] お名前 [ マルセ ] 日付 [ 12月20日(木)18時37分03秒 ]
>> 私もおにりんさんと同じで、「弓」を「タラシ」と読む例を知りません。「垂」「足」「帯」ならわかるんですけれでも。これは、何に書いてあるんでしょうか。
#がーん。インターネットで引いたら、弓を「たらし」と読むというのが出てきてしまいました。本当に「訓」でならあるんですね。おにりんが書いたのは、「訓」で読むはずがないって意味だったんですね。
正始元年の春、何があったのだろう?
(『三國志』魏書 三少帝紀 齊王芳より)
正始元年春二月乙丑、加侍中中書監劉放,侍中中書令孫資爲左右光禄大夫。
丙戌、以遼東[シ文],北豐縣民流徙渡海《中略》…縣界爲新[シ文],南豐縣、以居流民。
自去冬十二月至此月不雨。
丙寅、詔令云々
夏四月、車騎將軍黄權薨。
以上は正始元年春二月の記事である。一見してオヤ?と思う方もいると思うが、何かがおかしい。二月の丙戌の日に新しい県を新設して遼東からの流民を住ませた。同じ月の丙寅の日に詔書を発した。そんなことはありえない。なぜなら丙寅は丙戌の40日後だからである。
十干十二支で日付を表わす当時の表記法では
干支の前半は甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸の10種
干支の後半は子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥の12種
これらが順次組み合わされていく。
つまり、もし1月1日が甲子なら2日は乙丑、3日は丙寅。そして60日で干支が一巡する。この組み合わせである限り、丙寅は丙戌の40日後であって同じ2月ではありえないのである。
ゆえに、考えられる選択肢は4つある。
1 丙戌の日付が間違っている。
2 丙寅の日付が間違っている。
3 どちらも間違っている。
4 丙寅は実は翌月の記事で、あいだに「春3月云々」等の記述があったが脱漏した。
すぐ次に「夏四月、車騎將軍黄權薨」という記事があることもあり、4の可能性はある。「現存するテキスト上に無い字句を勝手に補ってよいのか?」という疑義もあろうが、ここはひとまず措く。というのは、丙戌の流民記事の前にある乙丑という日付である。
「正始元年春二月乙丑、加侍中中書監劉放,侍中中書令孫資爲左右光禄大夫」
乙の次の十干は丙、丑の次の十二支は寅であるから、同じ月なら丙寅というのは乙丑の翌日である。あいだに丙戌の流民記事が入り込むことはおかしいのである。
ゆえに、あいだに「春3月云々」等の記述が写本の代々筆写中に漏れ消えてしまったと考えるのが合理的。。。と思いきや、実はもうひとつ問題があった。丙戌というのは2月6日なのである。
劉放らが光禄大夫になった乙丑の日というのは丙戌の21日前。2月ではありえない。
当時の暦を復元して精査すると、正始元年の春の乙丑の日は、正始元年1月15日および3月16日の2つ以外には無い。必然的に丙寅の日も1月16日および3月17日の2つである。こう見てくると、一見もっともに見えた上記4の説明が俄かに怪しくなる。堂々と「正始元年春二月乙丑」と書かれている以上、あいだに3月という記述があったが書き落とされたとは言えない。かといって、「二」は「三」の書き間違いだと考えようとすると、間に挟まった丙戌の流民記事の扱いに困ってしまう。丙戌の日は春には正真正銘2月6日なのである。では1〜3のような錯誤が重なったのであろうか?
こんにち、通常行われている解釈は「正始元年春二月乙丑」を「正始元年春二月乙酉」(2月5日)に改定し、「丙寅、詔令云々」の前には「三月云々」があったものと加筆するものである。これは些か、根拠薄弱な原文改定の上塗りという謗りを免れ得ないように思う。なぜそのような錯誤の累積が起こり得るのか?
お読みの皆さんの一部はすでにお気づきであろうが、本投稿は以下のような原因を推定する。
◇三少帝紀が編集された時点で使用した原記録には、劉放らの任命記事が「景初四年春二月乙丑」、続いて「丙寅、詔令云々」としるされていた。これを「正始元年春正月乙丑」と訂正すべきところ、月次が訂正漏れになった。
◇遼東流民の話は、原記録でも正始の改元改暦を正しく反映して春二月丙戌とあったが、前項の混乱で不自然な位置に竄入した。
宋書礼志がしるすように、正始の改元改暦は時間をかけて検討されたものではなく、年末の混乱の中で急遽決定された措置である。リアルタイムで記録された各種にデータにはその混乱の痕跡が残っていて自然である。これを幾分旧聞に属するがYK2に因んでYK4の問題と命名した人がいた。諸兄の注意を喚起したい。
元の発言 [ Re: 伊勢神宮の祭神は? ] お名前 [ ちょっと一服 ] 日付 [ 12月19日(水)17時35分56秒 ]
ちょっと割り込み失礼します。
>> >> のが、なにかの意図により、現在のように変えられたと考えるが………。
私が9月末に牛頭さんとのスレッドで紹介した今年発刊された本
講談社現代新書「神道の逆襲」
という本にちらっと書いてあります。千木については記述は有りません。要すると内宮外宮の関係の歴史的経緯が巻この本好著ですよ。
今年のサントリー学芸書大賞とかなんとかに選ばれている筈です。別に考古学の本では有りません神道史から見た日本論です
>> ま,一応,雄略朝とか。
そこはまったく
まさしく神のみぞ知るでしょうね
おじゃましました
元の発言 [ Re: 倭人伝の国名 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 12月19日(水)17時02分45秒 ]
>>
#ほんとかな〜。「弥生以前」とかじゃないんですか。
>>
#やっぱり、「呼=か」ですね。
古田先生は「ひみか」と呼んでいました。
(邪馬四さんには今のところレスをいただけてないけど、このチャチャはこれを言いたくて付けたんです。反古田の論者の皆さんは、何が何でも「ひみこ」が正しいと首尾一貫して主張してくださいね。)
元の発言 [ Titleわが国最古、奈良・箸墓古墳周濠跡から木製馬具出土 ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 12月1日(土)18時23分32秒 ]
>> と言う事は箸墓が卑弥呼の墓である可能性は完全になくなった事になります。
落葉が二十〜三十年堆積した層から大量の土器と一緒にでたそうで、環濠の底だったか浮いていたかは記事にありませんが、
やはり、「土師墓」だったのでしょう。
馬などの家畜の輸送で皆さん議論なさっているんですが。
何回か名前を出している。
作家の豊田有恒さんの本で馬と言うのは、目隠しすると意外に船に乗せて運ぶのは、
簡単だって書いてありましたけど?
騎馬民族説の反論として書かれていた物ですが。
だとすると、朝鮮半島から島伝いなら問題ないことになりませんか?
元の発言 [ Titleしつもん ] お名前 [ にゃんちゅー ] 日付 [ 12月20日(木)15時04分28秒 ]
ども!
>> 1、欠史八代天皇の名前に「〜日本根子彦〜」とありますが「本」は後に書き足されたもので本当は「日本根子」は「日根子」だったのではないでしょうか。
それはないだろうねぇ。「やまとねこ」って、続日本紀なんかの宣命にもよく「倭根子天皇命」(やまとねこすめらみこと)という形で出てくる呼称だからねぇ。
>> 欠史八代の名前は後世的といいますが、逆に後世の人が真似たとも考えられます。
大日本根子彦太瓊天皇
大日本根子彦国牽天皇
稚日本根子彦大日日天皇
宣命などを踏まえると、やっぱり日本根子・天皇は後世の追号だろうねぇ。彦太瓊・彦国牽・彦大日日の部分は古くから伝えられた名前かもしれないけれどね。
元の発言 [ Re: 邪靡堆 ] お名前 [ 大場嘉門 ] 日付 [ 12月13日(木)13時50分53秒 ]
大場嘉門さん こんばんわ
大場嘉門さんの読み方が正しいとして。
斐松之以前の写本期において、「壹」につくるものと
「臺」につくる魏志が存在した場合、そのいずれが
正しいかと言う場合も、同様な表現になりませんか?
陳寿原本は、筆写されて官本になった経緯もあるようですし。
元の発言 [ Re: 邪靡堆 ] お名前 [ 大場嘉門 ] 日付 [ 12月13日(木)13時50分53秒 ]
大場嘉門さん こんばんわ
大場嘉門さんの読み方と解釈が正しいとして。
斐松之以前の写本期において、「壹」につくるものと
「臺」につくる魏志が存在した場合、そのいずれが
正しいかと言う場合も、同様な表現になりませんか?
陳寿原本は、筆写されて官本になった経緯もあるようですし。
元の発言 [ Re: 邪靡堆 ] お名前 [ 豊玉 ] 日付 [ 12月22日(土)00時42分37秒 ]
これは二重投稿です。削除していただけると
ありがたいです。
元の発言 [ Re: 「臺」と「壹」と書き間違いはあるみたいです ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 12月22日(土)00時57分11秒 ]
具体的に、書名・写(版)本名・作成年を記してほしいのですが。
元の発言 [ Re: 邪靡堆 ] お名前 [ 豊玉 ] 日付 [ 12月22日(土)00時44分14秒 ]
豊玉さん こんにちわ
>> 斐松之以前の写本期において、「壹」につくるものと
>> 「臺」につくる魏志が存在した場合、そのいずれが
>> 正しいかと言う場合も、同様な表現になりませんか?
「臺」が正しいとした場合、
「魏志の謂う所”は”邪馬臺である」ではなく、
「魏志の謂う所は邪馬臺である」としたと思います。
元の発言 [ Re: Title 謎とき 日本合戦史 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 12月14日(金)00時55分49秒 ]
『謎とき 日本合戦史』は、大きな本屋さんならあるだろうと
考えて探したのですが、本屋7軒探してもありませんでした。
こらだから、田舎は・・・。
>>
>>
確かにそうですね。
ただ、戦国時代に大量の農民を動員した足軽などと比べると、
平安時代は、下っ端でもかなりまともな鎧を付けているんです
よね。南北朝くらいになると、この歩兵用の鎧が、改良を加え
つつ騎兵にも使われるようになる。
恐らく、非戦闘員は鎧などはほとんど身に付けていなかったで
しょうが、非戦闘員は攻撃しないという原則があったといいま
すね。どこまで守られたか怪しいですが。源義経は、壇ノ浦で
この原則をやぶり、舟の漕ぎ手を射殺させたとか。
元の発言 [ Re: Title 謎とき 日本合戦史 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 12月13日(木)23時40分50秒 ]
>> 軍記物では平安末期(源平合戦)になると、弓が主力とは言
>> え白兵戦の記述が以前より増えますが。
>>
>>
>>
>>
軍記物も源平、南北朝など時代によって内容が変化していま
すが、軍記物の戦闘の変化と武具防具の変化は基本的に一致
していますから、軍記物の記述を無視する訳にはいかないで
しょう。
>> それに、何とか槍とかいう称号は大将の称号ではありませんよ。
>> 実際に、槍で敵を倒した人の称号です。
>>
>>
戦国時代の合戦では、まともに戦って取った首が評価される
のであって、追撃戦でとった首はほとんど評価されません。
その為、そういう首は邪魔になるので捨てたという事です。
一つも首を取れなかった人や、首を多く取るのが趣味だった
人はそういう首も捨てなかったそうですが。
>> では何故、元軍の革鎧に不利だったという理由で、日本刀が
>> 変化するのでしょうか。
>>
>>
>>
>>
>>
それにしては、変化が多すぎるような。
日本刀の変化は元寇以外にも色々ありますからね。
>> 剣術は広く行われていたでしょう。
>>
>> 基本的に武士は常に帯刀しているのですから。
>> 実際、真壁闇夜軒とか富田重政とか色々いますね。
>>
>>
室町時代です。史実かどうか確認できない話を含めると、平安
時代までさかのぼります。いや、国摩真人を含めると奈良時代
ですね。
>> でも、実戦で活躍した名人達が白兵戦の技術を残しているの
>> です。弓術の流儀もありますが少ない。
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
誰ですか?そんな大嘘広めてるのは?
古流の剣術は非常に発達しています。
現代剣道は技数が非常に少ないですが、古流の技は膨大です。
現代剣道が古流をほとんど全部総合したなどと言う事はあり
えません。はっきり言えば、現代剣道は一刀流(特に北辰一
刀流)の竹刀稽古を現代武道化したものです。ほかの流儀を
入れようとした形跡はありますが、ほとんど入ってません。
ちなみに、剣道は一刀流的ではありますが、一刀流そのも
のではなく、北辰一刀流五世小西重治郎宗家によると、現代
剣道の中には、北辰一刀流の面影すら残っていない、という
話があります。
私の師匠は戦国時代の流儀の師範ですが、十代の頃、剣道六
段の人を棒術で倒してます。
さらに、大学生の頃は一時的に剣道部に在籍していましたが、
先輩の面を打ったら先輩が失神した事があったそうです。
現代剣道は竹刀の打ち合いですが、古流は真剣で斬り殺す、
または木刀で打ち殺す技術なので、威力が違うのです。
また、古流は接近戦になると、関節技をかけたり、殴ったり
もします。剣以外の武器も使います。
江戸時代中頃、竹刀剣術が発達しますが、竹刀を否定して木
刀で徹底的に型稽古をして200年に一度の名人と呼ばれた
寺田宗有などもいます。
幕末の四大人斬りのうち二人は示現流の使い手ですが、示現
流は竹刀稽古をしません。
新撰組で有名になった天然理心流も、竹刀中心の流儀ではあ
りません。
また、竹刀の登場は江戸時代ではなく、戦国後期にはふくろ
竹刀が登場しています。防具は江戸時代ですが。
日本軍で軍刀操法の流儀が創始されたのは、剣道が真剣の斬
り合いでは使えなかったからです。
当時の試し斬りのデータがありますが、それによると、剣道
三段の人が失敗して自分の左膝を斬り、刀を約7メートル飛
ばしています。
誤解のないように書いておきますが、現代剣道を馬鹿にして
いる訳ではないですよ。ただ、現代剣道は競技であり、真剣
や木刀の殺し合いとは別ものだという事です。
それから弓術ですが、現代弓道と違って的を射ればよいとい
うものでもありません。
たとえば某流儀では、隊を二つに分け、交代しながら前進し
、最後に槍隊と交代します。
私は弓術は詳しくしりませんが、現代武道と古流は別ものだ
という事を忘れてはいけないでしょう。
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
武士の姿でよいでしょう。
南北朝くらいから、飛び道具は歩兵中心の武器になったので
すから。
武士の戦闘と雑兵の戦闘を混同してませんか?
>>
>>
>>
>>
小競り合いが多かったのは事実でしょうが、ほとんどなかった
と言えるかどうか。
関ヶ原、姉川、川中島、戸石崩れ、上田原、川越、天王山、
厳島、手取川、三方ヶ原、長篠、桶狭間、明禅寺、長島一
向衆、三増峠・・・思いつくだけも結構ありますね。
ところで、その本の根拠は恐らく軍忠状ではないですか?
軍忠状なんてそんなに残っているとは思えないのですが、
数少ない現存する軍忠状の記述を絶対視しているとしたら、
その時点で問題があると思うのですが。
元の発言 [ Re: Title 謎とき 日本合戦史 ] お名前 [ 馬頭鬼 ] 日付 [ 12月13日(木)17時32分42秒 ]
>> 以前NHKで紹介された、雑兵物語と言う書物があるそうですね。
>> 一度読みたいと、思っていますが、手に入らない物で、
>> NHKが、その番組で行った、実験では、高い実用性が証明されたように感じられたんですが。
>> くだんの件の書物には、この雑兵物語は、どの様に紹介されているのでしょうか。
>> また、討論の内容からすると、なんか、その番組の中で読まれた内容、よく覚えていないのですが、違和感があります。
雑兵物語はその名の通り、雑兵の戦闘について書かれたもの
ですから、武士の戦いとは別ものとして考えないと混乱する
でしょうね。また、雑兵物語は関ヶ原〜大坂の陣の頃の足軽
の戦闘法、つまり戦国最終段階のものですね。
元の発言 [ Re: Titleわが国最古、奈良・箸墓古墳周濠跡から木製馬具出土 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 12月3日(月)11時31分46秒 ]
>> なんと言っても一番底から出てきたので築造から20年、30年後の流入は考えられません。
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
ちっとも一般的じゃないと思いますが。
>> 西晋時代に伝わったとしてもおそらく晋での発明が265年と言う訳ではなく270年から280年で、更に中国で普及するのに20年位、
>> 日本に伝えられるのはそれ以後のことでしょう。
>>
鐙の流入は300年頃と言うのを認める訳ですね?
>> 当時、馬を日本まで送ると言う事は一大事業ですから、日本に馬を送ればそのような記述が晋書などに記載されてもよさそうな気がします。
>>
>>
>>
>>
>> ですからこれは晋の皇帝から邪馬台国に贈られた物ではありません。
>> 民間レベルで、あるいは騎馬兵士と共にやって来た物です。
>>
>>
>> 日本に来る前に死んでしまう可能性が強い神経質な馬の海上移送です。
>> 国と国の交流での贈り物としては最も適さない物でした。
>>
ふつう輸送方法が確立していて安全に贈れる保証が無ければ贈ろうとしないんじゃありません?
確率の低いギャンブルを国がやるんですか?
>> 騎馬兵隊なら馬は必需品ですから死ぬ可能性が強くても運ぼうとしたかも知れません。
>> 馬が日本に来たのは馬を必需とする人間が駄目元で運んだからでしょう。
>>
>> よーするに、騎馬民族来朝が三世紀末か四世紀だった可能性がでてきたわけです。
>>
>>
>>
>>
>>
私も騎馬民族が数千数万の騎馬民族が一時に数千の馬を引き連れてやってきたとは考えていません。
但し、騎馬を得意とする集団が極僅かの馬を連れてやってきた可能性は十分あると考えます。
戦いになれていない農民しかいなかった畿内ならそれで十分支配できたのではないでしょうか?
それが三世紀後半であると。
元の発言 [ Re: Title 謎とき 日本合戦史 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 12月13日(木)23時19分35秒 ]
>> 日本では城攻めが多かったですから、狙って撃ったとは限
>> らないのではないですか?
>> 砲術が生れた国ですから、外国よりは狙って撃ったのかも
>> しれませんが。
>>
>>
>>
歩きながら撃つ必要はないのでは?
野戦陣地に篭って撃つ、又は向かってくる敵を城の中から撃
つというのが、戦国時代に多用された戦法ではないですか?
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>> 戦国はともかく、江戸時代の日本には変った銃が色々あり
>> ますからね。連射銃がなかったかどうか。
>>
>>
>>
>>
>>
日本式薬莢である早合じゃだめなんですか?
元の発言 [ Re: Title 謎とき 日本合戦史 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 12月13日(木)23時09分35秒 ]
>> そういう記録があるのですか?
>>
それでは推測に過ぎないですね。
>> あったとしても、そこまでいったら白兵戦になる可能性が高
>> いのではないですか。敵だって馬鹿じゃないんですから、矢
>> を拾っている間に、逃げるとか反撃するとかするでしょう。
>>
追討という事は、敵は必死で逃げてる、又は足止め部隊が全滅
覚悟で戦っているという事でしょう?
>> 銃剣突撃だけが白兵戦でもないでしょう。
>>
>> 第二次世界大戦では、ドイツ軍とロシア軍が銃剣やスコップ
>> まで使ってかなり激しい白兵戦をしているはずですが。
>>
>>
>>
>> 今でも自衛隊は銃剣道やってますね。
>> 名前は忘れましたが、日本人の元傭兵が射撃の後に銃剣で刺
>> す訓練をしないと駄目だと何かに書いてましたが。
>>
軍事のプロの意見に素人が反論しても、説得力がないので
すが。
元の発言 [ Re: 「臺」と「壹」と書き間違いはあるみたいです ] お名前 [ かまくら龍 ] 日付 [ 12月22日(土)10時28分48秒 ]
>> 具体的に、書名・写(版)本名・作成年を記してほしいのですが。
でも、ことなる系列の現存写本どうし成立年代を比べても意味はないですよ。
そういう「公理」を使うのは古田さんだけですから。
対海国 : “瀚海”に対する国としての呼び名。
すなわち、中国(朝鮮半島)側からみた名前。
対馬国 ; “馬韓”に対する国としての呼び名。
すなわち、九州側からみた名前。
したがって、倭人伝における「対海国」は誤りではない。
国境を接しているときには、双方がそれぞれの名称で呼ぶのはあたりまえのこと。
それぞれ自国の大義名分として。
元の発言 [ Re: 四国東部説−国名と地名と遺跡 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 12月19日(水)02時03分58秒 ]
山師の邪馬四です。
>>
>>
>>
>>
>>
>>
うむむ、脈絡がないといわれてしまったか。
いちおう類似とした地名は、基本的に音韻転訛の
範囲内だとは思うんですけどね。
母音の「あ−お」「い−う」などで、
意味に引きずられて転訛している例なんて
数多くあるような・・・。
(怪しいのはHPで△にしてます。)
万葉仮名あたりの音の対応のことなんだろうけど
全ての地名がそこまで溯れるようなものじゃないしなあ。
質問なんですけど、姐奴国とか華奴蘇奴国とか支惟国に
対する音に対するぴったりの地名って何でしょう?
そういう地名が古地名のなかで見つからなければ
もう消えてしまったとしないといけないのかな?
安本氏の本は読んでおきます。
ネットで検索したら書評がでてきました。
「計量言語学という耳慣れない学問を駆使し、
古代日本語が現代日本語と連続した存在であることを
論証した。万葉集は朝鮮語では読めないそうだ。
また古い地名の考察から、邪馬台国の場所を特定する
手法はおもしろく読める。本当かどうかは別にして。」
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
とすると、山陽沿いで21ケ国並んでたのではないですか?
なんか一つの名前が合っているだけで、そこじゃないか
というのはどうなんですかね?
あと音が合うというだけでばらばらに比定するというのは
ひどくないですか。
元の発言 [ Re: 倭人伝の国名 ] お名前 [ EK ] 日付 [ 12月19日(水)12時50分19秒 ]
>> いくつか質問、というか、ちゃちゃ。
>> >> E 奴 な 福岡市 那か郡 (な)
>> #「奴=な=那」は定説ですが、私はほんとかな〜と思っています。で、
>> >> 5 彌奴 みな 三野町 三野郡 (みの)
>> #でしょ。「奴=野」と考えるべきじゃありませんか。
>> もっとも、一文字の「野」っていう地名はあり得ませんけどね。
>> >> 6 好古都 はかた 高瀬町 羽方 (はがた)
>> #博多のほうがぴったり。
>> >> 10 蘇奴 さな 東予市北部 庄内 (しょうな)
>> #でもここは「奴=野」じゃないのですね。
>> >> 20 烏奴 うな 阿南市北部 大野郷 (おおの)
>> >> 22 狗奴 こな 阿南市南部 桑野 (くわの)
>> #ここはふたたび「奴=野」ですね。
>> >> 7 不呼 ふか 川之江市・伊予三島市 大岡駅 (おか)
>> #ははあ。「呼=か」ですね。
>> >> 11 呼邑 こよ 朝倉町・今治市 古谷 (こや)
>> #あれれ。「呼=こ」ですか。
>> >> D,G-21 女王国 ** 女王が統治する国
>> #私は古田武彦の「百女国は八女の意訳だ」という説が結構好きです。
「奴」と「呼」の母音を問題にされているわけですよね。
簡単に言えば、音韻転訛の範囲だと思うのですけどね。
(一応の理由付けとしては、海岸線の変化による
「那」から「野」かな?)
あと長田夏樹氏の「邪馬台国の言語」とかを参考に
してはいますが、この時代の音韻は必ずしもはっきり
していないのではないでしょうか?
それから「好古都」の音が「博多」に似ているからって
それで比定してしますのはどうでしょうか?
もしそうなら、その周辺で21ケ国を次々に
比定できるはずですが・・・。
元の発言 [ Re: 倭人伝の国名 ] お名前 [ 邪馬四 ] 日付 [ 12月22日(土)21時56分46秒 ]
>> 「奴」と「呼」の母音を問題にされているわけですよね。
>> 簡単に言えば、音韻転訛の範囲だと思うのですけどね。
#例えば九州ではナ、四国ではヌ、近畿ではノ、とか、あるいは3世紀にはナで6世紀にはノ、とか言うのなら音韻転訛ということもあるでしょうが、同一時点の同一文化圏でナもノもある、カもコもある、っていうのはご都合主義ではありませんか。
>> (一応の理由付けとしては、海岸線の変化による
>> 「那」から「野」かな?)
??? 岬のこっちはナで向こうはヌ、違う方言、という意味でしょうか。
>> あと長田夏樹氏の「邪馬台国の言語」とかを参考に
>> してはいますが、この時代の音韻は必ずしもはっきり
>> していないのではないでしょうか?
#はっきりしないからと言って、どんな音か不明だが一つの奴という音を、野にあてたり内にあてたりするのは納得できません。
>> それから「好古都」の音が「博多」に似ているからって
>> それで比定してしますのはどうでしょうか?
>> もしそうなら、その周辺で21ケ国を次々に
>> 比定できるはずですが・・・。
#邪馬四 さんがまさにそれをやっていると私には思えますが。邪馬四 さんの説には音が似ているという以上の根拠があるのでしょうか。
元の発言 [ Re: Titleわが国最古、奈良・箸墓古墳周濠跡から木製馬具出土 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 12月3日(月)11時38分00秒 ]
>> 中国は三世紀末から4世紀も戦乱期ですから南方系の発明品が各地に伝播していたかも。
>>
>>
>>
>>
>>
>>
ふと思ったんですが、西晋が280年ころから鮮卑、匈奴により北方からの圧力をうけていたとすれば邪馬台国との交流も途切れと言うか
まばらになってきていたのでは無いでしょうか。
三角縁神獣鏡などは西晋と言うより東晋(呉と魏の影響を併せ持つ)の流れを汲んでいるとは考えられないでしょうか。
元の発言 [ Re: Titleしつもん ] お名前 [ マルセ ] 日付 [ 12月20日(木)20時12分11秒 ]
>> #がーん。インターネットで引いたら、弓を「たらし」と読むというのが出てきてしまいました。
古訓で「たたし」はありますが、「たらし」は
無理でしょう。類聚名義抄あたりではないでしょうか?
元の発言 [ Re: Title 謎とき 日本合戦史 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 12月23日(日)01時59分34秒 ]
>> 誰ですか?そんな大嘘広めてるのは?
>>
>>
>> 古流の剣術は非常に発達しています。
>> 現代剣道は技数が非常に少ないですが、古流の技は膨大です。
>>
>>
>> 剣道の中には、北辰一刀流の面影すら残っていない、という
>> 話があります。
>>
>>
>>
>>
>>
>> 誤解のないように書いておきますが、現代剣道を馬鹿にして
>> いる訳ではないですよ。ただ、現代剣道は競技であり、真剣
>> や木刀の殺し合いとは別ものだという事です。
割り込み失礼します。
お二方とも、かなり認識にずれと違いが、有るようですね。
おにんりんさんは、技に認識について、影虎さんは、現在の剣道について、と其の理由について。
おにりんさんのお師匠さんも、おのりんさんに話していない事モラルのでしょうから
まず影虎さん、剣道にも昔は鍔迫り合い時の肘打ち膝蹴り足がらみ、
そのた、教えておりましたし、また、よほど危険な技以外は、使っていたようです。
私の前の前の世代からかな、無くなったのは、ただ、私の世代には、まだ若干肘打ち足掛け足がらみが残っておりました。また組討も。
勿論反則で、試合に使う事などできませんでしたが。
本当に正しい鍔迫り合いは、真剣か刃引きでしか身に付かないと私は考えています。
私も下手の横好き、たまにしないと木刀を握っています、運動不足の解消に過ぎませんが。で、振っていて判ってきた事があります。
正しい振りも、技も絶えつつあるのでしょうと、
試合に使わないような技は、教えないし稽古でも使いません。
まあ、色々理由もあるのですが、私の世代では、
正しい技の使い方をしないとこんな目にあうぞと言うような、警告的使い方でした。
ですが、これ悪用できる技ですから下手するとしごきにも使われていたんですね。
だけでなく、試合時の反則に近い事があったのです。
もっとも故意でない事の方が多いのですが、
それで、教えなくなったようです。
稽古で使っている技は、試合でも出てしまう事があるからですが。
逆に、知っていても練習していなければ使えないのが技です。
学生時代に、冗談で紙を丸めてチャンバラですが如何言うわけか打突部位しか叩けない事に気づきました。
これかなりショックでしたね。
袈裟懸けにしても、咄嗟に足は払えない。
では、実戦でまったく役に立たないではないかと。
また同じように、何故、竹刀かと言う事も無視なさっているようですね。
竹刀で打たれると痛い、だから上達すると言う稽古具なのです。
技の上達を見るのに、都合の良い試合にも使えるということです。
で、この上で、真剣の使い方を正確に学び練習しておく。
これが本当の剣道なんでしょう。
実際には、これが完全に抜け落ちて競技のみになってしまったと言う事です。
実際に、竹刀は、真剣より持ちにくいし振りにくいでしょう?
おにりんさんは、逆です。
型なの使い方は、基本的に数種類しかないですから、そうなるのが当然です。
ですが、使い方においていろんなパターンが出てくる。
似たような、形を幾つかの立場で行えば、集約されたように見えるし考えられでしょう。
そして、刀の使い方が技でしょう
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
ナに言ってるんでしょうか?人間手が二本足が二本体型以外は変わりようがないでしょう。
関節の形機構構造だって変わりません。
だから似たような事が、原始から世界共通に行なわれて当然です。
其の生活環境で違ってくるでしょうが。
>> 私は弓術は詳しくしりませんが、現代武道と古流は別ものだ
>> という事を忘れてはいけないでしょう。
>>
>>
>>
>>
>>
何のための武術なんですか?
すぐ、わずかの時間でもそこそこ戦えるようになる。
その鍛錬ノウハウが、武術でしょう?
元の発言 [ YK4 問題 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 12月23日(日)02時33分49秒 ]
>>
>>
その問題は,倭人伝の,
「景初二年六月」「その年十二月」「正始元年」
という一連の記述とも絡んでくるんでしょうか。
元の発言 [ Re: Title 謎とき 日本合戦史 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 12月23日(日)01時59分34秒 ]
>> 軍記物も源平、南北朝など時代によって内容が変化していま
>> すが、軍記物の戦闘の変化と武具防具の変化は基本的に一致
>> していますから、軍記物の記述を無視する訳にはいかないで
>> しょう。
>>
>>
>>
>>
軍記物の場合は、史料を参考にしたり、人から聞いた話と
かが多いですね。ちなみに日記でも白兵戦について書かれ
ている物はありますよ。前に紹介しましたよね。
>> 戦国時代の合戦では、まともに戦って取った首が評価される
>> のであって、追撃戦でとった首はほとんど評価されません。
>> その為、そういう首は邪魔になるので捨てたという事です。
>> 一つも首を取れなかった人や、首を多く取るのが趣味だった
>> 人はそういう首も捨てなかったそうですが。
>>
出典は忘れましたが、軍記物ではないです。
>> 誰ですか?そんな大嘘広めてるのは?
>>
>>
>> 古流の剣術は非常に発達しています。
>> 現代剣道は技数が非常に少ないですが、古流の技は膨大です。
>>
>>
たぶん、では困ります。
いい加減な話を広められると迷惑ですから。
竹刀では使えない技もありますが、使える技で剣道に採用さ
れていない技もあります。
一刀流の師範が、近代、現代剣道の中心だったのですから、
一刀流以外の技がほとんど入らないのは当たり前です。
古流の技しってますか?切り落とし、はしかかる、続飯付
け、と言われて意味わかりますか?
>> 剣道の中には、北辰一刀流の面影すら残っていない、という
>> 話があります。
>>
>>
>>
>>
>>
二刀流?どういう事ですか?まさか一刀流というのが、一本
の剣で戦う技術の総称だと思っているのですか?
20か30?意味がよくわかりません。
江戸時代の技法数はそんな物ではないでしょう。
ところで、流儀の技というものは、使い方しだいでどんな流
儀とも戦えるでしょうが、それを持ってほぼ全ての流儀の技
法を総合したとは言えないでしょう。
>> 誤解のないように書いておきますが、現代剣道を馬鹿にして
>> いる訳ではないですよ。ただ、現代剣道は競技であり、真剣
>> や木刀の殺し合いとは別ものだという事です。
>>
>>
>>
>>
>>
>>
二本差じゃないと成立しない技とかありますが、そういうの
が、古代エジプトにあったというのですか?
日本の甲冑着用を前提とした技があったのですか?
中国拳法には、両腕を連続して縦回転させて攻撃する拳法が
ありますが、そんな技が古代エジプトにあったのですか?
また、技が似ていても、身体の使い方が違ったりする事はよ
くありますよ?
>>
>>
>>
>> ところで、その本の根拠は恐らく軍忠状ではないですか?
>> 軍忠状なんてそんなに残っているとは思えないのですが、
>> 数少ない現存する軍忠状の記述を絶対視しているとしたら、
>> その時点で問題があると思うのですが。
>>
戦国時代限定で数十万回戦があったといわれていますが、そ
の中の一部に過ぎないのではないですか。
戦国時代の戦いは、有名な戦いでも参加した兵力がはっきり
しなくて、色々な説があったりしますから、死傷率が正確に
だせるかどうか、という疑問もありますね。
元の発言 [ Re: Title 謎とき 日本合戦史 ] お名前 [ 馬頭鬼 ] 日付 [ 12月23日(日)08時53分51秒 ]
>> 割り込み失礼します。
>> お二方とも、かなり認識にずれと違いが、有るようですね。
>> おにんりんさんは、技に認識について、影虎さんは、現在の剣道について、と其の理由について。
>> おにりんさんのお師匠さんも、おのりんさんに話していない事モラルのでしょうから
>> まず影虎さん、剣道にも昔は鍔迫り合い時の肘打ち膝蹴り足がらみ、
>> そのた、教えておりましたし、また、よほど危険な技以外は、使っていたようです。
>> 私の前の前の世代からかな、無くなったのは、ただ、私の世代には、まだ若干肘打ち足掛け足がらみが残っておりました。また組討も。
>> 勿論反則で、試合に使う事などできませんでしたが。
>> 本当に正しい鍔迫り合いは、真剣か刃引きでしか身に付かないと私は考えています。
>> 私も下手の横好き、たまにしないと木刀を握っています、運動不足の解消に過ぎませんが。で、振っていて判ってきた事があります。
>> 正しい振りも、技も絶えつつあるのでしょうと、
>> 試合に使わないような技は、教えないし稽古でも使いません。
>> まあ、色々理由もあるのですが、私の世代では、
>> 正しい技の使い方をしないとこんな目にあうぞと言うような、警告的使い方でした。
>> ですが、これ悪用できる技ですから下手するとしごきにも使われていたんですね。
>> だけでなく、試合時の反則に近い事があったのです。
>> もっとも故意でない事の方が多いのですが、
>> それで、教えなくなったようです。
>> 稽古で使っている技は、試合でも出てしまう事があるからですが。
そういう話はしっております。
おにりんさんが誤解しているようなので、古流と現代剣道の
違いを分かりやすく説明しただけです。説明のしかたが悪か
ったようですね。
それから、私が言っている現代剣道というのは戦後の剣道、
GHQによる武道禁止例後に競技という形で復活した剣道
の事です。それ以前の組討やったりしていた剣道は近代剣
道と呼んでおります。
>> また同じように、何故、竹刀かと言う事も無視なさっているようですね。
>> 竹刀で打たれると痛い、だから上達すると言う稽古具なのです。
>> 技の上達を見るのに、都合の良い試合にも使えるということです。
>> で、この上で、真剣の使い方を正確に学び練習しておく。
>> これが本当の剣道なんでしょう。
>> 実際には、これが完全に抜け落ちて競技のみになってしまったと言う事です。
>> 実際に、竹刀は、真剣より持ちにくいし振りにくいでしょう?
無視している訳ではありません。
今回は説明不用と思ったので(議論を複雑にするのもどう
か?と思ったので。もともと、武術論ではありませんし)書
かなかったのです。
>> おにりんさんは、逆です。
>> 型なの使い方は、基本的に数種類しかないですから、そうなるのが当然です。
>> ですが、使い方においていろんなパターンが出てくる。
>> 似たような、形を幾つかの立場で行えば、集約されたように見えるし考えられでしょう。
>> そして、刀の使い方が技でしょう
>> >> もちろんそうですが、ただ、剣術でなくて、いわゆる格闘技の
>> >> 場合、基本的な技は、古代エジプトで全部で尽くしているわけ
>> >> で、その後、日本でも、空手とか柔道とか、あるいはボクシング
>> >> などもふくめていろいろあるようですが、それらは、エジプト
>> >> の格闘技の中から、ルールで、特定の技を禁止することによって
>> >> なりたっているのが現状です。
>> >> ってことは、剣術もまた、基本的なところは、大昔にでつく
>> >> しているということもいえるでしょう。ただ、武器の形、
>> >> 重さ、などなどが微妙に、あるいは大きく影響を与える。
>> ナに言ってるんでしょうか?人間手が二本足が二本体型以外は変わりようがないでしょう。
>> 関節の形機構構造だって変わりません。
>> だから似たような事が、原始から世界共通に行なわれて当然です。
>> 其の生活環境で違ってくるでしょうが。
>> >> >> 私は弓術は詳しくしりませんが、現代武道と古流は別ものだ
>> >> >> という事を忘れてはいけないでしょう。
>> >> 流鏑馬の練習なんかも面白いですね。1週間かそこらで、
>> >> 馬に乗れない人が、流鏑馬でちゃんと的に当たるようになる
>> >> らしい。
>> >> #現代の話。
>> >> 案外そんなものじゃないですか?
>> 何のための武術なんですか?
>> すぐ、わずかの時間でもそこそこ戦えるようになる。
>> その鍛錬ノウハウが、武術でしょう?
これは、古流の場合あてはまらない事が多いです。
古流は、身分に関係なく教えた流儀もありますが、基本的に
戦闘のプロである武士のものです。
長い時間をかけて修行する事が前提となっている場合が多い。
初心者に教える技術は、実戦用ではなく、鍛錬用の技である
場合が多いです。ある程度、基礎が出来て、人格もみて、そ
れから実戦的な技術を教えるというのが、古流の教育システ
ムです。
古流をやっている現代武道経験者に話を聞くと、みんな古流
は難しい、中々会得できない、と言います。
戦後、例外的な人を除いて古流のレベルが下がったのは、こ
いう事情があったからでしょう。敗戦による価値観の変化と
かもありますが。
勿論、初心者でも素人よりは有利に戦えるとは思いますが。
元の発言 [ Re: Title 謎とき 日本合戦史 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 12月23日(日)01時29分27秒 ]
>>
>> 歩きながら撃つ必要はないのでは?
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>> 野戦陣地に篭って撃つ、又は向かってくる敵を城の中から撃
>> つというのが、戦国時代に多用された戦法ではないですか?
>>
>>
西洋では、迎撃兵器としてはあまり使われなかったと理解し
てよろしいのでしょうか?
>> 日本式薬莢である早合じゃだめなんですか?
>>
残念ながらその辺は知りませんね。ただ、江戸時代には火縄
銃以外も色々と開発されていたようです。
出島から西洋の銃も伝わっていましたから。ただ、それらが
十分研究され、普及する前に開国を向かえてしまったようで
す。
元の発言 [ 正始元年春の不思議 ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 12月20日(木)23時02分08秒 ]
ALEXさん、ご無沙汰しています。質問というか、確認です。
>> お読みの皆さんの一部はすでにお気づきであろうが、
お気づきですが、私はいまだに懐疑的です。
>> 本投稿は以下のような原因を推定する。
>> ◇三少帝紀が編集された時点で使用した原記録には、劉放らの任命記事が「景初四年春二月乙丑」、続いて「丙寅、詔令云々」としるされていた。これを「正始元年春正月乙丑」と訂正すべきところ、月次が訂正漏れになった。
>> ◇遼東流民の話は、原記録でも正始の改元改暦を正しく反映して春二月丙戌とあったが、前項の混乱で不自然な位置に竄入した。
任官記事や詔文の原記録に「景初四年二月」とあったとすると、宮中で「景初四年二月」が用いられていたことになるように思われます。「景初四年二月」というのは「正始元年正月」にあたります。そうすると「正始元年正月元旦はなかった」ということになりそうなのですけれど、それでいいのですか?
元の発言 [ Re: 正始元年春の不思議 ] お名前 [ kouji ] 日付 [ 12月23日(日)13時03分27秒 ]
ALEXさん>> 宋書礼志がしるすように
やっとわかりました。これは下記の記事を指しているのですね?
だとすると、やはり「正始元年正月元旦はなかった」とは考えられませんし、「景初四年正月」の実在にも懐疑的になります。
宋書礼志一
(景初)三年正月,帝崩,齊王即位.是年十二月,
尚書盧毓奏:「烈祖明皇帝以今年正日棄離萬國,礼,忌日不樂,甲乙之謂也.烈祖明皇帝建丑之月棄天下,臣妾之情,於此正日,有甚甲乙.今若以建丑正朝四方,會 臣,設盛樂,不合於礼.」
博士樂祥議:「正日旦受朝貢, 臣奉贄;後五日,乃大宴會作樂.」
太尉属朱誕議:「今因宜改之際,還修舊則,元首建寅,於制為便.」
大將軍属劉肇議:「宜過正一日乃朝賀大會,明令天下,知崩亡之日不朝也.」
詔曰:「省奏事,五内斷絶,奈何奈何!烈祖明皇帝以正日棄天下,[六]毎與皇太后念此日至,心有剥裂.不可以此日朝 辟,受慶賀也.月二日會,又非故也.聴當還夏正月.雖違先帝通三統之義,斯亦子孫哀慘永懷.又夏正朔得天數者,其以建寅之月為歳首.」
[六]烈祖明皇帝以正日棄天下「明皇帝」各本並作「明帝」,據三國志魏志齊王芳紀訂正.
元の発言 [ Re: Title 謎とき 日本合戦史 ] お名前 [ 景虎 ] 日付 [ 12月23日(日)10時41分37秒 ]
>> >> 何のための武術なんですか?
>> >> すぐ、わずかの時間でもそこそこ戦えるようになる。
>> >> その鍛錬ノウハウが、武術でしょう?
>> これは、古流の場合あてはまらない事が多いです。
>> 古流は、身分に関係なく教えた流儀もありますが、基本的に
>> 戦闘のプロである武士のものです。
>> 長い時間をかけて修行する事が前提となっている場合が多い。
>> 初心者に教える技術は、実戦用ではなく、鍛錬用の技である
>> 場合が多いです。ある程度、基礎が出来て、人格もみて、そ
>> れから実戦的な技術を教えるというのが、古流の教育システ
>> ムです。
>> 古流をやっている現代武道経験者に話を聞くと、みんな古流
>> は難しい、中々会得できない、と言います。
>> 戦後、例外的な人を除いて古流のレベルが下がったのは、こ
>> いう事情があったからでしょう。敗戦による価値観の変化と
>> かもありますが。
>> 勿論、初心者でも素人よりは有利に戦えるとは思いますが。
確かにそううでしょうね。
現代は、戦国乱世では有りませんから。
ですが、そんなときにまず最低限戦えるような技術を短時間で叩き込むでしょう。
身を守るのに上下はありませんから、
また、そうしなければ、如何にもならない状況の中で実戦的にすぐ使えるもの
其れがあるはずです。
そして、其れが生き残るナかで平和な中、
陰虎さん言われるように換えられたと見るべきなのです。
でないと自滅でしょうから、なま兵法は怪我の元この言葉が広い意味で全てでしょうね。
そう言うシステムでないと、おかしなのに武器を与える事に成りますから
元の発言 [ Re: 四国東部説−国名と地名と遺跡 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 12月23日(日)01時43分13秒 ]
また、先月の音韻の置換問題が其れに、加わるように見え舞うが?
元の発言 [ Re: 倭人伝の国名 ] お名前 [ EK ] 日付 [ 12月23日(日)00時58分33秒 ]
>> >> 「奴」と「呼」の母音を問題にされているわけですよね。
>> >> 簡単に言えば、音韻転訛の範囲だと思うのですけどね。
>> #例えば九州ではナ、四国ではヌ、近畿ではノ、とか、あるいは3世紀にはナで6世紀にはノ、
とか言うのなら音韻転訛ということもあるでしょうが、同一時点の同一文化圏でナもノもある、
カもコもある、っていうのはご都合主義ではありませんか。
倭人伝が書かれた時点では「奴」「都」の音が「na」「ta」で
地名もそれに近い音だった、と考えています。
その後(文献にあらわれるまで数百から千数百年)の
意味などに引きずられての、日本での地名の音韻転訛のことです。
例えば、旁国の奴国の比定地としている
「太奈(たな)荘」は現在では「田野(たの)」です。
和名抄にあらわれる地名を調べていても、随分と現在の
地名の音と異なっていることに気づきます。
「浮穴」は「うきあな」から「うけな」
「吾川」は「わかは」から「あがわ」など。
もし倭人伝と同じ頃に日本側で文献があって、
そこで音が異なっていれば明らかに変ですが、
文献にあらわれるまでに時間がかかっているので
転訛する可能性を排除すべきではないと思います。
>> >> (一応の理由付けとしては、海岸線の変化による
>> >> 「那」から「野」かな?)
>> ??? 岬のこっちはナで向こうはヌ、違う方言、という意味でしょうか。
海岸線の後退によって、海岸べりに用いられていた「な」の意味が通じなくなり
「野」に転訛したのではないかということです。
平野部では数キロ程度後退したのは事実で、岡山の児島も元々は島だったようですね。
>> >> あと長田夏樹氏の「邪馬台国の言語」とかを参考に
>> >> してはいますが、この時代の音韻は必ずしもはっきり
>> >> していないのではないでしょうか?
>> #はっきりしないからと言って、どんな音か不明だが一つ
の奴という音を、野にあてたり内にあてたりするのは納得できません。
「奴」「都」の母音や「好」「呼」「華」の子音は、
確かに悩ましい問題です。実際にそれぞれが用いられた
場合を参考にしての「周代古音」でしょうけど。
他にも「馬」の子音で「m」と「mb」の区別はつかなかったん
じゃないでしょうかね。(魏使側の視点に立っています。)
なお、「庄内」は「**荘内」のことでしょうから、
中世あたりに相当に意味に引きずられ転訛しているとしないと
いけないわけで、自分もそれほどは主張しません。
あくまで参考程度です。
>> >> それから「好古都」の音が「博多」に似ているからって
>> >> それで比定してしますのはどうでしょうか?
>> >> もしそうなら、その周辺で21ケ国を次々に
>> >> 比定できるはずですが・・・。
>> #邪馬四 さんがまさにそれをやっていると私には思えますが。
邪馬四 さんの説には音が似ているという以上の根拠があるのでしょうか。
基本的には24ケ国すべてを比定し、類似地名がそこそこあるという
統計的な有意性が根拠です。
(数百もの地名が残る「投馬」=「駄場」は特に主張したいところです。
南水行二十日という旅程に対し全く問題ない場所に「分布」しています。)
統計的な有意性ですから、例え比定が正しかったとしても
いくつかの類似地名は単なる偶然の類似だろうと思います。
なお、旁国の大きさが和名抄の郡程度で、しかも順番ということ
になると相当にきつい条件です。
大杉氏との比定を比べると「彌奴」の比定地が同じなので
3から14までほぼ同じ比定地(ただし、類似地名は異なる。
理由は大杉氏が現代中国の音韻を用いるため)です。
なお、15以降が異なるのは2つのライン(海岸側の国道56号
と山に入る国道33号)があるためです。
次のような主張はどう思われますか?
(1)地名は千年後にも何らかの形で残るものである。
(2)古代の文献にあらわれなかった古地名は数多く存在する。
(3)旁国21ケ国は地理的に何らかの順番に並んでいる。
(1)(2)は実証可能に思いますが・・・。
元の発言 [ 正始元年春の不思議 ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 12月20日(木)23時02分08秒 ]
ALEXさん こんにちは
>> 1 丙戌の日付が間違っている。
>> 2 丙寅の日付が間違っている。
1と2の間の「自去冬十二月至此月不雨。」は、1の記事に何か関連があるのでしょうか。
これは、2を云うための挿入句で、丙寅の日が十二月から二月までの間、つまり1月16日なんていうことは考えられ、、、ませんよね。
このサイトの{場外に出る}の格闘掲示板に
この場に相応しくない投稿があります。
削除することをお勧めします。
元の発言 [ 「対海国」と「対馬国」 ] お名前 [ かまくら龍 ] 日付 [ 12月22日(土)17時17分32秒 ]
何か勘違いしていない?
紹熙本には、「対海国」とある。紹興本では「対馬国」。どっちも陳寿の魏志倭人伝だ。どっちかが間違いなのは当然じゃない。
元の発言 [ Re: Titleわが国最古、奈良・箸墓古墳周濠跡から木製馬具出土 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 12月3日(月)11時45分35秒 ]
>> 内部の発掘が待たれます。
>>
>>
>>
>>
>>
埋葬した物では無く、盛り土の中に混じっていたものでしょう?
盛り土はゴミでも廃品でも混じっていておかしくないですから。
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
オヤジッチさんもまえに言っていました「狗奴国と戦いで苦戦をしながら邪馬台国にこんな巨大な墓を作る事が出来たか疑問である。」と。
>> 馬具自体より箸墓築造のころ馬が畿内にいた可能性が強いことが問題だと思いますが?
>>
>>
>>
>>
大人しい牛で十分でしょう。馬がクリ舟での海上輸送に耐えられるはずが無い。
>> 江戸時代でさえ朝鮮通信使の日記によれば釜山から呼子まで一ヶ月かかっている。
>> 馬では殆んど死んでしまいます。
>>
杭州から福岡まで2000kmくらいあるんでしょ。
いくら海流に乗っても黒潮の流れは時速2.5ノット(4.5km/h)ですよ。
海流だけだと20日位。こぎ手が漕いでも其の半分でしょう。
当時の人が中国から直接日本に来たとしたらそれは交流ではなく難民です。命がけなんですから。
日和を見ながら安全に日本に来るのは半島経由で呼子、唐津へくる以外にありません。
元の発言 [ Re: Title 謎とき 日本合戦史 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 12月12日(水)11時43分12秒 ]
>> 中世の様式化した、しばしば身代金目的の戦闘と違って、古代の戦闘はほとんど部族皆殺しの場合があるので、接近戦もあったはずです。
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>> ハンニバル戦争なんかでも、カンナエなどではローマ軍は壊滅している。(8万中戦死5万)
>> トレイブルク森やアドリアノープルでも。
>>
>>
#それはそうですが、ハンニバル側は、遠距離兵器で、
戦術で勝利をおさめたのでは?
ハンニバルが、飛び道具で勝ったというのは、
聞いたことが、ありません。
>> ヨーロッパで接近戦がはやったのは、相手を人質にして身代金を取るためで、手加減のために弓を使わなかったという説もあります。
>> そうすると、弓を使うということは、手加減しないということになります。
>>
>>
>>
>>
#古代ギリシャでは、重装歩兵による、正面決戦があったのでは?
弓兵は、対騎兵対策として語られていますが、正面決戦では、
登場しませんね。
密集陣で大盾を並べて突撃すれば、飛び道具も、
効果無いと思うのですが?
>>
>>
>>
>>
>> これで十字軍はそれなりの戦果をあげた。
>> この戦法がやぶれるのは、百年戦争当時のクレイシーの戦い。
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>> 何処だったかで、矢を射尽くして突撃した話があったとおもいました。
>>
>> 白兵戦の場合でも、武装したあいてに致命傷を負わすのは難しく、結局敗走中の事故、餓死などが多くなる。
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
#時代にもよるけど、やはり殺すより、
捕虜にしたかった
みたいです。城や街を落して略奪するより、
野戦で捕虜にして身の代金ととるほうが、
確かに、経済的なような。
元の発言 [ Re: 四国東部説−国名と地名と遺跡 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 12月23日(日)01時43分13秒 ]
>>
>>
>>
それは古代の範囲内ではないからでは?
例えば、「都支」の類似地名にしている香川の「土器」は
意味を考えると明らかに近代的な地名でしょう。
(土器がたくさん出て来たから、土器という由来らしい。)
それでは、土器川は土器が見つかる前になんと呼ばれていたか、
なんていうと答えがなくなる。由来なんて結構いい加減ですよね。
多くの地名は元の意味を失いながら、音韻も転訛しながら、
それでも様々な形で生き残るものでしょう。
このあたりは古地名を多く調べれば実証可能な話です。
>>
>>
>>
>>
基本的に長田夏樹氏の周代古音を参考にはしていますが。
>> 万葉仮名あたりの音の対応のことなんだろうけど
>> 全ての地名がそこまで溯れるようなものじゃないしなあ。
>>
ここは理解できない。
もちろん奈良、平安時代まで溯れるような地名なら由緒ある
地名だとは思うけど、それまでに文献にあらわれないような
地名が古代になかったと言い切れるということでしょうか。
もしそうだとすると、ほとんどの山や川や島は名無しだったという
ことになります。
また、邪馬台国の時代から400年後の少数の文献は取り入れて、
800年経過した文献は使えないというのもどうですかね。
何か合理的な理由があるのでしょうか?
>>
>>
>>
>>
それはそうです。その地名が3世紀も溯れるなんてことは、
新たな文献が見つからない限りは誰も断言できないでしょう。
いかに地名が奈良時代に重要な地名だったにしても。
だから全体(24ケ国)としての類似の度合いについて
統計的な有意性で判定すべきだということです。
数百から千近くもある郡郷名、古地名の中から、
単に音が合うというだけで旁国に比定するのは
有意性もなにもあったもんじゃないでしょう。
>>
>>
>>
>>
>>
>>
佳字二字化もありましたね。
和名抄における郡郷名だって3世紀前の地名とは言い切れないでしょう。
特に中心とする地域が移動している場合などは。
>> 質問なんですけど、姐奴国とか華奴蘇奴国とか支惟国に
>> 対する音に対するぴったりの地名って何でしょう?
>>
>>
>>
どこの地名が対応しているかを質問しているわけではなくて、
これらの国名がどのような日本語をあらわしていたか、ということです。
「しゃな」「かなさな」「きゆ」でいいのですか?
きっと適当な音韻(古代8母音)があるはずですから。
そして脈絡ある対応の地名もあるはずなんでは?
>>
>>
>>
>>
う〜ん、堂々巡りの議論ですね。
卑弥呼の墓が見つかるまで終わりそうにない方向のような。
せっかく文献では多くの国名があらわされているのに、
それらの音が使えないという。
たしかに使わなければ、沖縄だろうと四国だろうと山陽だろうと
山陰だろうと比定は可能でしょうね。
他の所でも書きましたが、次のような主張はどこがおかしいと思われますか?
(1)地名は千年後にも何らかの形で残るものである。
(2)古代の文献にあらわれなかった古地名は数多く存在する。
(3)旁国21ケ国は地理的に何らかの順番に並んでいる。
元の発言 [ Re: いきなりわりこんでなんですが ] お名前 [ ふうらん ] 日付 [ 12月23日(日)19時37分15秒 ]
>> #時代にもよるけど、やはり殺すより、
>> 捕虜にしたかった
>> みたいです。城や街を落して略奪するより、
>> 野戦で捕虜にして身の代金ととるほうが、
>> 確かに、経済的なような。
と言うより捕虜は奴隷として使ったのでは?
日本と違って広い土地に少ない人口。
労働力は常に不足していた。
ヨーロッパでは人間(労働力)が貴重な国力だった。
一方日本は中世以降人間は余っていた。
だからヨーロッパでは城の中に人間を囲い込んだが
日本では兵隊だけが城に篭った。
みたいな差が有ったのでは?
身代金を取れるのは王族貴族の捕虜だけでしょう。
元の発言 [ Re: いきなりわりこんでなんですが ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 12月23日(日)21時52分17秒 ]
>> >> #時代にもよるけど、やはり殺すより、
>> >> 捕虜にしたかった
>> >> みたいです。城や街を落して略奪するより、
>> >> 野戦で捕虜にして身の代金ととるほうが、
>> >> 確かに、経済的なような。
>> と言うより捕虜は奴隷として使ったのでは?
>> 日本と違って広い土地に少ない人口。
>> 労働力は常に不足していた。
>> ヨーロッパでは人間(労働力)が貴重な国力だった。
>> 一方日本は中世以降人間は余っていた。
>> だからヨーロッパでは城の中に人間を囲い込んだが
>> 日本では兵隊だけが城に篭った。
>> みたいな差が有ったのでは?
>> 身代金を取れるのは王族貴族の捕虜だけでしょう。
私も失礼させていただきます。
確かに身代金を取るためでしょうが、其れは色々な階層に渡っているようですよ。
裕福な商人の身内なども、旅先などの他に戦や野党に捕らえられて身代金を要求される事は、
多かったみたいですね。
また、武田信玄も同じような事をしているようです。
ただ、後がうまくないため一度で止めたようですが。
上杉謙信にしても捕虜の人身売買みたいな事をやっているらしいし。
戦での人攫いは、結構洋の東西を他輪無いようです。
其れによる人身売買も。
元の発言 [ Re: 四国東部説−国名と地名と遺跡 ] お名前 [ 邪馬四 ] 日付 [ 12月23日(日)20時42分55秒 ]
マルセと申します。邪馬四さん、始めまして
感想に近いものですけれど、ちょっとだけ。
私は、和名抄などの地名が現在までに残っている比率が高いことを考えると、倭人伝の国名のかなりの数は、郡名や国造名などに残っていてもおかしくないと思っています(この辺は安本氏と似た意見)。ただし、倭人伝の国名の中には、当然、誤写や誤刻が含まれていると考えてよいでしょうから、地名によって、全ての国がうまく比定できるというのは、かえって無理な気がします。
例えば、「宋史日本伝」を見ますと、日本の66カ国と3島が記されていて、そのうち、下総が脱落、近江→通江、飛騨→飛弾、若狭→狭、但馬→徂馬、隠岐→隠伎、播磨→播麼、美作→美竹、紀伊→伊紀、阿波→河波、讃岐→讃耆、壱岐→壱技と誤記されていす。つまり、国名島名の17%(12/69)に間違いがあります。ただし、「飛弾」、「隠技」、「播麼」、「讃耆」、「壱技」は元の音に近いので、これらは表記の揺れの範疇というか、まあ無害な誤写と捉えられなくものないので、これを除くと、誤記・誤刻の比率は、10%(7/69)ということになります。
また、宋史は約650年前ですが、三国志は1700年以上も前の本ですから、書写された回数を考慮すると、三国志の誤字・誤刻の比率は、少なく見ても宋史程度の10%くらい、多く見ると宋史の3倍の30%程度あると考えても間違いとは言えないでしょう。
となれば、魏志倭人伝の30カ国の中で、誤写・誤刻は、3〜10個含まれている可能性は相当高いと思われます(このくらいありそうなのは、「對馬国・對海国」、「一大国」あたりの表記からも十分言えそうです)。
それと、こちらはあまり確定的な話ではないのですけれど。。。
倭王武の上表文の121(55+66)カ国という表記と、国造本紀などから知られる国造の国数が130程度と、ほぼ同じくらいですので、律令以前の国とは、だいたい、律令の国の半分程度の広がりで、一つの平野とか盆地とか河川流域とかそのくらいの規模と見てよいと考えています。四国の国造数は9ですから、四国内に21カ国全てを入れるには、ちょっと狭いのも気がかりです。
元の発言 [ 屎兵圷定敢の音房ラh ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 12埖20晩G直H23瓶02蛍08昼 ]
ALEXさん こんにちは
厰鞄の晩は、屎埖かもしれませんが、央咥の晩は宥ユhの眉埖のほうが゚m俳な湖じがしますが、いかかでしょうか。
というのも、央咥の晩のヤt箸蓮ム蠧鬚い里燭瓩里發里任靴腓ΔC蕁「ALEXさんのおっしゃるとおりだとすると、仝徭肇喬噴屈埖崛緩埖音嚏々の緩埖は屎埖ということになり、嚏が週らなかった豚馮は噴屈埖、瘁噴屈埖、屎埖の3か埖ということになって、ちょっと玉゚^ぎる圈C「靴泙坑ヘト壱「覆蕋韻s帯蠅サ気蕕覆い世韻粘俄「覆海箸任垢韻譴稗@」
また、歪阜C任倭イ困鮑「默造モs造砲覆蠅泙垢里如メt箸里△辰尽造蓮△笋呂衄s造頒鰍ト、キY嚏の浮G゙r恬麗の殴キN瓶豚Hになっても嚏が週らなくて是ったから、ヤt箸魍「靴燭反爾┐燭曚Δ「圓辰燭蠅世繁爾い泙后」
ちなみに、眉忽崗では、苧吸シoの湊才励定G231定Hに、仝励定敢屎埖吸勾噐汐弥。眉埖G待H徭肇喬噴埖崛緩埖音嚏仭鉾寄・。々とあり、仝3埖9晩に寄きな嚏汝いをした々というモ尓タもあります。
それと、矢}の何蛍を根んでいる仝箔l[o々には、この屎兵圷定屈埖を茅いて、晩原のあるモ尓タが43あり、そのうち4つが携壓しない晩原になっています。このように晩原のユ`モ宸ェ互楕で贋壓することを深えると、宥ユhも匯古に曳協できないのではないかと房います。
$は贋壓する晩原、〜は贋壓しない晩原
尚兜眉定屎埖供坤$、ニ埖供鞄〜、
屎兵圷定屈埖厰鞄〜、央伜$、央咥〜、
屎兵屈定鎗埖仭鞄$、失鞄〜、
屎兵眉定鈍埖遮賦$、厰嗜$、膨埖厰樽$、
屎兵励定励埖刻鉾$、央怜$、噴匯埖刻樽$、失嗜$
屎兵鎗定屈埖供樽$、央徨$、伊埖供樽$、刻鉾〜、噴屈埖仭坤$、厰坤$
屎兵鈍定伊埖隷賦$、失嗜$
屎兵湘定屈埖刻鉾$、眉埖遮怜$
捨峠圷定屎埖遮怜$、隷伜$、央怜$、供隆$、膨埖厰鞄$、央徨$、噴屈埖仭樽$、口徨$
捨峠屈定噴屈埖遮浬$、厰隆$
捨峠眉定膨埖遮賦$、班浬$、央怜〜、励埖遮咥$、厰隆$、口徨$
捨峠膨定屎埖刻樽$
捨峠鎗定屈埖失鞄$、口伜$、仭坤$、湘埖遮伜$、供鞄$
元の発言 [ ヤt・「ホ瓶豚は眉埖・ ] お名前 [ マルセ ] 日付 [ 12月24日(月)13時46分19秒 ]
文字化けしてしまいましたので、ちょっと修正して、再投稿します。
乙丑の日は、正月かもしれませんが、丙寅の日は通説の三月のほうが適切な感じがしますが、いかかでしょうか。
というのも、丙寅の日の詔勅は、雨乞いのため(?)のものでしょうから、ALEXさんのおっしゃるとおりだとすると、「自去冬十二月至此月不雨」の此月は正月ということになり、雨が降らなかった期間は十二月、後十二月、正月の3か月ということになって、ちょっと短過ぎる気がします(夏場なら1か月雨が降らないだけで大変なことですけれど)。
また、夏暦では立春を含む月が正月になりますので、詔勅のあった月は、やはり三月と見て、穀雨の頃(農作物の播種時期)になっても雨が降らなくて困ったから、詔勅を出したと考えたほうがぴったりだと思います。
ちなみに、三国志では、明帝紀の太和五年(231年)に、「五年春正月帝耕于籍田。三月(略)自去冬十月至此月不雨辛巳大ウ(雨冠に号に似た字)。」とあり、「3月9日に大きな雨乞いをした」という記事もあります。
それと、問題の部分を含んでいる「斉王紀」には、この正始元年二月を除いて、日付のある記事が43あり、そのうち4つが実在しない日付になっています。このように日付の誤記が高率で存在することを考えると、通説も一概に比定できないのではないかと思います。
○は存在する日付、×は存在しない日付
景初三年正月丁亥○、ニ月丁丑×、
正始元年二月乙丑×、丙戌○、丙寅×、
正始二年六月辛丑○、己丑×、
正始三年七月甲申○、乙酉○、四月乙卯○、
正始五年五月癸巳○、丙午○、十一月癸卯○、己酉○
正始六年二月丁卯○、丙子○、八月丁卯○、癸巳×、十二月辛亥○、乙亥○
正始七年八月戊申○、己酉○
正始九年二月癸巳○、三月甲午○
嘉平元年正月甲午○、戊戌○、丙午○、丁未○、四月乙丑○、丙子○、十二月辛卯○、庚子○
嘉平二年十二月甲辰○、乙未○
嘉平三年四月甲申○、壬辰○、丙午×、五月甲寅○、乙未○、庚子○
嘉平四年正月癸卯○
嘉平六年二月己丑○、庚戌○、辛亥○、九月甲戌○、丁丑○
元の発言 [ Re: Title 謎とき 日本合戦史 ] お名前 [ 馬頭鬼 ] 日付 [ 12月23日(日)15時41分52秒 ]
>> >> >> 何のための武術なんですか?
>> >> >> すぐ、わずかの時間でもそこそこ戦えるようになる。
>> >> >> その鍛錬ノウハウが、武術でしょう?
>> >> これは、古流の場合あてはまらない事が多いです。
>> >> 古流は、身分に関係なく教えた流儀もありますが、基本的に
>> >> 戦闘のプロである武士のものです。
>> >> 長い時間をかけて修行する事が前提となっている場合が多い。
>> >> 初心者に教える技術は、実戦用ではなく、鍛錬用の技である
>> >> 場合が多いです。ある程度、基礎が出来て、人格もみて、そ
>> >> れから実戦的な技術を教えるというのが、古流の教育システ
>> >> ムです。
>> >> 古流をやっている現代武道経験者に話を聞くと、みんな古流
>> >> は難しい、中々会得できない、と言います。
>> >> 戦後、例外的な人を除いて古流のレベルが下がったのは、こ
>> >> いう事情があったからでしょう。敗戦による価値観の変化と
>> >> かもありますが。
>> >> 勿論、初心者でも素人よりは有利に戦えるとは思いますが。
>> 確かにそううでしょうね。
>> 現代は、戦国乱世では有りませんから。
>> ですが、そんなときにまず最低限戦えるような技術を短時間で叩き込むでしょう。
>> 身を守るのに上下はありませんから、
>> また、そうしなければ、如何にもならない状況の中で実戦的にすぐ使えるもの
>> 其れがあるはずです。
>> そして、其れが生き残るナかで平和な中、
>> 陰虎さん言われるように換えられたと見るべきなのです。
>> でないと自滅でしょうから、なま兵法は怪我の元この言葉が広い意味で全てでしょうね。
>> そう言うシステムでないと、おかしなのに武器を与える事に成りますから
ある程度、正しい意見だと思いますが、現代と同じやり方も
かなり行われていたようです。
前にも少し書いたような気がしますが、古武道というのは基
本的には戦闘のプロである武士を対象としたものです。
戦国武士は、幼い頃から武術の稽古をしていたのですから、
例えば、6才で稽古を始めるとすると、戦場に出る頃には10
年くらいたっています。本来はそういう特殊な人達の為の武術
だった訳です。
外国の武術と違って、日本の場合は戦国期の伝書が残っている
事は御存知だと思いますが、それによると、当時から現代とほ
ぼ同じ伝授システムが確立されていた事が分かります。
前に誰かが紹介していた雑兵物語の場合は、武士ではなく雑
兵の戦闘法が紹介されています。
それによると、集団で指揮官の合図に合わせて槍を振るとか、
ちょっと記憶が曖昧ですが、ただ篭手のない所めがけて斬り
つけるだけとか書いてあるようで、こいうのが雑兵の戦闘法
だったのではないかと思います。遠戦では、弓足軽隊、鉄砲
足軽隊、投石隊などによる攻撃になるでしょう。
とは言っても、戦国時代から農民に教えていた流儀もあり、
馬頭鬼さんが主張されるような教え方もあったと思います。
元の発言 [ Re: Title 謎とき 日本合戦史 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 12月24日(月)13時35分38秒 ]
>>
>> 西洋では、迎撃兵器としてはあまり使われなかったと理解し
>> てよろしいのでしょうか?
>>
>>
>>
>>
なるほど、そういう使い方でしたか。
納得しました。
元の発言 [ Re: いきなりわりこんでなんですが ] お名前 [ 馬頭鬼 ] 日付 [ 12月23日(日)23時38分48秒 ]
>> 私も失礼させていただきます。
>> 確かに身代金を取るためでしょうが、其れは色々な階層に渡っているようですよ。
>> 裕福な商人の身内なども、旅先などの他に戦や野党に捕らえられて身代金を要求される事は、
>> 多かったみたいですね。
>> また、武田信玄も同じような事をしているようです。
>> ただ、後がうまくないため一度で止めたようですが。
>> 上杉謙信にしても捕虜の人身売買みたいな事をやっているらしいし。
>> 戦での人攫いは、結構洋の東西を他輪無いようです。
>> 其れによる人身売買も。
そういえば、詳しくは知りませんが、魔女狩りの影響などで
女性が減った時に、ポルトガルに日本人女性が妻として買わ
れていったとかいう話があるようですね。
今でもその人達の子孫がいるらしいです。
元の発言 [ Re: 倭人伝の国名 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 12月23日(日)01時17分53秒 ]
>> #やっぱり、「呼=か」ですね。
>>
#日本語の「か」を表すのに最適な、のどの奥から出す「ha」じゃないんですか。
初めて投稿します。表題の件に関し、ご存知の方ご教示ください。
『魏志倭人伝』によれば、卑弥呼の墓は「経百余歩」と記述されています。しかし、この表現だけで、箸墓のような前方後円墳を思い浮かべることのできる中国人がいるでしょうか。中国の墓制が前方後円墳なら可能でしょうが、そのような事実はありません。つまり、「卑弥呼の墓は、円墳ではなかったか?」と言うのが、私の仮説です。
ここは、最近読み始めたばかりなので、過去に同種の投稿があったとすれば、平にご容赦。
元の発言 [ Title弥生の日本語 ] お名前 [ 馬頭鬼 ] 日付 [ 12月12日(水)12時40分30秒 ]
>> まず、縄文の言葉は、どんなでしょう?
倭人伝で言うと,倭種というのが,
同じ言葉を使っていたのでしょうね。
NHKの番組だと,ジャワ系で南九州に来て繁栄し,
黒潮に乗って日本列島を北上した縄文人,
この辺りを思いつくんですが。
両者の関連は如何に?
元の発言 [ Re: 四国東部説−国名と地名と遺跡 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 12月24日(月)13時30分18秒 ]
>> 他の所でも書きましたが、次のような主張はどこがおかしいと思われますか?
>> (1)地名は千年後にも何らかの形で残るものである。
>> (2)古代の文献にあらわれなかった古地名は数多く存在する。
>> (3)旁国21ケ国は地理的に何らかの順番に並んでいる。
>>
>>
(1)は、万葉集、和名抄などの地名を中世、近世の文献と照らしあわせれば
分かる問題です。完全に消えるという話は、人為的な場合を除いて知りません。
(古代と中世の文盲率とか考慮せよ、といわれると大変ですが・・・。)
(2)は、地名数がせいぜい人口数に比例するということで考えると、あまりにも
古代文献で表われる地名数が少なすぎるということに気づくのではないでしょうか。
いちおう沢田氏によると日本の人口を(単位 千人)
縄文早期 21.9 750( 奈 良 ) 5,589.1 1721( 江 戸 ) 31,277.9
縄文前期 106.0 900( 平 安 ) 6,437.6 1786( 〃 ) 30,104.0
縄文中期 262.5 1150( 〃 ) 6,916.9 1792( 〃 ) 29,869.7
縄文後期 161.0 1600(安土桃山) 12,273.0 1846( 〃 ) 32,423.8
弥 生 601.5
としてますよね。(個人的意見としては弥生時代までが少なすぎのような・・・。)
他の手段としては、古代の文献をランダムに2つに分けて、
それぞれが相手の地名のどのくらいをカバーしているかも調べれば、
両方でカバーしている全体地名に対する割合を調べる事ができます。
何にせよ、角川の日本地名辞典(小字まである!)から比べると
古代文献の地名数があまりにも少なすぎるという感想を持ちます。
(3)は、他の史書のどこかで異なるという例があるのでしょうか?
私はそれを知りません。
>>
>>
>>
>>
>>
>>
現在はそうです。それを統計的な有意性で変えられないものだろうか、
ということが、今回の主張です。
個々の地名の由来を断定するという事は、もちろん無理だと考えます。
日本語の音韻については下のHPで勉強(復習?)中です。
ちょっと違うかな、ということがありましたらお教えください。
元の発言 [ Re: Title 謎とき 日本合戦史 ] お名前 [ 景虎 ] 日付 [ 12月24日(月)14時10分32秒 ]
先月も話題になりましたが、この邪馬台国時代の教練と言うのと戦国の雑兵辺りとは、
どの様に違うのでしょうね?
やはり中国で戦国時代から続く農民達を強制的に調練するのと同じと見るべきなのか?
違うと見るべきなのか?
この点判らないだけに興味が尽きませんね。
其れに、現代でも全く心得ない人に徴兵で戦闘訓練を行い
数ヶ月で投入と言う事もあるようですが
この方式とどれだけ違うのでしょうね?
元の発言 [ Re: 四国東部説−国名と地名と遺跡 ] お名前 [ マルセ ] 日付 [ 12月24日(月)10時30分33秒 ]
>> マルセと申します。邪馬四さん、始めまして
どうもはじめまして。「山師」発言でご迷惑をおかけします。
>> 感想に近いものですけれど、ちょっとだけ。
>> 私は、和名抄などの地名が現在までに残っている比率が高いことを考えると、
倭人伝の国名のかなりの数は、郡名や国造名などに残っていてもおかしくないと思っています
(この辺は安本氏と似た意見)。ただし、倭人伝の国名の中には、当然、
誤写や誤刻が含まれていると考えてよいでしょうから、地名によって、
全ての国がうまく比定できるというのは、かえって無理な気がします。
>> 例えば、「宋史日本伝」を見ますと、日本の66カ国と3島が記されていて、そのうち、
下総が脱落、近江→通江、飛騨→飛弾、若狭→狭、但馬→徂馬、隠岐→隠伎、播磨→播麼、
美作→美竹、紀伊→伊紀、阿波→河波、讃岐→讃耆、壱岐→壱技と誤記されていす。つまり、
国名島名の17%(12/69)に間違いがあります。ただし、「飛弾」、「隠技」、「播麼」、
「讃耆」、「壱技」は元の音に近いので、これらは表記の揺れの範疇というか、まあ無害な誤写
と捉えられなくものないので、これを除くと、誤記・誤刻の比率は、10%(7/69)という
ことになります。
>> また、宋史は約650年前ですが、三国志は1700年以上も前の本ですから、書写された
回数を考慮すると、三国志の誤字・誤刻の比率は、少なく見ても宋史程度の10%くらい、
多く見ると宋史の3倍の30%程度あると考えても間違いとは言えないでしょう。
>> となれば、魏志倭人伝の30カ国の中で、誤写・誤刻は、3〜10個含まれている可能性は
相当高いと思われます(このくらいありそうなのは、「對馬国・對海国」、
「一大国」あたりの表記からも十分言えそうです)。
誤記問題は・・・実はあまり考えていません。
「對馬国・對海国」、「一大国」は、対応する地名があったのではないか
という立場です。「馬」と「海」はある時期を考えると音韻が近い可能性もあり、
「一大」に関しては「石田」も音韻が近い可能性もあるからです。
三国志の倭人伝以外で誤記の報告はあるのでしょうか?
(すみません、私は不勉強ですね。)
なお、今回の比定でも和名抄まで溯れるのは5つのみです。
理由は、中心地域が高地部から平野部に移ったために、
郡郷名に直接の影響がなくなってしまったのではということですが。
しかしそれでも、倭人伝では「次・・次・・」とあるので、
全体の比定は可能ではないか、というのが今回の主張です。
つまり、有意性の面で、ラインさえ特定できれば和名抄に限る必要がなくなる、
ということです。
>> それと、こちらはあまり確定的な話ではないのですけれど。。。
>> 倭王武の上表文の121(55+66)カ国という表記と、国造本紀などから
知られる国造の国数が130程度と、ほぼ同じくらいですので、律令以前の国とは、
だいたい、律令の国の半分程度の広がりで、一つの平野とか盆地とか河川流域とか
そのくらいの規模と見てよいと考えています。四国の国造数は9ですから、四国内に
21カ国全てを入れるには、ちょっと狭いのも気がかりです。
それは同意見です。郡郷数から古代の四国がかなり富裕な国であった事を
考慮しても5万戸と7万戸は多すぎるかな・・・と。
可能性としては、大杉氏の言われる高地性集落でしょうか。
それなら、古代の郡郷数に含まれない人口もありうるかなあ、と。
しかし、考古学的に断定的な事は現在それほど言えないと考えています。
元の発言 [ さらにここでまた疑問 ] お名前 [ 馬頭機 ] 日付 [ 12月24日(月)22時59分27秒 ]
>> 先月も話題になりましたが、この邪馬台国時代の教練と言うのと戦国の雑兵辺りとは、
>> どの様に違うのでしょうね?
>> やはり中国で戦国時代から続く農民達を強制的に調練するのと同じと見るべきなのか?
>> 違うと見るべきなのか?
>> この点判らないだけに興味が尽きませんね。
どうでしょうねえ。
武器については、干戈など中国系の武器があったようですから、
中国の影響があった可能性はあると思いますが。
武器だけ伝わったのか、武器の使用法、戦略、戦術も伝わっ
たのか。
>> 其れに、現代でも全く心得ない人に徴兵で戦闘訓練を行い
>> 数ヶ月で投入と言う事もあるようですが
>> この方式とどれだけ違うのでしょうね?
現代の徴兵をしている国については、プロ以外あまり役に立
たないので、徴兵をやめようという意見もあるようですね。
世界大戦規模の戦争になると、数を揃える必要があるのでし
ょうが。
戦国時代の農兵というのも、戦いが増加して、数が必要だっ
たから出てきたのでしょうね。
そうすると、徴兵的な事が行われていたかどうかは、戦いの
規模がかなり関係してくるのではないか?と考えます。
まあ、推測にすぎませんが。
元の発言 [ Re: Titleしつもん ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 12月20日(木)16時04分50秒 ]
> >> 3、邪馬台国の副官に「弥馬升」と「弥馬獲支」とあり、この「弥馬」同様に本当は「弥馬台国」であったのを「邪馬台国」としたとゆうような事は考えられませんか?
>>
>>
訓でですが「弥」は「八」と同源で「ヤ」と読めます。だから僕は魏人に対して倭人は、まず「弥幡台国」(「馬」の所をとりあえず「因幡」で「バ」と読むので「幡」を当てる)と字を書いてそれから読みを口伝で伝えたのではないかと思います。魏では「弥幡」は「ビハン」だけれど倭人が「やば」と読んでいるので「邪馬」をあてた、でも何故かは解らないけど「弥幡升」などは「幡」だけを「馬」に変えた。「台」は音の「タイ」か訓の「ト」(古代は読んだのかもしれない)だろうけど、「ト」だったとすると「弥幡升」の「弥」と「升」同様に何故か変えなかったのかもしれない。 それから「邪馬」が「弥幡」だったとすると「弥」は「八」とも書けるので応神天皇の別名である「八幡」と同じになります。「台」とゆう字は中国では解らないけど、日本では首都をさす字として使われていたので、もし中国で首都をさす字として使われた例がなければ、倭人が口伝だけではなく、字も書いて伝えた可能性がすごく高くなるのではないかと思います。
元の発言 [ Re: Title 謎とき 日本合戦史 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 12月10日(月)11時04分30秒 ]
>> それでも政府軍は西南戦争後、火力を増強しているようです
>> が、西洋化を推進しつつも、日本武術を無視できなくなった
>> らしくて、武術家を警視庁武術世話係として採用したり、大
>> 日本武徳会が設立されたりしています。
>>
反論するのを忘れていましたが、警視庁武道、大日本武徳
会の設立は、西南戦争以後、日露戦争以前です。
元の発言 [ Re: Title 謎とき 日本合戦史 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 12月13日(木)23時40分50秒 ]
おにりんさんは、古流をまったく知らないのに、
>>
>>
>>
>>
と古流を侮辱したわけですが、訂正も謝罪もなしですか?
邪馬台国が九州にあろうが、畿内にあろうが、滅んだ国の話
ですから迷惑はかかりませんが、現存する日本文化を侮辱し
た事についてどう考えているのですか?
元の発言 [ Re: 四国東部説−国名と地名と遺跡 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 12月25日(火)10時36分16秒 ]
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
その通りだと思います。
ですが、新しい地名が乱入しても、国名だったものが
すべて完全に消え去るとは思いません。
郡郷名に残らなくても、周辺の地域や川や大字等で残っているの
ではないかという考えです。
近代で言えば県名になってしまっても、どこかにもとの国の名前が
残っています。そういや、江戸なんてのは、江戸川かな・・・ちょっと寂しい。
(江戸前なら多そうだ、寿司とか。)
世界中の地名で残るか残らないかという問題は調査できるのだと思うのだけれど、
結論としては「残る」ほうではないですかね。
新しい名を導入するのは簡単でも、消すのは大変でしょうから。
>> 古代文献の地名数があまりにも少なすぎるという感想を持ちます。
>>
前に書きましたが、古代の文献だけに限ると地方の川や山や島の名前がほとんど
名無しだということです。
人間が生活していた以上、それぞれに対応する名はあったと考えるほうが
無難じゃないですか?
>> (3)は、他の史書のどこかで異なるという例があるのでしょうか?
>> 私はそれを知りません。
>>
>>
>>
史書において「次・・次・・」と表現された記述で、
地理的に順番に並んでいない例があるのだろうか
ということです。韓伝では「次・・次・・」じゃないですよね。
入り組んでいて順番に書けるようなものじゃないからでしょう。
確か、高橋善太郎氏の論文で、史書の一般的な記述からは
何らかの順番じゃないか、という主張だったと思います。
>> 現在はそうです。それを統計的な有意性で変えられないものだろうか、
>> ということが、今回の主張です。
>>
まず、それぞれの旁国名が日本の各時代の地名と類似する割合を調査します。
(だからどのような範囲を類似音とするか、が鍵になります。)
そして、21ケ所の比定地が何らかの意味のある順番で定まったとします。
それぞれの比定地の主要地名のなかで旁国名と
類似しているものがあるかどうかを調べ、
全体としてそのような類似が偶然おこるかどうか調べるということです。
21ケ所以上比定できる場所があるなら、その部分も考慮します。
とまあ、面倒にやればこうですが。(かなりの労働です、はい。)
しかし、これまであまりよい比定地図をみたことがないので、
他の説の方がこれをやってくれるかなあとは思います。
いくつかの旁国名が郡郷名で残ってくれていて、
ラインがはっきりしていて、他も次々と決まってくれるのが理想です。
それを四国地区に現在求めているわけです。
(福岡あたりから南水行二十日といわれると四国西部を考えてしまうので。)
「旁国の分布地図」(!!)というものを見て、さすがに倭人伝の著者たちに対して
そりゃ申し訳ないだろうと思ったわけです。
元の発言 [ 三月の記事の可能性もある? ] お名前 [ マルセ ] 日付 [ 12月24日(月)13時57分11秒 ]
マルセさん こんにちは
>> ○は存在する日付、×は存在しない日付
>> 景初三年正月丁亥○、ニ月丁丑×、
三年正月の丁亥は朔ですから、二月に丁丑の日はあるのでは?
(景初三年正月朔:丁亥)
丁・戊・己・庚・辛・壬・癸・甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸・甲・乙・丙・
亥・子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥・子・丑・寅・卯・辰・巳・午・
丁・戊・己・庚・辛・壬・癸・甲・乙・丙
未・申・酉・戌・亥・子・丑・寅・卯・辰
(景初三年二月)
丁・戊・己・庚・辛・壬・癸・甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸・甲・乙・丙・
巳・午・未・申・酉・戌・亥・子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥・子・
丁・戊・己・庚・辛・壬・癸・甲・乙・丙
丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌
↑
元の発言 [ Re: 倭人伝の国名 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 12月25日(火)10時26分54秒 ]
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>> 「吾川」は「わかは」から「あがわ」など。
>>
>> 海岸線の後退によって、海岸べりに用いられていた「な」の意味が通じなくなり
>> 「野」に転訛したのではないかということです。
>> 平野部では数キロ程度後退したのは事実で、岡山の児島も元々は島だったようですね。
>>
>> 「奴」「都」の母音や「好」「呼」「華」の子音は、
>> 確かに悩ましい問題です。実際にそれぞれが用いられた
>> 場合を参考にしての「周代古音」でしょうけど。
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
なるほど、勉強になります。
音韻に関して完全に素人ですので、ありがたいです。
いま藤堂氏の辞典を見てます。随分前に買ってたんでした。
たしかに「呼」は「h」音ですが、それが奈良時代にまで
下がって日本側でどのような子音に対応したか完全に
特定できるということですか?
それが分かるなら、とてもありがたいのだけれど。
と書きつつ、他のレスみてみたらあんまり研究者の意見は
一致してないということですかね?
>> 他にも「馬」の子音で「m」と「mb」の区別はつかなかったん
>> じゃないでしょうかね。(魏使側の視点に立っています。)
>>
>>
>>
>>
>>
>>
ふむ、分かってませんです。
じゃあ、仮に「駄場」を類似地名にしようとすると
日本側の転訛を考えないといけないのかな。
「駄場」は四国西部に数百から千近くある特殊な地名なので、類似しているという可能性は
一応考えたいのです。
>> 基本的には24ケ国すべてを比定し、類似地名がそこそこあるという
>> 統計的な有意性が根拠です。
>>
いまのところわからないですね。
対応する正確な音韻を知りませんから。
色んな邪馬台国に関する本を読んで、こういう音かな〜と思ってるぐらいです。
中世の地名まで使うとどうせ転訛があるから、といい加減に考えていしたが。
本当は、専門家に類似といえる音の範囲を教えてもらいたいんだけどなあ。
まあ、勉強して、もう一度洗い直し、かな。
で、類似地名がなければ、残念だったと・・・(笑)
元の発言 [ Re: 四国東部説−国名と地名と遺跡 ] お名前 [ マルセ ] 日付 [ 12月24日(月)10時30分33秒 ]
疑問に対応していないことを書いてしまいました。
いちおう旁国は古代の郡程度とすれば、21国も無理ではないという案です。
廣輿図に旁国を
「皆、倭の境に附いている。其の国、小は百里、大も五百里を過ぎず。戸、少は千余り、
多も一二万を過ぎず」と書いてあるらしいので。
(大杉氏の本でしか見ていないのだけど・・・。)
人口問題はまた別でした。
元の発言 [ Title家畜の輸送 ] お名前 [ 馬頭鬼 ] 日付 [ 12月3日(月)12時39分47秒 ]
>> 馬などの家畜の輸送で皆さん議論なさっているんですが。
>> 何回か名前を出している。
>> 作家の豊田有恒さんの本で馬と言うのは、目隠しすると意外に船に乗せて運ぶのは、
>> 簡単だって書いてありましたけど?
>> 騎馬民族説の反論として書かれていた物ですが。
>> だとすると、朝鮮半島から島伝いなら問題ないことになりませんか?
4級免許で乗れる5トンのつり船ってかなり大きいけど馬なんか乗せられそうが無い。
当時馬の体重4,5百kgを乗せ、漕ぎ手10人として約一トン乗せられるなんて船あったんかな?
当時はFRPで出来ている今の船とちがって丸木舟に板を貼り付けた準構造船てやつですからその5倍位は必要。
船倉が出来たくらいの完全構造船じゃないと難しいんじゃないでしょうか?
馬は通常立ったまま生活するので立った状態で輸送するコンテナみたいな物が必要です。
確かに目隠しすれば大人しくなるけど馬を座らせる事だって難しいんじゃ?
船の中で長時間飼葉はどうするんだろ。糞は?尿は?
全てたったままでしかやらない物ですが。
それこそエコノミー症候群で死んじゃうかも。
元の発言 [ Re: 三月の記事の可能性もある? ] お名前 [ 大場嘉門 ] 日付 [ 12月25日(火)17時35分42秒 ]
その問題は,暦を少し調べてからにしますが,
「景初二年六月」「その年十二月」「正始元年」
と続く記事と,
「景初二年」の年号が「景初三年」とされること,
この辺りの問題と関連するのでしょ?
「その年十二月」の詔書の中に,
「銅鏡百枚」が出てくるわけだし,
「正始元年」の何月かに,
「倭国に詣り」「鏡を賜う」とあるわけだから,
元原の意は,「景初三年十二月」の直前に,
「景初四年」を仮に決定した直後に鏡を作ったのが,
一部混入したと見れば,
「景初三年」「景初四年」の「三角縁神獣鏡」こそが,
時期的に改元混乱の消息を物語るゆえに,
まぎれもなく卑弥呼の鏡という組立・・・
ですよね?
ふむふむ。
量産されて配布されたのは,景行天皇の時代かなぁ。
元の発言 [ Re: Title中国人は前方後円墳を知っていたの? ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 12月25日(火)09時50分28秒 ]
>>
>>
>>
>>
>>
「上妻の県、県の南二里に筑紫君磐井の墓墳有り。高さ七丈、周六十丈なり。
墓田は、南北各六十丈、東西四十丈なり。・・・・・・・・」(筑後国風土記)
>>
>>
>>
>>
>>
元は祭壇だったんでしょうが、箸墓などの巨大な前方部を無視して後円の径だけを記した。
だって、邪馬台国だもん。
まあ、魏使は見てないって言うんでしょ。
「有棺無槨」もネ。
元の発言 [ Re: Title 謎とき 日本合戦史 ] お名前 [ 景虎 ] 日付 [ 12月24日(月)14時10分32秒 ]
>> >> >> >> 何のための武術なんですか?
>> >> >> >> すぐ、わずかの時間でもそこそこ戦えるようになる。
>> >> >> >> その鍛錬ノウハウが、武術でしょう?
>> >> >> これは、古流の場合あてはまらない事が多いです。
>> >> >> 古流は、身分に関係なく教えた流儀もありますが、基本的に
>> >> >> 戦闘のプロである武士のものです。
>> >> >> 長い時間をかけて修行する事が前提となっている場合が多い。
>> >> >> 初心者に教える技術は、実戦用ではなく、鍛錬用の技である
>> >> >> 場合が多いです。ある程度、基礎が出来て、人格もみて、そ
>> >> >> れから実戦的な技術を教えるというのが、古流の教育システ
>> >> >> ムです。
>> >> 確かにそううでしょうね。
>> >> 現代は、戦国乱世では有りませんから。
>> >> ですが、そんなときにまず最低限戦えるような技術を短時間で叩き込むでしょう。
>> >> 身を守るのに上下はありませんから、
>> >> また、そうしなければ、如何にもならない状況の中で実戦的にすぐ使えるもの
>> >> 其れがあるはずです。
>> >> そして、其れが生き残るナかで平和な中、
>> >> 陰虎さん言われるように換えられたと見るべきなのです。
>> >> でないと自滅でしょうから、なま兵法は怪我の元この言葉が広い意味で全てでしょうね。
>> >> そう言うシステムでないと、おかしなのに武器を与える事に成りますから
>> ある程度、正しい意見だと思いますが、現代と同じやり方も
>> かなり行われていたようです。
>> 前にも少し書いたような気がしますが、古武道というのは基
>> 本的には戦闘のプロである武士を対象としたものです。
>> 戦国武士は、幼い頃から武術の稽古をしていたのですから、
>> 例えば、6才で稽古を始めるとすると、戦場に出る頃には10
>> 年くらいたっています。本来はそういう特殊な人達の為の武術
>> だった訳です。
>> 外国の武術と違って、日本の場合は戦国期の伝書が残っている
>> 事は御存知だと思いますが、それによると、当時から現代とほ
>> ぼ同じ伝授システムが確立されていた事が分かります。
失礼しました。
この点に関する、私の考え方をお話します。
この点は、私も忘れていました。
其の上で、色々聞かせられ思い出した事からしますと
戦闘プロの武士と、護身を習いに来る者達とは、教える内容が始めから違うと言う事だと思います。
プロの者たちは、まず其の流派の基礎を徹底的に仕込まれるでしょう。
ただし、イチオの基礎がありますから、其れを徹底的に強化されるわけでしょうね。
護身を習いに来るものは、手ほどきなど基本的な、
そしてそこそこ身を守れる技から教えられながら、
基礎も練ると言うところでしょうか。
プロ達は、なにも教えられないまま、基礎を練りながら護身の教習などから基礎を盗むようにして身に付ける。
この過程で、人物と素質などを確かめる試験に成っていると言う所でしょう。
辛抱できる人間かどうかと言う事などですね。
昔の職人サンの修行等同じようなものだったのでしょう。
元の発言 [ Re: 三月の記事の可能性もある? ] お名前 [ 大場嘉門 ] 日付 [ 12月25日(火)17時35分42秒 ]
こんばんは
>>三年正月の丁亥は朔ですから、二月に丁丑の日はあるのでは?
そのとおりです。ニ月丁丑は、2月21日にあたるので○ですね。失礼しました。
それと、もう一箇所の間違いが。正始二年六月の己丑は己卯の書き違いでした。
ちなみに、この日は6月7日と見れば存在する日ですが、直前の辛丑が6月29日であり、己卯より後の日付であるので、×としました。
元の発言 [ Re: いきなりわりこんでなんですが ] お名前 [ 景虎 ] 日付 [ 12月24日(月)14時37分34秒 ]
>>> そういえば、詳しくは知りませんが、魔女狩りの影響などで
>> 女性が減った時に、ポルトガルに日本人女性が妻として買わ
>> れていったとかいう話があるようですね。
>> 今でもその人達の子孫がいるらしいです。
そんな話があるのですか。
南蛮の日本人町辺りに売られるのは、聞いた事も有りますが。
ポルトガルまでとは。
元の発言 [ Re: Title中国人は前方後円墳を知っていたの? ] お名前 [ オヤジッチ ] 日付 [ 12月25日(火)20時43分31秒 ]
>> >> 日本においても、前方後円墳は、円墳部だけが、墓とし
>> >> て認識されていたと思われる証拠が文献にあります。
>> >> ようするに、日本の風土記(だっけ?)において、
>> >> 墓は「径がいくらいくら」としか書かれていない。
>> 「上妻の県、県の南二里に筑紫君磐井の墓墳有り。高さ七丈、周六十丈なり。
>> 墓田は、南北各六十丈、東西四十丈なり。・・・・・・・・」(筑後国風土記)
>> >> ようするに、前方後円墳というのは、後の考古学者の
>> >> 考えたものであって、あれは円墳であり、かつ、その
>> >> 大きさは円墳としての径で表されるわけです。
>> >> じゃあ、前方部はなにか、というと、たぶん、祭壇なん
>> >> でしょう。
円の部分に埋葬部の無いのも結構有るって聞いてますけど。これは?
>> 元は祭壇だったんでしょうが、箸墓などの巨大な前方部を無視して後円の径だけを記した。
>> だって、邪馬台国だもん。
>> まあ、魏使は見てないって言うんでしょ。
>> 「有棺無槨」もネ。
前方部が祭壇だとしたら、そっちの方が高い古墳を幾つか歩いた事があるんですが。
元は、というと後はどうなってるんですか。
揚げ足とってすいません。
茶々です。
元の発言 [ Re: 三月の記事の可能性もある? ] お名前 [ マルセ ] 日付 [ 12月25日(火)22時51分08秒 ]
こんにちは
>> ちなみに、この日は6月7日と見れば存在する日ですが、直前の辛丑が6月29日であり、己卯より後の日付であるので、×としました。
ということは、正始二年六月朔が癸酉ということですか。
ちなみに、景初三年後十二月朔は丁亥で良いんですよね。
まず、三国志の東夷伝に出ている国の名前に、
@ 狗邪韓国
A 不耐穢王(漢字がないので、この字を使う)
とあるが、これはどういう地名だろうか?
“韓国の中の狗邪の地”であり、“穢国の中の不耐の地の王”ということであろう。
となると、「邪馬壹国」とは、“壹国の中の邪馬の地”となろう。
壹国という大領域の中の“邪馬”という小領域を表していることになる。
したがって、邪馬壹は『ヤマト』という地名を表示していることにはならない。
単に、『ヤマ』という地名をさしていることになる。
これから考えると、後漢書以降に記されている「邪馬臺国」であっても、これも“臺国の
中の邪馬の地”を示していることになり、こちらでも『ヤマト』という地名を表しているこ
とにはならない。
すなわち、奈良の大和や筑後山門を「邪馬壹(臺)国」に比定するのは誤りと断定でき
る。
さて、須久岡本遺跡の近くに、(岡本)の地名の中の(字)名に、「山」という地名があ
る。
一方、「山門」というのは、文字どおり、“山の門”であろう。
王城や王宮というのは、それを守るための城壁が築かれていたはず … 「宮室・楼観・
城柵、厳かに設け、常に人有り、兵を持して守衛す」とあるとおり。
城壁がめぐらされているときに、外部との出入りは、要所々々に特定の門を設け、そこか
ら出入りしていた。
そうです、「邪馬(山)」という地域に出入りしていたところが、“山門”である。
そこで、“山門”という地名をひろってみると、
筑後山門
筑後川流域の山門
肥後の山門
博多湾岸西北の下山門
等がある。
これですべてではないと思うが、見事に(岡本の山)を取り囲んでいるのはあ、何を意味
するのであろうか?
元の発言 [ Re: Title中国人は前方後円墳を知っていたの? ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 12月25日(火)09時50分28秒 ]
レス付けて頂きありがとうございます。
>>
>>
>>
>>
さて、上記の件が磐井の墓を指すものとすれば、卑弥呼の墓が円墳であることを補強するのではないでしょうか。
つまり、日本側の史料でも、前方後円墳の規模を表現するのに、「径・・・」とは書かれていない。むしろ、円墳とは異形であることを明確にするかのように「南北・・・、東西・・・」と書かれている。もし魏使が、中国の墓制にない前方後円墳を見たとしたら、きっとそれを記したと思うのです。なぜなら「径百余歩」は、中国の単位を使用し記したものであり、魏使が直接測量したことを疑えないからです。
元の発言 [ Re: Titleしつもん ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 12月26日(水)15時00分10秒 ]
にゃんちゅーさんへ
>>
>>
>>
>>
>>
>>
「基地外」を音読みして、これを精神障害者をいう差別用語の変換ミスと誤解しないように!
おにりんさんが読み方を示しているように、これは熟字訓というやつで「マトモ」と訓みます。
「発言をされた」は、「発言をされない」の間違いでしょう。
元の発言 [ Re: 三月の記事の可能性もある? ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 12月26日(水)14時54分14秒 ]
>>
>>
>>
どーも,偽造というより由緒ですかね?
改元に事情があったのなら,
枚数が少ないだけに事情を反映していて,
現実の由緒を正した,とかいう・・・。
ところで,倭迹迹日百襲姫命が卑弥呼の場合,
男弟を吉備津彦あたりにすると,
箸墓にとって都合がよいのでしょう? >特殊器台
このコンビはあり得るでしょうから,
大田田根子や崇神天皇を気にせずに組めば,
案外,面白いかも。
元の発言 [ Re: Title中国人は前方後円墳を知っていたの? ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 12月26日(水)15時03分50秒 ]
>> 前方部が祭壇だとしたら、そっちの方が高い古墳を幾つか歩いた事があるんですが。
>>
成るほど! 一理有ります。
て、危うく納得する所でした。
そんな普通、高いところに聖室なんて設けたら祭壇は普通低いでしょう。
それは、実例は無い事も無いけど・・・・・
でも、多くの古墳で前方部は、低いわけで、祭壇を低く設けてるわけですよね。
なのに、
前方部に玄室が設けられている古墳も有るわけで、
其処まで考えると如何も?
>>
>>
>>
>>
>>
>>
全く、あれこれ、不思議ですね。
元の発言 [ Re: Title中国人は前方後円墳を知っていたの? ] お名前 [ 寝太郎 ] 日付 [ 12月26日(水)18時52分34秒 ]
>> >> ようするに、日本の風土記(だっけ?)において、
>> >> 墓は「径がいくらいくら」としか書かれていない。
>>
>> さて、上記の件が磐井の墓を指すものとすれば、卑弥呼の墓が円墳であることを補強するのではないでしょうか。
>> つまり、日本側の史料でも、前方後円墳の規模を表現するのに、「径・・・」とは書かれていない。むしろ、円墳とは異形であることを明確にするかのように「南北・・・、東西・・・」と書かれている。もし魏使が、中国の墓制にない前方後円墳を見たとしたら、きっとそれを記したと思うのです。なぜなら「径百余歩」は、中国の単位を使用し記したものであり、魏使が直接測量したことを疑えないからです。
ちょっと、待ってください。
ふと気づいたんですが、いくら魏使と言っても墓域に入れますかね?
特に、新しく築いた古墳がたの墓であれば、まず入れないんではないでしょうか。
墳丘墓的で祭儀に入れるような墓で無い限り、普通入れないと思うけど。
中国でも、下手に墓域に入ると何も知らない余所者が、
迷っていたとしても死刑になることが多いと聞いていますが?
使者達にも、其れは、常識的な話では?
元の発言 [ Re: 弥生の日本語 ] お名前 [ ちょっと一服 ] 日付 [ 12月24日(月)22時16分09秒 ]
>> >> まず、縄文の言葉は、どんなでしょう?
>> 倭人伝で言うと,倭種というのが,
>> 同じ言葉を使っていたのでしょうね。
>> NHKの番組だと,ジャワ系で南九州に来て繁栄し,
>> 黒潮に乗って日本列島を北上した縄文人,
>> この辺りを思いつくんですが。
>> 両者の関連は如何に?
多分、3つ程度の言葉が合ったのでは、と思いますが。
北から来た人々、半島方面から来た人々、お話に有る南から来た人々です。
ただ、NHKの例では、結構交じり合っているみたいだし、
交易も半島まで及んでますね。
南の貝や糸魚川のヒスイ、そして黒曜石、他。
6千年もとすれば、一つの言葉になり、方言化していたかもしれませんね。
其れとも、かなりのバイリンガル的な人々であったかも。
元の発言 [ Re: Title弥生の日本語 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 12月13日(木)23時02分51秒 ]
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
大陸の動乱は、恒に多くの人々の流入を起こしていました。
この時代が例外とは、とても思えないのです。
>> 統一などされていないと考えます。
>>
>>
>>
タヒチとハワイは元々完全な同属である事がわかってますから。
>>
其れは知りませんでしたが・・・
>> 文化的にも特に、抜き出た部族があるのかも疑問ですし、
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>> 太平洋の部族社会の交易と言語の状態を見れば一目両全だと思いますね。
>>
>>
>>
>>
>>
>> 中国の様に、強力な封建制があるのかも疑問です。
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>> 方言どころか複数の言語が介在状態だと考えた方がよいとおもいますね。
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>> それ自体が、怪しいですね。
>>
>>
環境ですね、あくまで。
如何も良くわかりませんが、
7、8世紀あたりでも日本語と言う奴は、沸け判らないところがありそうです。
実際、アイヌ民族の単語が多数含まれている事。
如何やら、飛鳥時代辺りでは、権力者達が、
百済人辺りと話すとき通訳は全く必要無かった気配があること。
宮崎辺りの、方言に多数百済語と思われる単語があるとともに、(現代の朝鮮の言葉に近いものが有る)
古語のなかにも、多いみたいである事。
如何やら、其の時代百済語と日本語の違いは、イタリア語とスペイン語の違い程度らしい事。
つまり、ゆっくり話せば理解可能な程度のちがいらしい。
この辺りが何を物語るのか考えている状態です。
元の発言 [ Re: Titleわが国最古、奈良・箸墓古墳周濠跡から木製馬具出土 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 12月3日(月)14時27分12秒 ]
>> >> 江南からは、1日なんだってば。九州までは。
>> 杭州から福岡まで2000kmくらいあるんでしょ。
>>
まあちょっと地図で見ましたが700ってことはありませんね。少なくても2倍はありそう。
>> いくら海流に乗っても黒潮の流れは時速2.5ノット(4.5km/h)ですよ。
>>
>>
>>
もう廃止されたけど大阪〜徳島の高速船の最高速度60kだったなあ。
外洋ではあんなスピード出せる訳が無い。普通のモーターボートも湖内で50kくらいですよ。
三世紀のクリ舟が外洋で40kmですか?
>> 日和を見ながら安全に日本に来るのは半島経由で呼子、唐津へくる以外にありません。
>>
ああ・・
元の発言 [ Re: Title中国人は前方後円墳を知っていたの? ] お名前 [ 馬頭鬼 ] 日付 [ 12月26日(水)20時28分46秒 ]
>> ふと気づいたんですが、いくら魏使と言っても墓域に入れますかね?
>> 特に、新しく築いた古墳がたの墓であれば、まず入れないんではないでしょうか。
>> 墳丘墓的で祭儀に入れるような墓で無い限り、普通入れないと思うけど。
>> 中国でも、下手に墓域に入ると何も知らない余所者が、
>> 迷っていたとしても死刑になることが多いと聞いていますが?
>> 使者達にも、其れは、常識的な話では?
墓域に入らずとも測量は可能ではないでしょうか。
問題は「歩」という長さの単位が使用されていることだと思うのです。倭人が中国と同じ度量衡を使用していたのなら理解できるのですが、後代の『隋書』においてさえ「倭人は里数を知らず。」と記されており、魏使による測量としか考えられないと思うのです。
元の発言 [ Re: Title中国人は前方後円墳を知っていたの? ] お名前 [ 寝太郎 ] 日付 [ 12月26日(水)22時22分59秒 ]
>> >> 墳丘墓的で祭儀に入れるような墓で無い限り、普通入れないと思うけど。
>> >> 中国でも、下手に墓域に入ると何も知らない余所者が、
>> >> 迷っていたとしても死刑になることが多いと聞いていますが?
>> >> 使者達にも、其れは、常識的な話では?
>> 墓域に入らずとも測量は可能ではないでしょうか。
>> 問題は「歩」という長さの単位が使用されていることだと思うのです。倭人が中国と同じ度量衡を使用していたのなら理解できるのですが、後代の『隋書』においてさえ「倭人は里数を知らず。」と記されており、魏使による測量としか考えられないと思うのです。
確かに、入らずに計る事は不可能ではないでしょうが。
もし実際に入れて実測したとするなら、それは、墳丘墓的な者で、古墳ではない事になりは、しないかと?
元の発言 [ Re: 弥生の日本語 ] お名前 [ 馬頭鬼 ] 日付 [ 12月26日(水)20時47分26秒 ]
NHKだと,3〜4系統の言語ですよね。
中国系と言われる弥生人のなかに南方言語な人達がいて,
日本に来たらびっくり,
九州とかの縄文人が似たような南方語を話していた・・・
なんてことはないか。
南九州というのが日向三代の拠点であるだけに,
倭人伝の倭語との関連を知りたい。
岩波文庫版日本書紀第34〜35頁によると,
敏達紀12年10月の記事に,韓婦が韓語を用いる話があり,
韓語は「からさひづり」と訓むそうです。
「さひづり」とは「外国や辺境のことば」だそうです。
つまり,はっきりと別の言語であったらしい。
あるいは,
万葉集からは,
和人は中国語も韓語も出来なかったことが分かるから,
この時代についても,
バイリンガルの線は低いと思います。
縄文の昔のことは分かりません,,,(^^;
元の発言 [ Re: Title中国人は前方後円墳を知っていたの? ] お名前 [ 馬頭鬼 ] 日付 [ 12月25日(火)23時12分06秒 ]
>> 円の部分に埋葬部の無いのも結構有るって聞いてますけど。これは?
「前方部に追葬墓があるものも結構ある」の間違いでは?
>> 前方部が祭壇だとしたら、そっちの方が高い古墳を幾つか歩いた事があるんですが。
>> 元は、というと後はどうなってるんですか。
巻向型の時代には葬送儀礼のための祭壇だったと思っています。
弥生の墳丘墓にも葬送儀礼に使ったと思われる遺構があり、丹塗土器が纏まって出土する例が沢山あります。
吉野ヶ里の“南墳丘墓”も墳丘ではなく祭壇であったことが一昨年発表されています。
四隅突出墳の突出部と同じく、元々の機能が失われてデフォルメされる例の一つでしょう。
被葬者の権威以上にそれを受け継ぐ者の権威を高めるため。
元の発言 [ Re: 弥生の日本語 ] お名前 [ ちょっと一服 ] 日付 [ 12月26日(水)22時50分57秒 ]
>> NHKだと,3〜4系統の言語ですよね。
>> 中国系と言われる弥生人のなかに南方言語な人達がいて,
>> 日本に来たらびっくり,
>> 九州とかの縄文人が似たような南方語を話していた・・・
>> なんてことはないか。
結構有るのかも
>> 南九州というのが日向三代の拠点であるだけに,
>> 倭人伝の倭語との関連を知りたい。
その倭語が曲者なのです。
>> 岩波文庫版日本書紀第34〜35頁によると,
>> 敏達紀12年10月の記事に,韓婦が韓語を用いる話があり,
>> 韓語は「からさひづり」と訓むそうです。
>> 「さひづり」とは「外国や辺境のことば」だそうです。
>> つまり,はっきりと別の言語であったらしい。
>> あるいは,
>> 万葉集からは,
>> 和人は中国語も韓語も出来なかったことが分かるから,
>> この時代についても,
>> バイリンガルの線は低いと思います。
>> 縄文の昔のことは分かりません,,,(^^;
べつの弥生の日本語で書いた通り、百済辺りと日本語は
非常に近かったらしい事を考えると。
半島の韓と言うのも多言語ではなかったのでしょうか。
高句麗や新羅、百済とも当時は民族や言語に違いがあったとも考えられますから。
また、倭人伝でも複数言語が記録されてるようですし。
元の発言 [ Re: Title中国人は前方後円墳を知っていたの? ] お名前 [ 馬頭鬼 ] 日付 [ 12月26日(水)22時35分53秒 ]
>> もし実際に入れて実測したとするなら、それは、墳丘墓的な者で、古墳ではない事になりは、しないかと?
ご指摘の通りです。古墳と墳丘墓の使い分けが出来ていませんでした。勉強不足を痛感しています。
卑弥呼の墓は、「円形の墳丘墓の可能性が高い。」と訂正させていただきます。
元の発言 [ Re: Title中国人は前方後円墳を知っていたの? ] お名前 [ 寝太郎 ] 日付 [ 12月26日(水)18時52分34秒 ]
>> つまり、日本側の史料でも、前方後円墳の規模を表現するのに、「径・・・」とは書かれていない。むしろ、円墳とは異形であることを明確にするかのように「南・・・、東西・・・」と書かれている。
オヤジッチ氏が引用しておられるように、原文には
「墓田は、南と北とは各六十丈、東と西とは各四十丈なり」とある。
ここで「墓田」とあるのは、前方後円形の墳丘ではなくて、「墓域」のこと。六十丈は約178m、四十丈は約118m。これは岩戸山古墳の外堤を含めた長さ(南北180m、東西110m)とほぼ一致している。
要するに、墳丘そのものの大きさについては「周りは六十丈」の記述しかない。「前方部」の存在には一切言及していないというわけ。
中国史料における「径」の用法については、過去にALEX氏が述べておられるからご参照あれ。まさかりの刃(だったかな?)を「径〜」で表現した例がある。
つまり、「円形(の部分を含むモノ)は径で表現されるが、径で表現されたものが円形部分のみで成り立っているとは限らない」ということ。前方後円墳の円丘部についても然り、ではあるまいか。
元の発言 [ Re: Title中国人は前方後円墳を知っていたの? ] お名前 [ 大山 柳 ] 日付 [ 12月27日(木)00時31分18秒 ]
>> 中国史料における「径」の用法については、過去にALEX氏が述べておられるからご参照あれ。まさかりの刃(だったかな?)を「径〜」で表現した例がある。
>> つまり、「円形(の部分を含むモノ)は径で表現されるが、径で表現されたものが円形部分のみで成り立っているとは限らない」ということ。前方後円墳の円丘部についても然り、ではあるまいか。
だとすれば箸墓の前方部長さ278mは径100歩にくらべて大きすぎると言う話になりますね。
元の発言 [ Re: Title中国人は前方後円墳を知っていたの? ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 12月27日(木)07時36分03秒 ]
>> >> 中国史料における「径」の用法については、過去にALEX氏が述べておられるからご参照あれ。まさかりの刃(だったかな?)を「径〜」で表現した例がある。
>> >> つまり、「円形(の部分を含むモノ)は径で表現されるが、径で表現されたものが円形部分のみで成り立っているとは限らない」ということ。前方後円墳の円丘部についても然り、ではあるまいか。
>> だとすれば箸墓の前方部長さ278mは径100歩にくらべて大きすぎると言う話になりますね。
前方部を含めた長さ278mはです。
おくればせながら、読みました。
本の内容の前に、かなり昔の、おにりん氏の指摘についてですが、(捜索したけど、どこがわからなかったです。すみません)
1:画文神獣鏡=卑弥呼が魏からもらった鏡説についてですが、この立場でも、画文神獣鏡=楽浪鏡となるので、特に西川氏の議論と矛盾しません。
2:岡村氏の漢鏡7期第一段階の鏡というのは、実際には、庄内・布留以降に出土するものが殆どなのでは?それらのものが2世紀後半に流入して、伝世したという議論は、どんなものでしょう?
畿内で鏡が優位に出土するのは、庄内3ぐらいからではないでしょうか。
さて、福永氏の、「邪馬台国から大和政権へ」です。
いくつか、疑問があります。
1: 年輪年代
これを重視しているのは、どうも理解できない。
法隆寺の一件や、勝山の時のここでの議論を参考にすると、結局、年輪年代でわかるのは、伐採年代ということでは?
筏孔が、伐採後すぐ利用された根拠になるというのも、よくわからない。
2:貨泉
これについては、橋口達也氏が、「弥生文化論」の中で、後漢の私鋳銭の可能性を挙げていますが、いかがでしょう。
3:画文神獣鏡
編年から、公孫氏時代の流入とできるのかどうか。
2〜4世紀の鏡の場合、甕棺の年代を決定した、前漢鏡・後漢鏡の変遷のような、明確な対応がないわけで、かなりの推計幅があると思います。
どのみち、庄内期の出土例としては、ホケノ山と、萩原の、3面しかないし、小山田氏の議論だと、古いものは古い遺跡から、新しいものは新しい遺跡からでているというので、まとまって来て、伝世したとみるのも疑問です。
4:三角縁神獣鏡
年代の根拠として、重要のなのは、これにいきつくようです。
例の、芝草文様の併行関係が、難題です。
三角縁神獣鏡=2世紀末以降製造説で、私も、いろいろ考えましたが、うまい説明は、どうもできません。
ただし、三角縁神獣鏡=240〜290製造説でも、結局、ある程度の伝世を考えるわけでしょう?
三角縁神獣鏡出土古墳を、240年代にもっていくことはできないし、また、黒塚にしても、260年代まで、もっていけるのかどうか。
まだ、どうも、納得できません。
他の問題についていえば、国産大型青銅器の空白期間というのが、おもしろかったです。
大型青銅器を大量につくるとすると、結局、大陸の銅が必要なのですが、それがストップしたというのはいかがでしょう?
元の発言 [ Re: Titleわが国最古、奈良・箸墓古墳周濠跡から木製馬具出土 ] お名前 [ オヤジッチ ] 日付 [ 12月1日(土)21時18分00秒 ]
>> 落葉が二十〜三十年堆積した層から大量の土器と一緒にでたそうで、環濠の底だったか浮いていたかは記事にありませんが、
布留1だそうだから古墳の年代には影響ないんじゃないですか。
しかし布留1で北方系じゃない馬具が出たということは、その後は半島系の文物になるんだから、布留1が西晋代ってことになるのではないですか?
元の発言 [ Re: Title家畜の輸送 ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 12月3日(月)16時04分25秒 ]
>> 4級免許で乗れる5トンのつり船ってかなり大きいけど馬なんか乗せられそうが無い。
>> 当時馬の体重4,5百kgを乗せ、漕ぎ手10人として約一トン乗せられるなんて船あったんかな?
国立科学博物館でやっていたNHKの日本人で直径2mの刳り船が、展示されてましたね。
これが、何時頃の物かは、忘れましたが、
少なくとも、これを元にした準構造船なら、可能じゃないかと思うんですけど?一頭くらいなら。
>> 当時はFRPで出来ている今の船とちがって丸木舟に板を貼り付けた準構造船てやつですからその5倍位は必要。
>> 船倉が出来たくらいの完全構造船じゃないと難しいんじゃないでしょうか?
>> 馬は通常立ったまま生活するので立った状態で輸送するコンテナみたいな物が必要です。
>> 確かに目隠しすれば大人しくなるけど馬を座らせる事だって難しいんじゃ?
>> 船の中で長時間飼葉はどうするんだろ。糞は?尿は?
>> 全てたったままでしかやらない物ですが。
>> それこそエコノミー症候群で死んじゃうかも。
それに、船が、中国の物だったら、十分有りうるのでは?
元の発言 [ Re: Title 謎とき 日本合戦史 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 12月26日(水)19時48分23秒 ]
>> と古流を侮辱したわけですが、訂正も謝罪もなしですか?
>>
>> 邪馬台国が九州にあろうが、畿内にあろうが、滅んだ国の話
>> ですから迷惑はかかりませんが、現存する日本文化を侮辱し
>> た事についてどう考えているのですか?
>>
>>
>>
>>
そういう事ではなく、しょーもない、などと言われたら普通
怒りませんか?
それに、現代の古流と戦国時代の古流が違うとはどういう意
味ですか?
戦国時代の伝書に現代と同じ技法が書かれてますよ。
稽古のやり方も同じですよ。
違うと主張するその証拠はなんですか?
元の発言 [ Re: Title 謎とき 日本合戦史 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 12月26日(水)19時48分23秒 ]
>> と古流を侮辱したわけですが、訂正も謝罪もなしですか?
>>
>> 邪馬台国が九州にあろうが、畿内にあろうが、滅んだ国の話
>> ですから迷惑はかかりませんが、現存する日本文化を侮辱し
>> た事についてどう考えているのですか?
>>
>>
>>
>>
書き忘れていましたが、戦国時代、素手で武器を持った敵を
倒す無刀取の技法がすでに創始されています。
奥山休賀斎に7年学んだ徳川家康が、柳生石舟斎に木刀で打
ちかかったが、無刀取で石舟斎が勝ち、家康は新陰流に入門
したという話があります。
素手で武器を持った敵を倒す名人が、小学生の剣道に劣ると
本気で考えているのですか?
剣槍などは室町〜戦国(竹刀剣術を除く)、柔術は戦国〜江
戸初期に完成したというのが定説です。
この後、江戸時代に多くの流儀が創始されますが、古い流儀
を学びやすいように縮小したものが多いです。
元の発言 [ Re: Title中国人は前方後円墳を知っていたの? ] お名前 [ 大山 柳 ] 日付 [ 12月27日(木)00時31分18秒 ]
>> オヤジッチ氏が引用しておられるように、原文には
>> 「墓田は、南と北とは各六十丈、東と西とは各四十丈なり」とある。
>> ここで「墓田」とあるのは、前方後円形の墳丘ではなくて、「墓域」のこと。六十丈は約178m、四十丈は約118m。これは岩戸山古墳の外堤を含めた長さ(南北180m、東西110m)とほぼ一致している。
>> 要するに、墳丘そのものの大きさについては「周りは六十丈」の記述しかない。「前方部」の存在には一切言及していないというわけ。
ご指摘ありがとうございます。理解しました。しかし、それでは日本側の認識も「墓といえば円形である」となるのでは。
>> 中国史料における「径」の用法については、過去にALEX氏が述べておられるからご参照あれ。まさかりの刃(だったかな?)を「径〜」で表現した例がある。
これは、今年討論されたのでしょうか。全部に目を通していませんので探しようがないのです。出来れば、お教え願えないでしょうか。
>> つまり、「円形(の部分を含むモノ)は径で表現されるが、径で表現されたものが円形部分のみで成り立っているとは限らない」ということ。(前方後円墳の円丘部についても然り、ではあるまいか。)
私も上記の論理は、全くの正論と考えます。だからと言って、卑弥呼の墓を前方後円墳と断定できるでしょうか。「まさかり」の例で考えてみましょう。多くの中国人は「まさかり」と聞けば、半月形であれ、長方形であれ、ある特定の形を思い浮かべるでしょう。それは「まさかり」についての共通認識があるからです。では、「墓(原文は冢)」と聞いて中国人は「円形の埋葬部と、それに繋がる方形部」と言う形をイメージできるでしょうか。中国人にとって「墓」と言えば円形であり、その共通認識があるからこそ、陳寿は「径百余歩」としか記さず、その外観に触れなかったのではないでしょうか。
箸墓やホケノ山古墳は、前方後円墳の黎明期の墓と言えるでしょう。もし、卑弥呼の墓が前方後円墳ならば、魏使にとっては未知なる墓であり、前方部で祭祀が行われたとすれば、興味深い習俗として記録にとどめたと思うのです。なぜなら『倭人伝』は、日本と中国の文化や習慣の違いに多く筆を費やしているからです。
元の発言 [ Re: Title中国人は前方後円墳を知っていたの? ] お名前 [ オヤジッチ ] 日付 [ 12月26日(水)23時03分19秒 ]
>> >> 円の部分に埋葬部の無いのも結構有るって聞いてますけど。これは?
>> 「前方部に追葬墓があるものも結構ある」の間違いでは?
そうなのですか、勉強不足ですいません。
ですが、仁徳天皇凌は、発掘された無いので正確なことは、わからないようですが、
前方部に玄室があると聞きました。これもそうなのでしょうか?
>> >> 前方部が祭壇だとしたら、そっちの方が高い古墳を幾つか歩いた事があるんですが。
>> >> 元は、というと後はどうなってるんですか。
>> 巻向型の時代には葬送儀礼のための祭壇だったと思っています。
>> 弥生の墳丘墓にも葬送儀礼に使ったと思われる遺構があり、丹塗土器が纏まって出土する例が沢山あります。
>> 吉野ヶ里の“南墳丘墓”も墳丘ではなく祭壇であったことが一昨年発表されています。
>> 四隅突出墳の突出部と同じく、元々の機能が失われてデフォルメされる例の一つでしょう。
>> 被葬者の権威以上にそれを受け継ぐ者の権威を高めるため。
そんな事だったんですか?
トンでも説で、前方部が、墓で後円部が、魔方陣なんてこと考えてしまいましたが?
元の発言 [ Re: Title中国人は前方後円墳を知っていたの? ] お名前 [ 寝太郎 ] 日付 [ 12月26日(水)23時27分13秒 ]
>> >> もし実際に入れて実測したとするなら、それは、墳丘墓的な者で、古墳ではない事になりは、しないかと?
>> ご指摘の通りです。古墳と墳丘墓の使い分けが出来ていませんでした。勉強不足を痛感しています。
>> 卑弥呼の墓は、「円形の墳丘墓の可能性が高い。」と訂正させていただきます。
私も其の方が、近いのではとは思いましたが、
卑弥呼とは、どのような部族のどのような出だったんでしょう?
邪馬台国を構成する部族での立場は?
もし、其の都の構成する主用部族の出身でなければ、
全く新しい墓域を墳丘墓として作る事に成ったと思うのですが。
すると、其の墓域に葬られるのは、卑弥呼と其の男弟と其の家族、そして豊と言う事に成ると思います。
いえ、そうではなく、卑弥呼に仕える巫女団のみの可能性もあるでしょう。
当然後継ぎの巫女である豊も葬られているでしょうが。
元の発言 [ Re: 弥生の日本語 ] お名前 [ 馬頭鬼 ] 日付 [ 12月26日(水)20時47分26秒 ]
>> 多分、3つ程度の言葉が合ったのでは、と思いますが。
>> 北から来た人々、半島方面から来た人々、お話に有る南から来た人々です。
3つ以上の言葉が交じり合った場合ピジン語、クレオールが発生するらしい。
3つの特徴が混じりあって全く違う言葉になる。なんてことがかってハワイで起きたと聞いています。
まさに日本語はクレオールであったと考えれば良いのでは?
前に誰か言ってませんでしたか?
ピジン語の場合、母音や文法などは非常に単純化するという法則もあり、日本語の特徴(母音が少ない)と一致しています。
文法は結構複雑な気はするのですがクレオールとして定着した後で変化したのかもしれません。
>> 其れとも、かなりのバイリンガル的な人々であったかも。
ピジン語の発生段階では母語はそれぞれの出身地の言語を持っている訳ですがこれをバイリンガルと言えるかどうか。
元の発言 [ Re: Title中国人は前方後円墳を知っていたの? ] お名前 [ 寝太郎 ] 日付 [ 12月27日(木)19時08分00秒 ]
>> しかし、それでは日本側の認識も「墓といえば円形である」となるのでは。
そうなるでしょう。少なくとも、風土記の記述者は、岩戸山古墳の前方部を墓とはみなしていない。
>>これは、今年討論されたのでしょうか。全部に目を通していませんので探しようがないのです。出来れば、お教え願えないでしょうか。
申し訳ないが、いつ頃の発言だったかは忘れてしまった。今年ではないと思う。去年だったかな・・・。
>> 私も上記の論理は、全くの正論と考えます。だからと言って、卑弥呼の墓を前方後円墳と断定できるでしょうか。
断定はね、できません。ただ単に、前方後円墳であるという可能性もまったく否定はできない、ということ。
「径百余歩」から確実にいえるのは、「方形ではない」ということくらいかな。
>では、「墓(原文は冢)」と聞いて中国人は「円形の埋葬部と、それに繋がる方形部」と言う形をイメージできるでしょうか。中国人にとって「墓」と言えば円形であり、その共通認識があるからこそ、陳寿は「径百余歩」としか記さず、その外観に触れなかったのではないでしょうか。
「中国人にとって「墓」と言えば円形であり」とあるけど、華北の人間にとっては「墓は方形」だよ。始皇帝陵や漢代の皇帝陵はみんな方形。
それはともかくとして、土饅頭状の円丘は魏使にもはっきり墓とわかったんだろうね。
>> もし、卑弥呼の墓が前方後円墳ならば、魏使にとっては未知なる墓であり、前方部で祭祀が行われたとすれば、興味深い習俗として記録にとどめたと思うのです。なぜなら『倭人伝』は、日本と中国の文化や習慣の違いに多く筆を費やしているからです。
「前方部で祭祀が行われたとすれば」確かにそうかもしれないね。けれども、「前方部は祭壇である」という説は、数ある学説のなかのひとつに過ぎない。実際には前方部では祭祀の場などではなく、魏使の関心をまったく惹かなかったのかもしれない。あるいは、祭祀の場ではあったけれど、魏使がその祭祀を実見しなかったというだけかもしれない。
このように、「倭人伝」が前方部の存在について触れていないのには、もちろん卑弥呼の墓が純粋な円形だったという可能性も含めて、さまざまな可能性が考えられるんだ。「卑弥呼の墓が前方後円墳なら、前方部のことを書かないはずがない」というのは、そうしたさまざまな可能性をはなから排除した思い込みにすぎない。文献史料から確実にいえるのは、卑弥呼の墓には「径百余歩」と表現される円形の部分を備えていたということ。それ以上でもそれ以下でもない。そして、巨大な円丘部を備えた前方後円墳は、その候補から外れるものではないんだ。
元の発言 [ Re: Title中国人は前方後円墳を知っていたの? ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 12月27日(木)07時36分03秒 ]
>> だとすれば箸墓の前方部長さ278mは径100歩にくらべて大きすぎると言う話になりますね。
なりません。
元の発言 [ Re: Title中国人は前方後円墳を知っていたの? ] お名前 [ 大山 柳 ] 日付 [ 12月27日(木)23時56分09秒 ]
>> 断定はね、できません。ただ単に、前方後円墳であるという可能性もまったく否定はできない、ということ。
>> 「径百余歩」から確実にいえるのは、「方形ではない」ということくらいかな。
「径百余歩」は前方後円墳全体(墓域)を指すのでしょうか。それとも、その対象は円丘部だけとお考えでしょうか。
>> 「中国人にとって「墓」と言えば円形であり」とあるけど、華北の人間にとっては「墓は方形」だよ。始皇帝陵や漢代の皇帝陵はみんな方形。
>> それはともかくとして、土饅頭状の円丘は魏使にもはっきり墓とわかったんだろうね。
では、「中国人にとって『墓…、径…』と言えば円形墳墓であり」と訂正させてください。
>> 「前方部で祭祀が行われたとすれば」確かにそうかもしれないね。けれども、「前方部は祭壇である」という説は、数ある学説のなかのひとつに過ぎない。実際には前方部では祭祀の場などではなく、魏使の関心をまったく惹かなかったのかもしれない。あるいは、祭祀の場ではあったけれど、魏使がその祭祀を実見しなかったというだけかもしれない。
私は前方部そのものがなかったと考えています。「大作冢 」とあるのですから、墓作りそのものを実見しているのではないでしょうか。もし、魏使が箸墓を見たとして、高さも質量も十分備えた前方部に、関心を寄せないものでしょうか。倭国女王・卑弥呼の墓ですよ。魏使が、それを報告しなかったとは思えないのですが。
>> このように、「倭人伝」が前方部の存在について触れていないのには、もちろん卑弥呼の墓が純粋な円形だったという可能性も含めて、さまざまな可能性が考えられるんだ。「卑弥呼の墓が前方後円墳なら、前方部のことを書かないはずがない」というのは、そうしたさまざまな可能性をはなから排除した思い込みにすぎない。文献史料から確実にいえるのは、卑弥呼の墓には「径百余歩」と表現される円形の部分を備えていたということ。それ以上でもそれ以下でもない。そして、巨大な円丘部を備えた前方後円墳は、その候補から外れるものではないんだ。
私も可能性の話をしているつもりなのです。
中国には、箸墓のように巨大な円丘部を備えた前方後円墳はない。『倭人伝』の読者である中国人に「墓…径…」と示して前方後円墳をイメージさせることは困難である。『倭人伝』は、中国と日本の異同に関心を寄せている。しかるに『倭人伝』は、卑弥呼の墓の形状に関して特別な情報を記していない。
よって、「卑弥呼の墓が、前方後円墳である可能性は極めて低い。排除できるものと考えるほうが合理的である。」と考えているのですが…、納得されませんよね。
しかし、確定されていないから可能性は残るとしたのでは、ありとあらゆる可能性を排除できず、卑弥呼の墓を特定することが出来ません。可能性の大小を検討し、その網を絞り込むことが不可欠と考えます。
元の発言 [ Re: 「邪馬壹国」は、“ヤマト”とは読めない ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 12月6日(木)21時28分18秒 ]
>>
どうも、皆さんは解釈違いをしているようです。
小生は、地名を比定するのなら、“三国志も隋書でも、『ヤマ』を探さなければならないのでは?”と言っているのです。
奈文研の村上隆さんが、雪野山とフリーアの鏡(京大目録39番)がロストワックス法で作られた同型鏡であることを考証したと朝日新聞(12/3)が報じました。決め手となったのは、雪野山鏡の環状乳にあったエグレが蝋雄型の欠損とみられる点のようです。
これまで岸本さんらが想定していたロストワックス法ですが、具体的例証が増えたようです。
橿考研が解明した湯口位置の問題に続き、「舶載」三角縁神獣鏡の鋳造に投入された鋳造技術が多種多様であることが浮き彫りになってきましたね。
元の発言 [ Re: 三月の記事の可能性もある? ] お名前 [ 大場嘉門 ] 日付 [ 12月26日(水)10時55分36秒 ]
こんばんは
>>ということは、正始二年六月朔が癸酉ということですか。
そうですね。
>>ちなみに、景初三年後十二月朔は丁亥で良いんですよね。
辛巳です。丁亥は後十二月七日だと思います。
「ザ暦イン日本書紀」とフリーウェアがVECTERにありますので、これで計算するといいです。ただし、これは元嘉暦・儀鳳暦(どっちでしたっけ)ですので、この時代の中国の暦とは、閏月などが微妙にずれていますので、ご注意を。
元の発言 [ Re: Title中国人は前方後円墳を知っていたの? ] お名前 [ 馬頭鬼 ] 日付 [ 12月27日(木)21時33分48秒 ]
>> トンでも説で、前方部が、墓で後円部が、魔方陣なんてこと考えてしまいましたが?
とんでもない。
前方部が男王の墓で、後円部が巫女の墳です。(^。^)
元の発言 [ Re: Title中国人は前方後円墳を知っていたの? ] お名前 [ 馬頭鬼 ] 日付 [ 12月27日(木)21時45分40秒 ]
>> もし、其の都の構成する主用部族の出身でなければ、
>> 全く新しい墓域を墳丘墓として作る事に成ったと思うのですが。
主要部族の首長者層でなければ墳丘墓は造られない。
>> すると、其の墓域に葬られるのは、卑弥呼と其の男弟と其の家族、そして豊と言う事に成ると思います。
>> いえ、そうではなく、卑弥呼に仕える巫女団のみの可能性もあるでしょう。
>> 当然後継ぎの巫女である豊も葬られているでしょうが。
王であれば単葬の独立墳である可能性が高い。
後に周溝や裾に追葬される例はありますけど。
元の発言 [ Re: Title中国人は前方後円墳を知っていたの? ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 12月29日(土)02時57分51秒 ]
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
もちろん、その通りです。それを判断する主体が、7,8世紀の日本人ならば理解していて当然かもしれません。しかし『倭人伝』の読者である晋代の中国人(3世紀末から4世紀初頭)にすれば、本殿は知っているが鳥居と言うものは見たことがない、という状況だったのではないでしょうか。鳥居の説明がないのに、鳥居を知らない中国人が、鳥居をイメージできるでしょうかとお尋ねしているのです、しつこいですか。神社の説明で、あの特徴ある鳥居を紹介しないとは考えられないのです。
>>
>>
>>
ここは詳しく説明されていないので、よく理解できないのですけど。卑弥呼の墓を箸墓に比定されている方たちは、『倭人伝』の記述だけでは前方後円墳の可能性を排除できない、という程度の消極的な「卑弥呼の墓=箸墓説」だったと理解していたのですが、おにりんさんは、『倭人伝』の記述が積極的に箸墓を示しているとして理解してよいのでしょうか。
問題なのは、そのサイズです。箸墓の全長は280メートル、後円部は径155メートルとなっています。もちろん、おにりんさんは「径百余歩」を後円部とお考えでしょうから、一歩約1,5メートルとなります。すると、一里=300歩ですから、魏・晋朝の一里は、約450メートルとなって、漢代(約430メートル)の長里と変わりがないとおっしゃりたいのでしょう。しかし、ここで古田氏の「魏・晋朝短里説」が壁となるわけです。「径百余歩」は、『倭人伝』中の単位であり、少なくとも『倭人伝』中の「里」と連動するものでしょう。長里だと、女王国は帯方郡から5000キロ以上も離れた南国になってしまいます。
つまり、サイズが合うと考えると場所は全く合わないのです。もし「郡より女王国に至る。万二千余里」を荒唐無稽の数字であるとして、これを顧みないとすれば、「径百余歩」もその足場を失うことになると考えます。さて、おにりんさんは長里説をお採りになりますか。
女王国の位置や、領域については、後日お伺いする予定ですので、また、よろしくおねがいします。
元の発言 [ Re: Title中国人は前方後円墳を知っていたの? ] お名前 [ 寝太郎 ] 日付 [ 12月28日(金)12時33分12秒 ]
>>「径百余歩」は前方後円墳全体(墓域)を指すのでしょうか。それとも、その対象は円丘部だけとお考えでしょうか。
「径」は円形のものを表す単位ですから、そりゃ円丘部だけですよ。
>>私は前方部そのものがなかったと考えています。「大作冢 」とあるのですから、墓作りそのものを実見しているのではないでしょうか。もし、魏使が箸墓を見たとして、高さも質量も十分備えた前方部に、関心を寄せないものでしょうか。
「中国人なら、前方部に関心を寄せるはずだ」というのが、そもそも思い込み・・・といって言葉が悪ければ、予断じゃないかなあ?
もうひとつ外国人の例をあげると、明治期に来日したいわゆるお雇い外国人で、W=ゴーランドという人がいる(英国人)。この人は本業のかたわら日本の古墳に興味をもって、あちこちの古墳を調査して記録を残してるんだけど、そのなかに大阪の芝山古墳の報告がある。この古墳は前方後円墳なのに、なぜかゴーランドはこれを円墳と報告してるんだ。
なぜ彼が「前方部に言及しなかった」のか?今となってはその理由はわからない。ただ、彼の主な関心は、故国のドルメンと似ている横穴式石室の方にあったらしいんだ。
こうしてみると、前にあげた岩戸山古墳の例もそうだけど、前方後円墳についての記録で、前方部の形状やら大きさやらをきちんと記述している例というのは、実はほとんど見当たらないんだ。だから、
>倭国女王・卑弥呼の墓ですよ。魏使が、それを報告しなかったとは思えないのですが。
という考えには同調できない。
「中国人が前方後円墳について記述した記録が●例あって、そのすべてにおいて前方部の存在が報告されている。したがって魏使が、それを報告しなかったとは思えない」・・・というふうに、文献史料の裏づけがあるのなら納得するけどね。
>中国には、箸墓のように巨大な円丘部を備えた前方後円墳はない。『倭人伝』の読者である中国人に「墓…径…」と示して前方後円墳をイメージさせることは困難である。『倭人伝』は、中国と日本の異同に関心を寄せている。しかるに『倭人伝』は、卑弥呼の墓の形状に関して特別な情報を記していない。
>よって、「卑弥呼の墓が、前方後円墳である可能性は極めて低い。排除できるものと考えるほうが合理的である。」と考えているのですが…、納得されませんよね。
うん。僕が考えているのは、「卑弥呼の墓は前方後円墳だったけど、魏使がそれを前方後円墳と認識しなかった」可能性だからね。
>しかし、確定されていないから可能性は残るとしたのでは、ありとあらゆる可能性を排除できず、卑弥呼の墓を特定することが出来ません。可能性の大小を検討し、その網を絞り込むことが不可欠と考えます。
その考え方は正しいと思う。ただ問題は、網を絞り込む検討の方法なんだ。ある可能性を排除する根拠が「僕はこう思う」だけだったら、「僕はそうは思わない」と言い返されてそこで終わりになってしまう。
卑弥呼の墓の形状について倭人伝が記す情報は「径百余歩」のみ。これは直径140m強の円形ということだよね。
しかし、現状では、3世紀代の直径140m強の円形墳は知られていない(3世紀に限定しなくても知られていない。日本最大の円墳は直径約100m)。じゃあ卑弥呼の墓は幻の中にしかないのだろうか?
考えられる可能性としては、1.まだ発見されていないだけ、2.後世に破壊されてしまって今は残っていない、3.径百余歩というのは誇大な表現で実はもっと小さい、4.円形墳ではなく前方後円墳の円丘部のみを表現したもの、くらいかな。1、2の可能性性は今措くとして、4の可能性を採るとすれば、候補が一つあがる。いうまでもなく箸中山(箸墓)古墳だ。ところが3の可能性を採るとするとどうだろう。径140m以下の円形墳がすべて対象にあがってくる。その数はどのくらいあるかわからないけど、この中からさらに候補を絞り込むだけの情報はもうない。卑弥呼の墓なら奴婢たちが殉葬されているはずだけど、もちろんそんな痕跡が確認された例はいまだない。
結局のところ、変な予断を排除して文献史料と考古学資料から卑弥呼の墓を探ろうとしても、具体的な候補名があがるのは箸墓のみ。そして、「卑弥呼の墓は前方後円墳のはずはない」というのは、網を絞り込むどころか、捕まえかけた魚を逃がして別の魚群に網を投げ込むことに等しいんだ。
だからといって、僕が「卑弥呼の墓は箸墓だ」と考えているわけじゃないよ。僕の考えは「現状では卑弥呼の墓は特定できない」だ。親魏倭王印やら、卑弥呼の墓誌やら、決定的な証拠がない限りはね。
元の発言 [ Title 出雲神話 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 12月29日(土)03時16分10秒 ]
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そのように考える必然性がありますか?
「古語拾遺」「倭姫命世紀」などは傍流の文献は鏡を神体とする太陽神信仰が記紀の書いてある通り伊勢に入った
とあります。
当然傍流文献は記紀等の文献に整合をとろうとするバイアスがかかります。
少なくとも伊勢の外宮豊受神が内宮天照大神に仕える
立場という巨通認識を伊勢天武朝の人達を持っていた
のです。
>>
>>
>>
>>
>>
>>
この元発言にはおにりんさんにはめずらしく失礼ですが
まったく論理論拠がありませんね、どうしたのでしょう。
元の発言 [ ロストワックス法 ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 12月3日(月)21時20分18秒 ]
>> 奈文研の村上隆さんが、雪野山とフリーアの鏡(京大目録39番)がロストワックス法で作られた同型鏡であることを考証したと朝日新聞(12/3)が報じました。決め手となったのは、雪野山鏡の環状乳にあったエグレが蝋雄型の欠損とみられる点のようです。
>> これまで岸本さんらが想定していたロストワックス法ですが、具体的例証が増えたようです。
>> 橿考研が解明した湯口位置の問題に続き、「舶載」三角縁神獣鏡の鋳造に投入された鋳造技術が多種多様であることが浮き彫りになってきましたね。
>>
だとすると、使われた蝋は、やはり蜂の巣殻作られた物だったのでしょうか
またロスとワックスであれば、かなりの精密品が出来ますけれど。
鋳型は、何を材料としたんでしょう。
基本的に通気性の良い耐熱土なんでしょうか?
其れとも、砂型なんでしょうか?
殷の青銅器は、黄土を型として作られているようですが。
日本では?
元の発言 [ Re: Title弥生の日本語 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 12月29日(土)02時48分56秒 ]
>> 大陸の動乱は、恒に多くの人々の流入を起こしていました。
>> この時代が例外とは、とても思えないのです。
>>
今証拠が無い、見つかっていないと考えてもよいのではないかと、思っています。
>> 実際、アイヌ民族の単語が多数含まれている事。
>>
特に知名などに共通するものは覆い様ですね。
>>
>>
そうかもしれません。
>>
>>
>>
ですが、縄文時代から考えるとかなり入り混じっていなければおかしい。
>> 宮崎辺りの、方言に多数百済語と思われる単語があるとともに、(現代の朝鮮の言葉に近いものが有る)
>> 古語のなかにも、多いみたいである事。
>>
>>
すいません。
これは、理論ではなく、体験と実感なので言語学的検証とは、無縁の事です。
まず、私の出身が宮崎県の北部なのですが、
この話の有るのは、中部の話です。
方言としてはあの辺りも結構複雑で、地元でも少し離れれば、
理解できないものがあるわけですが、滅亡した百済王が亡命してきた祭られた神社と言うのがあります。
(名前とうは、すぐ忘れてしまいますので、ご容赦)
其処に、韓国から女性の韓国語教師が来られたのです。
で、此の方、元の百済が会った地方の出身で、方言の発音の類似と意味の類似に驚かれていたようです。
国に帰ったとき見た地元のテレビ番組での紹介だったのですが、
其の方言のなかに、北部出身の私にもわかる言葉が多々ありました。
それに、大変驚かされたと言う事です。
都会の生活が長くなり、実際には忘れてしまった表現なんですが、
この事が、前の記入に、トンでもとは考えられない。
と言う実感を持つ理由なんです。
特に、共通部分がデホルメされていたかもしれませんが、
地方出身者であるがゆえに、否応無く感じるのです。
>>
>>
>>
元の発言 [ Re: Title中国人は前方後円墳を知っていたの? ] お名前 [ オヤジッチ ] 日付 [ 12月28日(金)23時31分27秒 ]
>> >> もし、其の都の構成する主用部族の出身でなければ、
>> >> 全く新しい墓域を墳丘墓として作る事に成ったと思うのですが。
>> 主要部族の首長者層でなければ墳丘墓は造られない。
でも、卑弥呼は、王ですよね。
記録でも塚が築かれてるわけです。
では、卑弥呼は、其の都の有る地方とは、あまりかかわりの無い部族のでだったのでしょうか?
これは、墓の築造に大きな影響のあることかも知れません。
不勉強なので、各艇は避けますが、吉野ヶ里辺りは、同時代、まだ墳丘墓ですよね。
もし、別の支配者が入ってきたなら、従来の王族とは、別の墓を作るでしょうね。
古墳であれば、全く考慮する必要は無いが、墳丘墓の可能性も有る以上は、
この事は、考慮の上で探さなくたはならないでしょう
>> >> すると、其の墓域に葬られるのは、卑弥呼と其の男弟と其の家族、そして豊と言う事に成ると思います。
>> >> いえ、そうではなく、卑弥呼に仕える巫女団のみの可能性もあるでしょう。
>> >> 当然後継ぎの巫女である豊も葬られているでしょうが。
>> 王であれば単葬の独立墳である可能性が高い。
>> 後に周溝や裾に追葬される例はありますけど。
後の、おにりんさんのご発言からすると古墳でも墳丘墓でも可能性は、半々ということになりますか?
元の発言 [ Re: 弥生の日本語 ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 12月27日(木)23時26分37秒 ]
>> >> 多分、3つ程度の言葉が合ったのでは、と思いますが。
>> >> 北から来た人々、半島方面から来た人々、お話に有る南から来た人々です。
>> 3つ以上の言葉が交じり合った場合ピジン語、クレオールが発生するらしい。
>> 3つの特徴が混じりあって全く違う言葉になる。なんてことがかってハワイで起きたと聞いています。
>> まさに日本語はクレオールであったと考えれば良いのでは?
>> 前に誰か言ってませんでしたか?
>> ピジン語の場合、母音や文法などは非常に単純化するという法則もあり、日本語の特徴(母音が少ない)と一致しています。
>> 文法は結構複雑な気はするのですがクレオールとして定着した後で変化したのかもしれません。
>> >> 其れとも、かなりのバイリンガル的な人々であったかも。
>> ピジン語の発生段階では母語はそれぞれの出身地の言語を持っている訳ですがこれをバイリンガルと言えるかどうか。
成るほどね、納得です。
ですが、良く考えてみると。
長江より南の辺りは、少数民族の生活場所でしたね。
言葉も山ほどあるようですね。
其処からも多く居入ってきていることは、判ってますし。
とすると、3つなんて数の言葉じゃすみませんね。
実際。
元の発言 [ Re: Title中国人は前方後円墳を知っていたの? ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 12月29日(土)15時55分59秒 ]
>>
>>
>>
>>
>>
>>
30m程度の墓では古墳と気づかれないものも多いのではないでしょうか。
>>
>>
>>
>>
>>
>>
魏では目立たなくする為に墓は極小さかったので、しかも周辺国にも50mを越すような墓は無かった筈です。
なぜか東夷伝は埋葬方式に興味をもって記載しています。
径5,60mでも魏や韓半島にも見られない大きい墓だった訳で、魏使が石塚古墳やホケノ山古墳を見ていれば倭国には大きな墓がある、
と書いただろうと思います。
又、墳墓について「封土作冢」と書いてあり、葺石を被せた前方後円墳の姿は倭人伝の記述「封土作冢」にふさわしくありません。
>>
>>
>>
畿内よりはましかも。
元の発言 [ Title 出雲神話 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 12月29日(土)03時16分10秒 ]
>>
>>
#そもそも、この疑問自体が逆立ちしています。
*記紀神話は6〜7世紀に創作された。
*その当時は、近畿地方が「中央政府」としての権威をすでに確立していた。
*なにゆえ、一地方である出雲の神々が、・・・
逆から見れば、
*出雲の神々と大和の神々は対等である。
*したがって記紀神話は出雲と大和が対等であった時代(むしろ、大和が出雲の権威を凌駕するようになった時点)を反映している。
*だから記紀神話の淵源は非常に古いか、あるいは大和の王はかなり後世まで、一地方の権威にとどまっていた。
#おにりん神話学は砂上の楼閣であることがはっきりしましたね。
元の発言 [ Re: Title弥生の日本語 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 12月29日(土)15時25分43秒 ]
>> >> 実際、アイヌ民族の単語が多数含まれている事。
>> >> そうなんですか?
>> 特に知名などに共通するものは覆い様ですね。
>>
>>
>>
あの、伊勢や東海地方のこてなんですが?
元の発言 [ 刀剣専門サイトで確認してみました ] お名前 [ 景虎 ] 日付 [ 12月2日(日)01時44分46秒 ]
>> それによると、脇差の名がついたのは室町時代というのは正確ではな
>> く、二尺未満の刀を差し添えにしたのは室町後期だが、この時代に脇
>> 差と呼ばれていたかどうかは不明。
>> それ以前は短刀を差し添えにしていて、二尺未満の太刀もあったが、
>> 脇差と必ずしも同じ用途ではない。
元々、小太刀、打ち刀、腰刀と呼ばれたものが、色々換ったようですね。
>> 銘鑑に載っていない無名の刀鍛冶は存在したことは確かで、鉄砲鍛冶
>> に転職した謎の刀鍛冶の存在が確認されている。
>> 一般の兵士が鎌倉時代の刀を使った事は、可能性は十分ある。
>> しかし、一部の例外的な存在であり、その刀は昔の数打であろう。
>> 刀が3〜5人斬ったら斬れなくなるという事はない。
>> 第二次大戦中に白兵戦で八人斬った人がいるが、戦闘不能になったの
>> は切れ味が落ちた為ではなく、体力を使い果たした為。
>> 数打が不良品というのは間違い。
>> 数打は鍛え割れが目だったりするが、美術的な問題であり実用的には
>> 問題ない。
>> 人を斬った刀は駄目になるという事はない。
>> 打ちこみ傷のある刀はよくあるが、駄目になっているようにはみえな
>> い(実際そういう刀を使用して試し斬りする人がいます)。
>> 井伊家の軍史によると、足軽は長寸の脇差を帯び、又は鑓に結び付け
>> て出陣したという記録があり、大刀、太刀の類は身分のある人の物だ
>> った(私は足軽でも、大刀を差すことはあったのではないかと思います
>> が、基本的には足軽の武器ではないのでしょう)。
ずいぶん前に読んだ本の記憶なので失礼したかもしれません。
ただ色々な鍛冶や刀匠が居た事も確かでしょう。
お読みに成っていないかもしれませんので、もう一度記入させていただきますが、
「真田家の荒試し」と呼ばれる刀の試しが幕末に行なわれていると聞きました。
刀の耐久性に付いては、これが一番わかりや推移と聞いています。
これ以上の事は、私には、わかりかねます。
これを、答えとさせてください。
また、間違った常識を、指摘戴いた事をお礼いたします。
元の発言 [ Re: Title中国人は前方後円墳を知っていたの? ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 12月29日(土)15時55分59秒 ]
>>
>>
鳥居はある程度距離をおいてあるものですが、方径部は円形部に繋がっており、別物と見るのは不自然でしょう。魏使の目には、円形部しか見えなかったのでしょうか。円形部と一体に見える方形部について、日本側に説明を求めなかったと考えられますか。
>>
>>
>>
墓の全長で考えれば、一歩2,8メートル、一里840メートルになりますよ。長里説をお採りになるのであれば、後円部に特定されるべきでしょう。卑弥呼の墓が、150メートル以上の規模であることの根拠はあるのでしょうか。また、それが必要ですか。墓の大きさで権力の規模を推定できるなら、三世紀当時の日本は、世界一の超大国になりませんか。
>>
>>
>>
私が、このサイトで一番気にかかるのが上のような発言です。私は九州王朝説を支持しますが、古田一派などではありません。たとえ古田一派であろうとも、おにりんさんに、トンデモ呼ばわりされる理由などありません。非難されるべきは「論説」そのものであって、「論者」に及ばないのは自明ではありませんか。貴方ほど、博学で聡明な人物なら、他人をこき下ろす権利を有するとでも、お考えなのでしょうか。是非、今一度熟慮され、その姿勢を正されてはいかがでしょう。そうすると、迫力がなくなって、迷惑がる人がいるかもしれませんが
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
その正確な例とは、『三国志』の中のどの記述を指すものですか。また、(あくまでも)正確に測量できる技術的根拠が、なぜ必要なのでしょうか。私には、『倭人伝』内の記述が、かなりアバウトな部分を含むものと見えるのですが。例えば、松浦―伊都間は、500里であり、501里でも510里でもありません。
>>
>>
>>
>>
短里でなければ、『倭人伝』の里程は解けないと思います。韓の方四千里や、大海国〜一大国間の千里等、実地に照らし合わせて考えれば、その比率に、ほぼ規則性が見られ、短里使用は疑えないと思うのです。「歩」は、それに連動する、中国の長さの単位と理解しています。
>>
>>
>>
>>
>>
>>
確かに発見されていません。しかし、『倭人伝』の示す卑弥呼の墓は、30メートル級の墳丘墓と思われます。「墳」と記さず、「大作冢」と記したのは、「中国で冢といえば小さな墓のことだが、大いに冢を作ると書いて、中国で冢を作る労力よりも、多くの労力を要したであろう大きめの冢を示したのではないか。」という古田氏の推定が参考になると考えます。ようするに、短里説を否定できない限り、卑弥呼の墓を前方後円墳のどれかに比定することなど出来ないのです。
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
上述しましたように、いかに世界で一番大きな墓であろうとも、墓の規模は権力の大きさを量る物差しにはなりえません。確かに、畿内における近年の発掘、発見には目を見張るものがあります。しかし、それは『倭人伝』の記述するものとは違う可能性が高いと考えます。長里説で『倭人伝』が、解釈可能であり、その内容に同意できれば、私はすぐにでも九州説を棄てますよ。
>>
>>
>>
このように、他説を嘲弄するような書き方も、いかがかと思われます。もちろん、楽しみにしている方もいるでしょうが、私は好みません。
元の発言 [ Re: Title中国人は前方後円墳を知っていたの? ] お名前 [ 大山 柳 ] 日付 [ 12月29日(土)09時54分02秒 ]
>> 「径」は円形のものを表す単位ですから、そりゃ円丘部だけですよ。
では『倭人伝』には、方形部に関する情報が一切ないということになりませんか。
>> 「中国人なら、前方部に関心を寄せるはずだ」というのが、そもそも思い込み・・・といって言葉が悪ければ、予断じゃないかなあ?
「前方部に関心を寄せる可能性が高いのでは。」と問い掛けたつもりですが、断定的な書き方があったとすれば訂正させてください。
私が提示したのは、二つの可能性(仮説)の一つであると考えています。つまり
1 前方後円墳を見た魏使は、大きな前方部に関心を示した。
2 前方後円墳を見た魏使は、大きな前方部には関心を示さなかった。
の1番のほうに理が有りませんかと。もちろんその後、1ならば報告しないでしょうかと論を引っ張ったことは認めますが、予断といわれるのは心外です。
>> もうひとつ外国人の例をあげると、明治期に来日したいわゆるお雇い外国人で、W=ゴーランドという人がいる(英国人)。この人は本業のかたわら日本の古墳に興味をもって、あちこちの古墳を調査して記録を残してるんだけど、そのなかに大阪の芝山古墳の報告がある。この古墳は前方後円墳なのに、なぜかゴーランドはこれを円墳と報告してるんだ。
>> なぜ彼が「前方部に言及しなかった」のか?今となってはその理由はわからない。ただ、彼の主な関心は、故国のドルメンと似ている横穴式石室の方にあったらしいんだ。
明治期の英国人と、三世紀の中国人との着眼点の相違について、また、その個人の趣向について推測することは難しいとは考えますが、検討すべき事例だと思います。是非出典を教えてください。
ただ、私の能力は、皆さんよりかなり劣るものらしく、こうして返信するのにも、かなりの労力を必要としており、それを調べて、考えを披露するには、相当の辛抱を覚悟していただかなくてはなりません。あらかじめ、お詫びしておきます。
>> こうしてみると、前にあげた岩戸山古墳の例もそうだけど、前方後円墳についての記録で、前方部の形状やら大きさやらをきちんと記述している例というのは、実はほとんど見当たらないんだ。だから、
>> >倭国女王・卑弥呼の墓ですよ。魏使が、それを報告しなかったとは思えないのですが。
>> という考えには同調できない。
>> 「中国人が前方後円墳について記述した記録が●例あって、そのすべてにおいて前方部の存在が報告されている。したがって魏使が、それを報告しなかったとは思えない」・・・というふうに、文献史料の裏づけがあるのなら納得するけどね。
『三国志』の「冢」の全用例中に、「径…」のみで記されているが、実は円形部と異形部分(かなりの特徴を要する)とを含む墳墓が、たった一例でも指摘できるならば、卑弥呼の墓は前方後円墳の可能性があると言えるのではないでしょうか。
>> うん。僕が考えているのは、「卑弥呼の墓は前方後円墳だったけど、魏使がそれを前方後円墳と認識しなかった」可能性だからね。
>> その考え方は正しいと思う。ただ問題は、網を絞り込む検討の方法なんだ。ある可能性を排除する根拠が「僕はこう思う」だけだったら、「僕はそうは思わない」と言い返されてそこで終わりになってしまう。
そういうつもりはないのですが、そう採られるのでしょうね。
私の申し上げているのは、常に可能性(仮説)の一方です。もう一方に比べ、可能性が高いと思いませんか、という言い方を心がけています。可能性の比較検討の連鎖が、網だと考えているのです。「僕はこう思う」の頭に「反対の説に較べれば」を、後ろに「この説の方に、より可能性が有るのでは」を付けて読んで頂きたいのですが。
もとより、批判してくださるなと申しているつもりはありません。むしろ、望んでいることです。今、このやり取りも無意味だなんて思っていません。恥をかくことで知識を得ることができるし、人に説明することで知識の定着は強固になります。私は、ただ納得したいだけであり、もっと知りたいだけなのです。
>> 卑弥呼の墓の形状について倭人伝が記す情報は「径百余歩」のみ。これは直径140m強の円形ということだよね。
>> しかし、現状では、3世紀代の直径140m強の円形墳は知られていない(3世紀に限定しなくても知られていない。日本最大の円墳は直径約100m)。じゃあ卑弥呼の墓は幻の中にしかないのだろうか?
私は、短里で記されていると考えており、「径百余歩」は30メートルぐらいの墳丘墓に比定しています。墓の規模が、権力の大きさを決定するとは思えません。前方後円墳の中にこそ、卑弥呼の幻が存在しているのだと考えます。
>> 考えられる可能性としては、1.まだ発見されていないだけ、2.後世に破壊されてしまって今は残っていない、3.径百余歩というのは誇大な表現で実はもっと小さい、4.円形墳ではなく前方後円墳の円丘部のみを表現したもの、くらいかな。1、2の可能性性は今措くとして、4の可能性を採るとすれば、候補が一つあがる。いうまでもなく箸中山(箸墓)古墳だ。ところが3の可能性を採るとするとどうだろう。径140m以下の円形墳がすべて対象にあがってくる。その数はどのくらいあるかわからないけど、この中からさらに候補を絞り込むだけの情報はもうない。卑弥呼の墓なら奴婢たちが殉葬されているはずだけど、もちろんそんな痕跡が確認された例はいまだない。
もうひとつ、短里による短歩で書かれた30メートルぐらいの墳丘墓という項目を加えていただければ、それを支持します。殉葬された奴婢たちが、どのように埋葬され、卑弥呼の墓とは、どういう位置関係で配置されたのか、いまだ一定の考えに至っていません。
>> 結局のところ、変な予断を排除して文献史料と考古学資料から卑弥呼の墓を探ろうとしても、具体的な候補名があがるのは箸墓のみ。そして、「卑弥呼の墓は前方後円墳のはずはない」というのは、網を絞り込むどころか、捕まえかけた魚を逃がして別の魚群に網を投げ込むことに等しいんだ。
九州説が全く成り立たないと決め付けておられるように見えてなりませんが、それこそが変な予断であるということになりませんか。どちらの説が、合理的かを比較するための討論であると思いますが。私から見れば、近畿説こそ全く違った魚を追いかけているように見えており、皆さんのように優秀な方たちが、ほんの一部分でも九州説を受け入れ研究されれば、一気に邪馬台国論争に決着がつくのでは、と残念でなりません。
>> だからといって、僕が「卑弥呼の墓は箸墓だ」と考えているわけじゃないよ。僕の考えは「現状では卑弥呼の墓は特定できない」だ。親魏倭王印やら、卑弥呼の墓誌やら、決定的な証拠がない限りはね。
実感として、よく理解できます。
元の発言 [ Re: Title中国人は前方後円墳を知っていたの? ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 12月30日(日)02時22分27秒 ]
>> 又、墳墓について「封土作冢」と書いてあり、葺石を被せた前方後円墳の姿は倭人伝の記述「封土作冢」にふさわしくありません。
>>
「封土作冢」をちゃんと解釈しましょう。
「(棺の上に)土をかぶせて冢を作る」でしょう。
決して大きな山を作ってその上に棺を納めるではありません。
また葺石を葺いた前方後円墳なら「封石作塚」と書かれるべきです。
他の墳墓より古墳時代の墳墓が見つかりやすいのはこの葺石のお陰で崩れ難かったからでしょう。
四隅突出墓にしても領域を石で囲ってあるのでわかりやすい。
土を盛っただけの墳墓では崩れてしまってみつからない確率の方が高いでしょう。
実際、魏の時代のの墓も見つかっていないし。
元の発言 [ Re: Title 出雲神話 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 12月30日(日)02時01分38秒 ]
>> *だから記紀神話の淵源は非常に古いか、あるいは大和の王はかなり後世まで、一地方の権威にとどまっていた。
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>> #おにりん神話学は砂上の楼閣であることがはっきりしましたね。
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
つまり箸墓、モモソ姫伝説も三世紀の話ではないという事ですね。
元の発言 [ Re: Title家畜の輸送 ] お名前 [ 馬頭鬼 ] 日付 [ 12月3日(月)17時54分58秒 ]
>> >> 4級免許で乗れる5トンのつり船ってかなり大きいけど馬なんか乗せられそうが無い。
>> >> 当時馬の体重4,5百kgを乗せ、漕ぎ手10人として約一トン乗せられるなんて船あったんかな?
>> 国立科学博物館でやっていたNHKの日本人で直径2mの刳り船が、展示されてましたね。
>> これが、何時頃の物かは、忘れましたが、
>> 少なくとも、これを元にした準構造船なら、可能じゃないかと思うんですけど?一頭くらいなら。
>> >> 当時はFRPで出来ている今の船とちがって丸木舟に板を貼り付けた準構造船てやつですからその5倍位は必要。
>> >> 船倉が出来たくらいの完全構造船じゃないと難しいんじゃないでしょうか?
>> >> 馬は通常立ったまま生活するので立った状態で輸送するコンテナみたいな物が必要です。
>> >> 確かに目隠しすれば大人しくなるけど馬を座らせる事だって難しいんじゃ?
>> >> 船の中で長時間飼葉はどうするんだろ。糞は?尿は?
>> >> 全てたったままでしかやらない物ですが。
>> >> それこそエコノミー症候群で死んじゃうかも。
>> それに、船が、中国の物だったら、十分有りうるのでは?
当時の中国の船はどの程度のものだったんでしょうね。
径2m程度の船では馬を立たせたまま海上輸送はむりですね。
準構造船といっても其の浮力は丸木舟そのものです。
同程度の現代の木造ボートより荷物はつめなかった筈です。
外洋で縦ゆれ横揺れがあった場合立ったままの馬が海に落ちる可能性はすごく高くなります。
馬にストレスを与えない為にも少々の波でもゆれない大きな排水量の船が必要です。
元の発言 [ Re: Title 出雲神話 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 12月29日(土)15時39分34秒 ]
>> そのように考える必然性がありますか?
>>
>> この元発言にはおにりんさんにはめずらしく失礼ですが
>> まったく論理論拠がありませんね、どうしたのでしょう。
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
それはそうでしょう。古い神社はいい土地にあるもんです。いわゆる交通上要地、そういうすみやすい場所は弥生人だって
住みたがるでしょう。だから集落もできる。集落が長い間継続していれば、墓地も出来霊場化するでしょう
一般的に人類文化学的に考えると、それとその神社に付帯する傍流文献が正しいかとは別物です。
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
それは共通認識です。
>>
>>
>>
おにりんさんの考え方が傍流文献(神社縁起等が記紀からバイアスがかかっているという一方向だけと思われているのがおかしいと僕は言っている訳です。
天武朝に各国造に風土記を提出させたという意味は
記紀を中心に神話体系を整えるとい意味合いは濃い。
つまり傍流文献が(僕はこれらを100%正しいと言ってる訳ではない。)記紀にかなりな影響を与えている筈。
影響度合いは記紀成立時期の頃傍流文献か記紀へと影響が大きい
その後記紀完成後(要するに神話の政治化完了した後全国の神話が皇室神を中心に体系付けが終わって記紀は非常に強い影響力を傍流文献に及ぼしてきつづけて(度会氏の伊勢神道の体系化(千年間以上)それを現代の我々が侃侃諤諤の論争しているということです。
原初の歴史の姿を思い致す場合両方の影響ベクトルを留意しつつする必要がある。
長くなったから結論をば
出雲国風土記や神社縁起を全面否定する論調に
同意しかねます。
「勿論僕は基本的に
邪馬台国畿内説
前方後円墳体制が確立期(=邪馬台国が大和政権の萌芽)を取りますが」
12月25日発売。
と、いうことで、最新の研究成果が詰まっているかと思いましたが、内容的には、目新しい部分はなく、がっかりです。
また、シンポジウム自体、問題が多い。
考古学の分野と、文献の部門にわかれていて、考古学パートでは、樋口氏・福永氏・奥野正男氏・高倉忠平氏がそれぞれの小論文発表と、共同でのディスカッションをおこなっているのですが、はっきりいって、議論に不案内な読者が読んだら、さっぱりわからないでしょう。
せめて、なぜ最近畿内説が有力となったのか、それに対して、九州説はどう反論するのかを載せないと、意味が無い。
古墳の年代が繰り上がったことを、まるで説明していないんですね。
基本的な年代観や、土台の部分を確認しないまま、やたら、各論を進めても、全然かみあわないわけです。
奥野氏が、平原と、畿内古墳がつながるから、邪馬台国の東遷はどうかといっているのにたいして(奥野氏の年代観もまたよくわからないです。鏡を副葬する庄内併行墳墓のリストに、ホケノ山をいれていないし)、樋口氏は、「甕棺が畿内に伝わっていないから」とか、いっているんですね。
ちなみに、奥野氏・高倉氏が九州説なのですが、その論拠というのが、例の、キホウ鏡や、ヒキン鏡、位至三公鏡の類が、九州中心に分布するということのようです。
あと、邪馬台国時代はまだ、部族国家の段階で、広域王国は誕生していないからとか。
吉野ヶ里について、ちょっとよくわからない議論がありました。
なんでも高倉氏によると、邪馬台国時代に吉野ヶ里が消滅していたというのはデマで、弥生後期後半(三世紀前半)の時代に、吉野ヶ里は極盛期をむかえ、その後、急速に衰退するというのですが、どうなのでしょう?
元の発言 [ Re: Title中国人は前方後円墳を知っていたの? ] お名前 [ 大山 柳 ] 日付 [ 12月29日(土)09時54分02秒 ]
>> 卑弥呼の墓の形状について倭人伝が記す情報は「径百余歩」のみ。これは直径140m強の円形ということだよね。
>> しかし、現状では、3世紀代の直径140m強の円形墳は知られていない(3世紀に限定しなくても知られていない。日本最大の円墳は直径約100m)。じゃあ卑弥呼の墓は幻の中にしかないのだろうか?
宇佐の亀山じゃ駄目ですか?
元の発言 [ Title 出雲神話 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 12月29日(土)03時16分10秒 ]
おにさん。こんち!
>>
>>
神祇令においても分かりますし、出雲国神賀詞においてもそうです。ヤマトには出雲系の神が多くありますね.
>>
>>
>>
>>
>>
日神信仰は6世紀になると発達したのは認めます。ですが、伊勢神宮の創始をいつにするのか?問題点が残りましょう。
オホナムチにしても、6世紀ごろの農耕神であろうとか
の理由がわかりません。農耕神なら、天照大神で十分ですが。
>>
>>
>>
>>
>>
>>
そういうことを言っている人は文献史学者にいます。ただ、どちらかと言えば、考古学者のアプローチが多いかと思います。
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
隼人の神話については、というか全般的に神話+人代は、神祇令の反映と取ります。
私の最近の考えでは、天皇の権威付けのため、律令を作成し、その言われを明らかにするため、記紀を作成した。その出来事は、クロスするのは当然ではないかと思います。
神話・説話を時系列に論じるのは、限界があるかと思います。
大筋を認めても肉と筋の仕訳作業が大変かと思います。
筋は縦軸とすれば、肉は横軸、その検証が必要ですね。
あーあ、こんなこというと面倒です。
元の発言 [ Re: 弥生の日本語 ] お名前 [ 馬頭鬼 ] 日付 [ 12月29日(土)11時10分34秒 ]
>> >> ピジン語の場合、母音や文法などは非常に単純化するという法則もあり、日本語の特徴(母音が少ない)と一致しています。
>> >> 文法は結構複雑な気はするのですがクレオールとして定着した後で変化したのかもしれません。
>> >> >> 其れとも、かなりのバイリンガル的な人々であったかも。
>> >> ピジン語の発生段階では母語はそれぞれの出身地の言語を持っている訳ですがこれをバイリンガルと言えるかどうか。
>> 成るほどね、納得です。
>> ですが、良く考えてみると。
>> 長江より南の辺りは、少数民族の生活場所でしたね。
>> 言葉も山ほどあるようですね。
>> 其処からも多く居入ってきていることは、判ってますし。
>> とすると、3つなんて数の言葉じゃすみませんね。
>> 実際。
おにりんさんを差し置いて私がこんな事を話すのもこそばゆいですが。
4つであれ5つであれピジンというのはお互いに言葉の通じない部族がいくつか一緒になった時、何とか会話をする為に生み出された言語です。
生活に必須の数種類の単語やから始まり、だんだん言葉の種類も増えてそれが定着してしまったものをクレオールと言うらしいです。
確か前におにりんさんが英語もクレオールだとか言っていたような気がします。
確かにラテン語やドイツ語に比べて英語は単純になっている。
ハワイといい、イギリスと言い、日本といい、考えてみると大陸から離れた場所で発生しやすいようですね。
スイスなどは同じ国なのに3つの言語が混じらず存在し続けています。
ピジン語が一時的に発生しても母国が近くにあり自由に行き来できる場合、クレオールにまでなることは少ないようです。
元の発言 [ Re: Title弥生の日本語 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 12月30日(日)02時49分45秒 ]
>>
>>
>>
>>
>>
山田氏の研究は単にその地名がアイヌ語に似た語彙があるというだけでなく。
実際に現地に行って、アイヌ語で考えた場合にその地形が実際に意味が合うことを確認している。
>>
>>
>>
>>
アイヌ地名はそんなに新しいでしょうか。
江戸時代には下北や津軽の北端にしか、いわゆる"てき"村は無かった。
中世でも藤原氏の平泉あたりはすっかり和人化している。
それ以前でも、安部、清原氏ももうアイヌ語をあらためて地名に使うこようなことは無かったのでは。
逆に北上盆地あたりには、坂上田村麻呂の時代から、それ以南には8世紀から、和人の入植が多く、かえって関東系の知名だの文化だのの影響が強くなる。
また山田氏調査のアイヌ地名の分布地域と、後北C2-D式や北大式の、
弥生後期後半から古墳時代前期にかけての北方式土器の分布がほぼ一致するということも見逃せません。
私には江戸時代まで下がるとは思えませんが。
今年の暮れは塩野七生の全ての道はローマに通ずを読んでいます。
ローマ人の物語の第十巻目で、この人はちょっと歴史上の人物にミーハーなところがあるのではないかと思いつつも、作者の術中にはまって読んでいます。
面白いということは、普通の生活者にとっては、本を読むうえでとても助かることです。
とはいえ内容的にいろいろ勉強になることが多く、一章毎に色々考えさせられるました。
この本はローマのインフラについて特別に一冊の本に表したもので、ローマ史に限らず、技術文化史の観点から興味が持てるものです。
元の発言 [ Re: Title 出雲神話 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 12月30日(日)02時01分38秒 ]
私はこの件に関してはたいして自分の意見を持っていません。単純におにりんさんの発言を論理操作しただけです。おにりんさんの議論を逆から見れば正しい結論が見えているのではありませんか、ということです。
>>
>>
#記紀神話が6世紀ごろ作られた、という仮定が誤っているという可能性はまったく検討しないのですね。
>>
>>
#古田武彦は以下のような趣旨を述べています。
*出雲の国家起源神話(お国引き)は綱と杭の時代だ。記紀の国家起源神話(矛からしずく;古田によれば九州の神話)は青銅器の時代だ。どちらが古いかは論ずるまでもない。
#私はこういう議論には説得力を感じます。弥生どころか、縄文かもしれない。きっちり反論してください。
>>
#もちろん、出雲王朝最後の王である大国主は、剣の時代です。しかし・・・6世紀ってどんな根拠があるのか、神話学についてな〜んにも知らない私に説明してくださるとうれしい。
元の発言 [ Re: Title 謎とき 日本合戦史 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 12月12日(水)11時43分12秒 ]
>> 中世の様式化した、しばしば身代金目的の戦闘と違って、古代の戦闘はほとんど部族皆殺しの場合があるので、接近戦もあったはずです。
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
なかなか難しいことです。
古代における共同体、近代の国民国家のように、戦いに公の概念が生きていると、消耗戦が可能かもしれません。
中世は一概に言えませんが、個々人の私利私欲で戦っているところがあります。
ここらへんは、古代とか中世とかの区分の見直しも必要でしょうが。
私の場合には、かなり個人的な基準があります。
>> ハンニバル戦争なんかでも、カンナエなどではローマ軍は壊滅している。(8万中戦死5万)
>> トレイブルク森やアドリアノープルでも。
>>
>>
カンナエではそうですが、そのまえのアルプス越えでかなりの損害を出しているようです。
カンナエではローマの密集した重装歩兵を少ない兵力で包囲し、武器を使うのもまま成らないほど混乱し密集した敵を、周辺から殺戮したとされているようです。
>> 白兵戦の場合でも、武装したあいてに致命傷を負わすのは難しく、結局敗走中の事故、餓死などが多くなる。
>>
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>>
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>>
>>
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>>
>>
戦争での死者は想像以上に、餓死、乾き死に、病死の類が多いのではないでしょうか。
軍隊が組織を保っていれば、兵站もあり、ある程度の地理の分かった案内もあるわけですが、敗軍となると人間としての生存基盤を失うこともある。
また戦場でも圧死、水死、転落死などがかなりでる。
密集隊形の歩兵が恐慌状態になると、多数の圧死者がでる。
戦場の中央に小山のように盛り上がったなどという話を見ました。
>> また戦国の開けた場所での合戦は2回だけとのことですが、戦国の決戦は基本的に後詰決戦であるので、これは当然です。
>> 後詰決戦も間違いなく合戦であることに変わりありません。
>>
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>>
>>
>>
>>
>>
>>
一方の拠点を他方の主力が襲う、これに襲われた方の主力が後詰に駆けつけて起こるのが、後詰決戦です。
この場合両方の主力が敵を探してうろうろすることが無く、効率的に決戦になる。
にらみ合いで終わることもありますが。
元の発言 [ Re: Title 出雲神話 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 12月30日(日)02時01分38秒 ]
神代下の天孫降臨の条(天忍穂耳命の降臨中止譚)に,
高皇産霊神派と大己貴神派・大物主神派との交渉が記されており,
卑弥呼問題を探る上でも興味深いです。
以下,
岩波文庫版日本書紀(一)の第137頁以降辺りで重要。
一書第二として,
高皇産霊神が大己貴神に与えた勅があり,
皇孫に現世の政治を任せ,
大己貴神には神事を任せ,
天穂日命に大己貴神の祭祀を任せる。
(天穂日命の子の武日照命が出雲国造の祖)
# つまり出雲国造は天孫派ってことに。
こうして,経津主神らによる葦原中国平定が進むが,
逆らわずに帰順した酋長が,
大物主神と事代主神であり,
自ら八十万の神を率いて天に挨拶に出向く。
そこで,高皇産霊神は大物主神に娘三穂津姫を与え,
大物主神に皇孫の守護を命じ,
葦原中国経営に向けて陣営を固める。
# というわけで,早々と政略婚型の提携。
# 崇神紀の倭迹迹日百襲姫命の伝承も,
# 卑弥呼問題と絡める場合は特に,
# この辺りを調べておく必要があるでしょう。
さて,こうして,天忍穂耳命の降臨準備が整ったが,
伝承は何故か,
子の天津彦火瓊瓊杵尊が日向に降臨と変わる・・・。
この一書第二には,悪神として,
天津甕星(あまつみかほし)
またの名は天香香背男(あまのかかせを)が登場,
これぞ卑弥弓呼と狗古智卑狗を連想させる,
って有名なやつですね。
元の発言 [ Re: Title家畜の輸送 ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 12月3日(月)22時39分59秒 ]
>> >> それに、船が、中国の物だったら、十分有りうるのでは?
>> 当時の中国の船はどの程度のものだったんでしょうね。
高句麗王宮から送られた馬100頭を、船が小さかったので馬80頭だけ乗せて安平から呉に帰ったという記録があります。
元の発言 [ Re: Title家畜の輸送 ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 12月3日(月)23時41分31秒 ]
>> >> >> それに、船が、中国の物だったら、十分有りうるのでは?
>> >> 当時の中国の船はどの程度のものだったんでしょうね。
>> 高句麗王宮から送られた馬100頭を、船が小さかったので馬80頭だけ乗せて安平から呉に帰ったという記録があります。
貴重なお話をありがとうございます。
すると、中国の船なら充分に対馬海峡を渡れることになりますね。
また準構造船でも、一統ぐらいの馬の輸送は、可能でしょう。
おだやかな、対馬海峡であるなら。
と言う事は、日本に馬が送られていても不思議はないことになります。
間の時代であってもです。
牛馬無しとは、完全に矛盾しますね。
元の発言 [ Re: 弥生の日本語 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 12月31日(月)03時24分11秒 ]
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>> 4つであれ5つであれピジンというのはお互いに言葉の通じない部族がいくつか一緒になった時、何とか会話をする為に生み出された言語です。
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>> 生活に必須の数種類の単語やから始まり、だんだん言葉の種類も増えてそれが定着してしまったものをクレオールと言うらしいです。
>>
言語学の権威のおにりんさんから見ればおかしいかもしれませんが素人の知識として極端な間違いではないんじゃないですか?
>>
>>
>>
弥生時代には日本語はクレオール度30だったかもしれませんね。
>>
>>
>>
>>
>> ハワイといい、イギリスと言い、日本といい、考えてみると大陸から離れた場所で発生しやすいようですね。
>>
>> スイスなどは同じ国なのに3つの言語が混じらず存在し続けています。
>>
>> ピジン語が一時的に発生しても母国が近くにあり自由に行き来できる場合、クレオールにまでなることは少ないようです。
>>
>>
>>
>>
その辺りもう少し詳しく教えて下さい。
元の発言 [ Re: Title 出雲神話 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 12月31日(月)03時39分27秒 ]
>>
>>
>>
しょうしょう子じみているかもしれませんが、箸墓のように集落の真中にある目に付くモニュメントというのは、伝承を伝える働きがあるかもしれません。
こどもがあれはなーに、と聞くと親は知る限りの知識で答える。
これが代代繰り返されていくと、物語の内の印象的な部分だけでも伝わるかも。
そこにいろいろな後世の話や空想がくっついて伝説化する。
途中で話のうまい人の造った話なんかもくっついて。
元の発言 [ Re: Title中国人は前方後円墳を知っていたの? ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 12月30日(日)02時37分23秒 ]
>>
>>
>>
丘陵上に前方後方墳が四基発見されていることは何度も記しましたが無視ですか。
今年発見されたものは、全長約40m。
元の発言 [ Re: Title:「シンポジウム 邪馬台国が見えた」学生社 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 12月31日(月)03時00分55秒 ]
>>
>>
>>
ここでも、何度も記した「環濠内からの庄内式土器出土」は無視ですか。
元の発言 [ Re: 「封土作冢」 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 12月31日(月)03時26分40秒 ]
>> 実際、魏の時代のの墓も見つかっていないし。
>>
>>
そうですネ。
大規模に調査された吉野ヶ里でも、今年になって最大の「前方後方墳」が発見された。
大牟田の「黒崎観世音塚古墳」は全長100mだけど、平成6年まで古墳であることすら分かっていなかった。
元の発言 [ Re: Title:「シンポジウム 邪馬台国が見えた」学生社 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 12月31日(月)03時00分55秒 ]
>> なんでも高倉氏によると、邪馬台国時代に吉野ヶ里が消滅していたというのはデマで、弥生後期後半(三世紀前半)の時代に、吉野ヶ里は極盛期をむかえ、その後、急速に衰退するというのですが、どうなのでしょう?
>>
>>
>>
>>
>>
>>
#そのへんがよくわからないんですね。
#福永氏その他の議論によると、年代の見直しは、20、30年前から、九州編年で先行して始まったということなんですよね。
#しかも、畿内と九州の編年のすごいズレが、この20、30年間あったことになるのですが、そのあたりの経緯の説明が、一般にはあまりなされず、誤解を招いているようなのですが?
#結局、最近の議論というのは、「邪馬台国はみえていた」ということになるのでしょう?
元の発言 [ Re: Title 出雲神話 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 12月31日(月)14時22分51秒 ]
>>
>>
>>
>>
墓守がいたんじゃなかったでしたか?
元の発言 [ Re: Title家畜の輸送 ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 12月3日(月)23時41分31秒 ]
>> >> >> それに、船が、中国の物だったら、十分有りうるのでは?
>> >> 当時の中国の船はどの程度のものだったんでしょうね。
>> 高句麗王宮から送られた馬100頭を、船が小さかったので馬80頭だけ乗せて安平から呉に帰ったという記録があります。
出典は何でしょう?
高句麗は当時海に面していなかったはずですが。安平は公孫氏の領域。
ひょっとして後に広開土王が朝鮮半島の北全部を掌握した頃の話では?
其の頃は呉は宋か。
元の発言 [ Re: 三月の記事の可能性もある? ] お名前 [ マルセ ] 日付 [ 12月28日(金)21時00分35秒 ]
マルセさん いろいろと有り難うございました。
それでは 良いお年を。
元の発言 [ Re: Title弥生の日本語 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 12月31日(月)03時10分15秒 ]
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
東北も朝廷の権威が及ぶ前から、稲作適地には農民が進出していたようです。
8世紀以降大規模な殖民が進み、稲作適地の平野部から新しい和語地名が進出していったからではないでしょうか。
いわゆる蝦夷(エミシ)でも、田夷と山夷がいたといいますし、これが民族/言語的なものと関係するのか。
そもそもエミシ、時代が下ってエゾ、アイヌと、どういう風に民族形成されていったのか、お互いの関係はどうなのか、それほど明白ではない。
ただアイヌ地名は北大式時代のエミシや擦文期のエゾなどが、後のアイヌと関係がある根拠とすることがある。
>>
>>
>>
時代的にはアイヌはまだ成立していませんから、蝦夷(エゾ)系としておきましょう。
俘囚長とはいえかなり和人の血が入っていたかも。
政治的には奥六群は一応律令の範囲内。
アテルイ、イサシコ、モレなどの名前に対して安倍頼良、安倍頼時などの名前は日本的ですから。
>>
>>
>>
>>
違わないんじゃないですか。
>>
>>
>>
>>
>>
>>
どんな風になっているべきだと思われますか。
巣伏村の比定地近くに、アトロイなどの地名があると、いろいろ考えてしまいますが。
それと、おにりんさんが、アイヌと日本語の別系統を言われるのは、膠着語、非膠着語の違いをもとにされているのですか?
縄文時代、沖縄から北海道までが縄文文化圏で、二系統の言語があったとすると、縄文文化圏というのはもともとニ系統の言語をもっていたのでしょうか。
北海道には有力な外部からの侵略の形跡は、室町/江戸時代になるまでないようですが。
北海道の擦文文化が、オホーツク文化などを吸収して成立したのがアイヌ文化と思っていました。
元の発言 [ Re: Title中国人は前方後円墳を知っていたの? ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 12月31日(月)02時18分27秒 ]
>>
>>
>>
方形部は、円形部に繋がっていますよね。だから、別って言うことはないんじゃないですか。
>>
>>
>>
>>
上と論理矛盾していることがお解りでしょうか。それにヨーロッパ人と中国人とを等間視できる根拠はなんでしょう。
>>
>>
>>
>>
箸墓と、仁徳天皇陵の築造時期に、どのくらいの年月の幅があるか、おにりんさんならご存知ですよね。仁徳天皇陵と三世紀の卑弥呼の墓に、一体何の意味付けを見出そうとされているのですか。世界最大クラスの墓が、卑弥呼の墓である根拠はなんでしょう。それを誇り高き中国の天子が容認するものでしょうか。私が申し上げているのは、そのような根拠は、『倭人伝』からは読み取れないということですよ。
>>
>>
>>
>>
「よって、まともに1.5メートルの歩で考えるしかないし、そのときには、しっかりと、箸墓というものがあるのです。」これは、前回のおにりんさんの回答です。ですから、「おにりんさんは、「径百余歩」は後円部のことと理解されるのでしょう」と申し上げたつもりですが、なぜ理解されないのでしょう。文献学的に見て、「径百余歩」から箸墓をひねり出すほうが不自然と思いますが。
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
そういう時期もありましたし、今でも無知で不勉強なのは否定しませんよ。しかし、それがなぜ、恥ずかしいのでしょう。小学生が連立方程式を知らないからといって、「おまえは、無知で、恥さらしで、トンデモで、基地外だ。」などと、マジで言えるとお考えですか。私は、ただ知りたいだけであり、不明な点を質したいだけです。その姿勢のどこが非難されなければならないのでしょう。そこのとこおわかりですか。
>>
>>
>>
>>
>>
>>
古くから議論している人たちの間で、何らかの共通認識が生まれましたか。何らかの新しい説が生まれましたか。邪馬台国論争に決着がつきましたか。それが不思議でたまらないのですよ、私のような素人には。素人の発言をさえぎるのなら、学会で討論されたらいかがですか。それに、このサイトの意味がなくなるのではないでしょうか。
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
ですから、しつこくお聞きしているのです。私のような薄学の素人に、貴方のように博学で聡明な専門化が、納得のいく論理的な説明が出来ないわけがないでしょう。百冊の本を要約して百字ぐらいにするのはお手の物でしょう。できれば、やさしく。
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
平井進氏の『周制の里』を読ませていただきました。尺・歩・里が連動する長さの単位であると読み取れますし、中国や、日本の古代の史書にも短里使用の証拠が有るやに書かれていると理解します。どこに、魏では一里420メートルに決まっていると書かれてあるのか判りませんでした。指摘していただきたいです。でも、楽しいです。
>>
>>
>>
ですから、短里説は否定できないと考えます。現に、平井氏は、本家中国に短里使用の痕跡を指摘しているではありませんか。おにりんさんに、中国の学者全ての考えを把握できるほどの人脈があるとは知りませんでした。さすがですね。
>>
>>
>>
>>
>>
一里が唐代から、あまり変わっていないのは知っていました。だからといって、それ以前に適用できるとは思えません。現代の地図をして、平安時代の地図に充てることの不当は、お解りでしょう。
>>
>>
>>
>>
ですから、近畿説なら、私を説き伏せてください、証拠を見せて。
1)『三国志』の中で「径…」と記された墓で、円墳に特徴ある異形部分を含む墓を見つけること。
2)『倭人伝』の里程を、長里説で、見事に畿内に呼び込むこと。
これだけで結構ですけど。
>>
>>
>>
『倭人伝』を読み直されたらいかがですか。近畿説の幻が消えると良いですね。
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
ですから、私がうなるような長里説で、説明してください。いまだ定まらない土器編年に暗いことは認めます。是非、ご教授ください。
>>
言っておきますが、私は素人です。よくわかるように説明してくださると助かります。出来れば茶化さずに。
元の発言 [ Re: 倭姫命世記(Re: 弥生後期の「伊勢遺跡」) ] お名前 [ ちょっと一服 ] 日付 [ 12月10日(月)12時18分57秒 ]
>> 東海というと,関根氏御紹介のNHKの番組では,
>> その後,東海,山陰等,各地から,
>> 弥生人が纏向に集まった,
>> というようなことへ,
>> 唐突に導いていましたが,
>> 弥生っぽい土器をドアップしていた辺りが,
>> 中国系の末裔による連携を匂わせる,
>> という設定なのかな?
>> 当然,邪馬台国問題の所在を示唆しているのでは?
>> 言葉についての探求はなし。
解毒です。
再放送のを見直したら,
渡来系と縄文系の混血で,
混血度と文化も様々な各地の日本人の祖先が,
畿内に集まった,
という印象に重点を置いた構成らしいです。
# 続きは関根氏からの返信を見て,
# とか待っていたんじゃが。
元の発言 [ Re: Title:「シンポジウム 邪馬台国が見えた」学生社 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 12月31日(月)14時34分07秒 ]
>> ここでも、何度も記した「環濠内からの庄内式土器出土」は無視ですか。
>>
?「だとすると」????
「無視すると」と言うことですか、「出土しているとすると」ですか。
後者であれば、
>>
>>
>>
>>
そうです。
そして、
「弥生後期後半(三世紀前半)の時代に、吉野ヶ里は極盛期をむかえ、その後、急速に衰退する」
ってことです。
1999年に発見された第三環濠の内側部分にある「市場」からは古墳時代の竪穴建物や「市楼」が発見されていることもお忘れなく。
調査はまだ全体の50%未満です。
元の発言 [ Re: Title:「シンポジウム 邪馬台国が見えた」学生社 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 12月31日(月)14時31分55秒 ]
>> #しかも、畿内と九州の編年のすごいズレが、この20、30年間あったことになるのですが、そのあたりの経緯の説明が、一般にはあまりなされず、誤解を招いているようなのですが?
>>
>>
そのことを以前から問題としていたのも九州の学者。
>>
>>
>>
>>
>>
例えば八女のどれほどが調査されているとお思いか。
九州自動車道の幅内だけですよ。
調査された場所自体がごく一部です。
>>
佐賀県で発見されている「前方後方墳」は五基、その内四基が吉野ヶ里丘陵上にある。
これで全てか?
周りには「前方後円墳」があるのになぜ?
百冊読んでも分かりませんか。
#調査報告書や地図(地形図)を読んで出来れば現地を訪れないで、
#著作ばっかり読んでると人の解釈だけを知る事になる。「学びて思わざれば即ち・・・・」
元の発言 [ Re: Title中国人は前方後円墳を知っていたの? ] お名前 [ 寝太郎 ] 日付 [ 12月31日(月)15時50分24秒 ]
>> ですから、近畿説なら、
畿内説派の論客というと,白石太一郎氏でしょう。
九州勢の東遷説ではなく,畿内勢が凌駕した,
箸墓が卑弥呼の墓である可能性もある,
という点で,おにりんさんの考え方に近いみたい。
以下の論で,九州勢の東遷説を否定しています。
弥生時代から古墳時代へ−日本列島の文明化をめぐって−
/白石太一郎(国立歴史民俗博物館考古研究部)
http://www.rekihaku.ac.jp/kenkyuu/shinpo/siraisi.html
古墳時代に関する歴史研究の紹介/古墳とヤマト政権/古代国家はいかに形成されたか
/白石太一郎/文藝春秋
http://www.ywad.com/books/445.html
今年も終わりですね。来たる新年も皆さん宜しくお願いいたします。
元の発言 [ Re: Title家畜の輸送 ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 12月4日(火)06時58分31秒 ]
>> 出典は何でしょう?
#呉書呉主伝嘉禾二(233)年条です。
安平口は鴨緑江河口近く、現在の丹東付近です。ここから遼東半島をつたい、山東半島まで渤海湾を横切ったものと思われます。
元の発言 [ Re: Title 出雲神話 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 12月31日(月)02時56分25秒 ]
>>
>>
>>
>>
>>
>>
#出雲は、隠岐の黒曜石に支えられた文明です。石器時代に淵源をもつのは、それこそ論ずるまでもない。そして、最後の王である大国主は剣の時代。なが〜い歴史があることに疑問はありませんが。
元の発言 [ 白石説(畿内説派) ] お名前 [ ちょっと一服 ] 日付 [ 12月31日(月)22時03分22秒 ]
ありがとうございます。勉強させていただきます。
よいお年を。
元の発言 [ Re: Titleわが国最古、奈良・箸墓古墳周濠跡から木製馬具出土 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 12月3日(月)11時31分46秒 ]
>>
>>
>>
>>
そうなんですか?
布留0式を認めないということは、布留0式並行期は無く、庄内新式並行期であって、
布留1式期が遡るのではないのでは。
“0式期”と言うのは他の形式と重なっている“出現期”と言う意味だと思います。
当たり前だけど、庄内式単純期や布留式単純期は無いってことでしょう。
色々と疑問を感じたので、プロの研師の方のサイトの掲示板で疑問点を
質問してみました。
それによると、脇差の名がついたのは室町時代というのは正確ではな
く、二尺未満の刀を差し添えにしたのは室町後期だが、この時代に脇
差と呼ばれていたかどうかは不明。
それ以前は短刀を差し添えにしていて、二尺未満の太刀もあったが、
脇差と必ずしも同じ用途ではない。
銘鑑に載っていない無名の刀鍛冶は存在したことは確かで、鉄砲鍛冶
に転職した謎の刀鍛冶の存在が確認されている。
一般の兵士が鎌倉時代の刀を使った事は、可能性は十分ある。
しかし、一部の例外的な存在であり、その刀は昔の数打であろう。
刀が3〜5人斬ったら斬れなくなるという事はない。
第二次大戦中に白兵戦で八人斬った人がいるが、戦闘不能になったの
は切れ味が落ちた為ではなく、体力を使い果たした為。
数打が不良品というのは間違い。
数打は鍛え割れが目だったりするが、美術的な問題であり実用的には
問題ない。
人を斬った刀は駄目になるという事はない。
打ちこみ傷のある刀はよくあるが、駄目になっているようにはみえな
い(実際そういう刀を使用して試し斬りする人がいます)。
井伊家の軍史によると、足軽は長寸の脇差を帯び、又は鑓に結び付け
て出陣したという記録があり、大刀、太刀の類は身分のある人の物だ
った(私は足軽でも、大刀を差すことはあったのではないかと思います
が、基本的には足軽の武器ではないのでしょう)。
元の発言 [ Re: Title家畜の輸送 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 12月4日(火)23時45分31秒 ]
>>
>>
>>
>>
>>
其れも、有得ますけど
なんか辺ですね。
>>
>>
>>
そんな冗談は、よしましょう。
ご存知のはずですよ。
乗馬姿勢を、安定させるための物だって事。
でも、本当に、居たのか、いなかったのか。
意図国には駐在官も居たぐらいですから、
居た事を隠すのは無理でしょうし、
近畿には居なくても、マツロ辺りでは、いてもおかしく無いですよね。
この辺りの人は、よく朝鮮に渡ってたはずだから、
当然乗馬するのを見た人が多数居ても、おかしくない。
当然、其れを知っていれば、欲しがるでしょうし。
持つ事は、特に権威になると思いますしね。
また、半島側としても、よしみを結ぶのには、最高の贈り物になるでしょうし。
居たとしたら、重要な軍事情報だから、報告されないはずも無いし。
其れなら何故、そんなでたらめが書かれたのか、が重要ですね。
元の発言 [ Re: Title家畜の輸送 ] お名前 [ 馬頭鬼 ] 日付 [ 12月5日(水)00時07分14秒 ]
失礼、同も誤字脱字が多過ぎますね。
お詫びします。
>> >> まあ、もっとも、鐙だけなら、鏡を割って穴とおして、で
>> >> ペンダントにして喜んでいた近畿の人たちですから、その
>> >> 意味では、ペンダントにしていたのかもしれませんな。
>> >> たとえば、中国行った人がもらってきたとか。
>> >> #それも、使い古しのやつを、、、。
>> 其れも、有得ますけど
>> なんか辺ですね。
なんか変ですね。
>> >> ところで、「鐙」は、「あぶみ」ですが、金とかいて登と
>> >> 書くので、そもそも、「馬の背中に登る」ためのものでしょう
>> >> ね。発音もそういうことになるのだし。
>> そんな冗談は、よしましょう。
>> ご存知のはずですよ。
>> 乗馬姿勢を、安定させるための物だって事。
>> でも、本当に、居たのか、いなかったのか。
>> 意図国には駐在官も居たぐらいですから、
伊都国でしたね。
>> 居た事を隠すのは無理でしょうし、
>> 近畿には居なくても、マツロ辺りでは、いてもおかしく無いですよね。
>> この辺りの人は、よく朝鮮に渡ってたはずだから、
>> 当然乗馬するのを見た人が多数居ても、おかしくない。
>> 当然、其れを知っていれば、欲しがるでしょうし。
>> 持つ事は、特に権威になると思いますしね。
>> また、半島側としても、よしみを結ぶのには、最高の贈り物になるでしょうし。
>> 居たとしたら、重要な軍事情報だから、報告されないはずも無いし。
>> 其れなら何故、そんなでたらめが書かれたのか、が重要ですね。
元の発言 [ Re: Title家畜の輸送 ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 12月4日(火)19時10分28秒 ]
>> >> 出典は何でしょう?
>> #呉書呉主伝嘉禾二(233)年条です。
>> 安平口は鴨緑江河口近く、現在の丹東付近です。ここから遼東半島をつたい、山東半島まで渤海湾を横切ったものと思われます。
どうも有難う御座います。
ということは当時公孫氏と高句麗の関係は良好だったのですね。
渤海海峡?なら小さな島がたくさんあって波も小さかったでしょう。
考えてみると波や海流さえなければ大きな筏のような物でも馬を運べた可能性は無くも無いかな?
が、しかし山東半島といえば魏の領域。
233年は孫権が皇帝を名乗った後で魏と呉の関係は最悪。
見つからないように馬を運ぶのは大変だったでしょうね。
80頭もの馬を乗せる巨大船ですし、山東半島からは7,800km陸行でしょう?
にわかには信じがたい記述ですね。
元の発言 [ Re: Titleわが国最古、奈良・箸墓古墳周濠跡から木製馬具出土 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 12月4日(火)23時07分24秒 ]
土器って不思議ですね。
この夏、唐津市の菜畑遺跡を尋ねたとき、
丁度、マツロ館で土器の焼成をやっていたので、
質問したのですが、まだ判っていないと言われた事があります。
この遺跡から出た土器の土は、どの辺から採掘されたものですかと。
ご存知の通り、唐津は、焼き物の町で良い粘土を、産出します。
で、もしやと考え尋ねてみたんです。
同じように、平原遺跡の近くの考古館でも、同じように聞いてみました。
答えは、不明でした。
秋になって、ホームページで、瓶棺や其のたの焼成実験の記事があり、
現代でも槌を選ぶ事がわかると、なお不思議です。
其の時代の職人も粘土を選び、配合して作ったのではないかと思います。
では、其の粘土は、何処のものだったのでしょう。
其れとも、すぐ手に入るような粘土で、其のまま簡単な、工夫で、あんな立派な土器を焼き上げる事が、出来たのでしょうか?
元の発言 [ Re: Title家畜の輸送 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 12月5日(水)00時42分08秒 ]
>> そんな冗談は、よしましょう。
>> ご存知のはずですよ。
>> 乗馬姿勢を、安定させるための物だって事。
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
それは、騎乗するときに便利だからついた名前名も知れませんけどね。
実際これで、騎馬技術の大変な簡易化、じゃない普及道具としては、
革命的な代物だったわけでしょ。
これが、出来たために、其れ以前ほど乗馬が難しくなくなったって事ですから。
>> 居たとしたら、重要な軍事情報だから、報告されないはずも無いし。
>>
>>
>>
>>
>>
>> 其れなら何故、そんなでたらめが書かれたのか、が重要ですね。
>>
>>
>>
>>
>>
>>
ユーモアも結構ですけど、この時代の馬と言ったら、
現代の戦車やミサイルと同じような意味になりますよ。
いっしょにするなど、おかしいじゃ有りませんか。
中南米の例のように、馬を知っているのと知らないのでは、
戦のとき、大変な違いでしょうに。
元の発言 [ Re: Titleわが国最古、奈良・箸墓古墳周濠跡から木製馬具出土 ] お名前 [ オヤジッチ ] 日付 [ 12月1日(土)21時18分00秒 ]
>> >> と言う事は箸墓が卑弥呼の墓である可能性は完全になくなった事になります。
>> 落葉が二十〜三十年堆積した層から大量の土器と一緒にでたそうで、環濠の底だったか浮いていたかは記事にありませんが、
>> やはり、「土師墓」だったのでしょう。
「輪鐙は、長さ16・3センチ、幅2・7―10センチ、厚さ1・6センチのカシ材で、後円部南東側の周濠跡の底近くから出土した。足を入れる輪の部分が欠けていたが、大阪府四条畷(しじょうなわて)市の蔀屋(しとみや)北遺跡で出土した木製輪鐙(5世紀後半)に類似していたことから、輪鐙と判断された。」
底 のほうから出たと言う訳で勝山の木片とは違って築造から年代を経ずに投棄された、または流入したと考えていいと思います。
鐙は西晋の発明ですから265年以降になる訳で、現実には馬を持たない日本に発明後直ちに入ってくる事は無いと考えられ、
300年以降のものと考えるのが妥当かと。
この鐙は輪の部分が欠けており、どうやらかなり使い込んだ後、壊れた為捨てられたのではないかとも推測されます。
元の発言 [ Re: Title家畜の輸送 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 12月5日(水)08時46分39秒 ]
>> それは、騎乗するときに便利だからついた名前名も知れませんけどね。
>>
>>
>>
でも、もし字の通りのなり行きで発明された物なら、
鞍にあがるための、足掛けとして鞍に付けた所、乗馬するのに非常に具合良かった。
ゆえに広まった。問いう所でしょうか?
>> ユーモアも結構ですけど、この時代の馬と言ったら、
>>
>> 現代の戦車やミサイルと同じような意味になりますよ。
>> いっしょにするなど、おかしいじゃ有りませんか。
>>
>>
>>
>>
>>
ですが、やはり大きな疑問が残ります。
対馬や壱岐、マツラ、伊都、ナ国辺りで馬とその効用を知るもがゼロとは、
到底思えないでしょう。
大陸から渡ってきた人も多いのだから。
では、当然として馬を輸入しようとする方が、自然だと思います。
まして、漢に使者を出して色々もらっているぐらいなのだから。
この点、大きすぎるなぞですね。
元の発言 [ Re: 土器の不思議 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 12月5日(水)08時48分54秒 ]
>> では、其の粘土は、何処のものだったのでしょう。
>> 其れとも、すぐ手に入るような粘土で、其のまま簡単な、工夫で、あんな立派な土器を焼き上げる事が、出来たのでしょうか?
>>
>>
>>
どうもありがとうございます。
ですが、土器を作り使った人々は、粘土にも詳しかったのでしょうね。
元の発言 [ Re: Title家畜の輸送 ] お名前 [ 馬頭鬼 ] 日付 [ 12月5日(水)12時34分49秒 ]
>> でも、もし字の通りのなり行きで発明された物なら、
>> 鞍にあがるための、足掛けとして鞍に付けた所、乗馬するのに非常に具合良かった。
>> ゆえに広まった。問いう所でしょうか?
というのが現在の定説でしょう。
最初の鐙は左側の片方だけです。
当時の騎兵の重装化、運用方法の変化とうまくあって、急激に広まっていったようです。
ヨーロッパにはずいぶん遅れて広がりますが。
●倭国極南界也
(1)范曄「お間抜けさん」説
後漢書倭伝の紀年条は魏志倭人伝には見られない、後漢書倭伝独自の記事である。
この中元二年条にいう「倭国之極南界也」は<(倭の奴の国は)倭の国の極南界なり>と読まれる。
「也」を決定の意を表す「なり」として読むと、このフレーズは後漢書の撰者范曄か、范曄が引用した原資料の記録官の注釈とみなすほかはない。
しかし、記録官が魏志倭人伝を見ることは勿論出来ない。この情報が倭の奴国の“使駅の伝えるところ”に依っているのであれば、記録官が也(なり)とするわけにはいかない。
そこでこのフレーズは、范曄が魏志倭人伝にいう二つの奴国のうち、女王境界の尽きる所の奴国のことであるとし、原資料に注釈文として挿入したとする三宅米吉説が通説である。
三宅説は、金印が女王国以北の奴国と思しき九州北部から発見されていることから、范曄が女王国以北の奴国と其の余の旁国中の奴国と「取り違え」えてしまったのだという。
范曄は金印を賜った「倭の奴の国」を、官名も記され二万余戸もの大国の奴国ではなく、国名だけで出ている奴国にあてるような余程の「お間抜けさん」ということだろう。
(2)目糞鼻糞を笑う
「お間抜けさん」説はいかにもということで、金印の出土した九州北部を倭国の「極南界」にしてしまおうとする説も出てくる。
曰く、一世紀の倭国は韓半島南辺部から九州北辺部までを領域とする海峡国家であった、と。
古田氏は三宅説を「無理なこじつけ」と批判し、『“では”と読者は問うであろう。“三宅の提議した「極南界」問題について、他にどんな理解ができるのか”と。これについて解明しよう。』とのたまいて曰く、
『狗邪韓国は倭国の西北界(三国志では倭の北岸)である。だから倭地とは、その中心領域を朝鮮・対馬・壱岐の三海峡とする海峡国家だ。“倭国の中心国(三世紀の女王国)は、倭国の西北の入口から五千里(漢里では六倍の実体、2255キロメートルを指す)の「極南の地帯」に存在している”。これが後漢書倭伝の「倭国の極南界なり」という表現の背景をなす范曄の地理観だったのだ。』
しかし、2255キロメートルもの海の彼方の「極南の地帯」は、「極南界」ではなく「極南海」というに相応しい。(こんな語彙があるのかは知らないが、、、)
こんなに距離の離れた海を挟んである国をも「海峡国家」とみなすようでは、范曄もとんだ「お間抜けさん」である。
しかも、中心国=倭奴国=女王国が倭国の「極南界」というのでは、范曄は中心国「以南」の其の余の旁国の存在を見落とした、三宅「お間抜けさん」説以上の輪をかけた「お間抜けさん」である。
(3)極南界?
古田氏は後漢書の拘邪韓国を「倭の北岸=半島南岸」であると自明のこととしているが、范曄は拘邪韓国が韓半島に存在したとは書いていない。(ちなみに、陳寿も「倭の北岸」とは書いていない。)
後漢書の地理観は魏志とは逆視点で、「楽浪郡徼、去其国万二千里、去其西北界拘邪韓国七千余里。」となっている。
先ず、倭国は楽浪郡徼から一万二千里の大海中の島国とした上で、次に、楽浪郡徼はその島国倭国の西北界の拘邪韓国から七千余里にあると描き出している。
范曄は韓伝に「其南界近倭」としており、韓の「南界」とは半島南岸であり、近いという倭は島国倭国の西北界の拘邪韓国を指している。
魏志の狗邪韓国を大海中に持っていったのは范曄の苦肉の策であろうが、范曄はここで「極南界」という語彙を用いていない。
誰もが「極南界」と読んで疑わないが、中国語に「極南界」という語彙はあり得るのだろうか。
中国語では「極南」といえばそれでけで“南方の果て”ということになり、范曄がいうように「南界」ということになる。
(4)「極於此矣」の極とは?
そもそも、後漢書東夷伝の紀年条中、范曄の注釈文とみなせるものはない。(koujiさんの部屋の資料集「後漢書帝紀・東夷傳対応表」参照)
紀年条中には注釈を施すことをしない范曄も、倭伝末尾の「至裸国、黒歯国」の後に「使駅所伝、極於此矣」と注釈をしている。
通説は、これを<使駅の伝えるところ、ここに極まるなり>と読み、范曄は倭伝の「終わり」が此(裸国・黒歯国)としているのだとする。
しかし、後漢書は使駅の伝えるところによっているのではなく、魏志倭人伝や皇帝の起居注などの記録によっていることは明らかである。
また、後漢書倭伝を裸国・黒歯国で「終わり」にしたのは范曄自身であり、范曄が<ここ(裸国・黒歯国)に極まるなり>と断定・決定の意を示す必要はない。
それに、范曄に指摘されずとも読む人の誰もが、ここが倭伝の終わりであることは分かり切っている。(だから通説のような解釈が出きるのだ。)
「矣」は断定・決定などの意をあらわす<なり>の他に、「乎」と同じく疑問・反語の意をあらわす<か>の意味もある。
「極於此矣」の矣は後者であり、<極とは、ここなるか(そう、ここである)>と読む。
「極」とは、「倭国之極南界也」の「極」のことである。
(5)印綬下賜の理由
「倭国之極南界也」に続く、二年条の主文ともいえる「光武賜以印綬」の<以って>は印綬下賜の理由である(経傳釈詞:「以、猶由也」)。
「倭国之極南界也」を范曄の決定句とすると、二年条中に印綬下賜の理由が書かれていないことになる。
「也」は決定をあらわす<なり>の意だけでなく、下を起こす辞の<や>の意もある。
<倭国の南界を極めるや>と読んで、下の<光武、以て印綬を賜う>を起こして読むと、印綬下賜の理由が明確になる。
文意は、光武帝は倭奴国の使人からの情報で、倭国の南界を極めることができたので、その功績を以て印綬を下賜したということである。
列子周穆王第三に「西極の南隅に国有り。境界の接する所を知らず、古莽の国と名づく」とある。
魏志?婁伝に「?婁在夫余東北千余里、浜大海、南与北沃沮接、未知其北所極」とある。
中国にとって夷蛮の国の「極」は関心事であったのであろう。
(6)結論
范曄も<倭国の南界を極めるや>と読んではいるが、極めた南界とは何かを原資料からは理解することが出来なかった。
しかし、魏志には「東南船行一年可至」という、極めて遠い所に裸国・黒歯国がある。
そこで范曄はこの裸国・黒歯国が極めた南界だろうと判断し、<使駅の伝えるところの極は、ここなるか(そう、ここである)>としたのである。
范曄が「倭国極南界也」の極に注釈しているということは、このフレーズが范曄による挿入句ではあり得ないということである。
#「倭の奴の国」は、倭国の「極南界」ではないが、しかしいくらなんでも、范曄が裸国・黒歯国を倭国の「南界」というのは当たらない。
元の発言 [ Re: Title家畜の輸送 ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 12月3日(月)16時04分25秒 ]
何度か議論したように,けっこう進んでいたようです。
舟,船メモ
http://www.d3.dion.ne.jp/~stan/c_fune.htm
これまでの船に関する議論の結論としては,
(1)馬を運べるほどの船もあった。
(2)対馬−狗邪韓国間は一日以内で航行可能。
(3)大型船の場合,特定の部族に依存していたらしい。
(チャーター)
(4)海運的活動は,その特定の部族の盛衰次第であったらしい。
と,まぁ,こんな辺りです。
また,鐙が南方系だという説が本当だとしたら,
呉にも注目すべきかもしれず,
中国南方というと大型船のメッカです。
当時の倭国が,魏というより,呉の文化圏,
または政治圏に属していたかもしれない,
という一説が気になってきます。
ただし,騎馬軍団は魏のが知られている。(南船北馬)
鐙の出た中国遼寧省・朝陽袁台子墓も北ですよね。
いわゆる来倭していた人達の私用説とか,
「騎馬文化を日本に持ち込んだのは中国人」
とする岡田英弘説を裏書きするような発見か。
鐙というと,古事記に,大国主命が使った,とあります。
箸墓というと,崇神天皇の息子の豊城命は,
東国統治を命じられているから,
のちのち馬とは縁が深そうだ,とか。
元の発言 [ Re: Titleわが国最古、奈良・箸墓古墳周濠跡から木製馬具出土 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 12月4日(火)23時07分24秒 ]
>>
>>
>>
>>
布留式に限らず、土器の編年とはそういうものでしょう。
で、以下のレスは総論としての反論はありません。
>>
>>
>>
>>
私が聴いた最も目の細かな編年は北部九州の甕棺編年(橋口達也・福岡県教委)ので、概ね30年単位です。
ちなみに、最も短期のは、kVe式〜kVf式でAD240〜250年に編年されています。kVf式は古墳に併葬(陪葬?)されているタイプです。
北部九州では古くから副葬品(特に漢鏡)が豊富だから出来るわけで、土器の組成だけでは編年に無理があります。
そこで、この「編年」はちょっと「ヘンネン」ってことになったり。m(__)m
ここで論題になっている「木製輪鐙」は新聞(西日本)では、
「四世紀始めの大量の土器とともに出土」となっています。
この“四世紀始めの大量の土器”が間違いだと言うには調査報告書を見て、
専門家の意見に異議を唱えられるだけの知識が必要でしょう。
また、「同時期に投棄されたとみられ、後世に混入した可能性は低い」と言う見解に対しても同様でしょう。
周濠に掘りなしがあったかどうか、掘りなおされた後に投棄されたかどうかも同様ですネ。
通常、前方部のくびれ部や周濠に廃棄されいる大量の土器は葬送祭祀の儀礼的なものと解釈されていますけどネ。
これも覆す必要ありか。
元の発言 [ Re: 土器の不思議 ] お名前 [ 馬頭鬼 ] 日付 [ 12月5日(水)12時39分02秒 ]
>> >> >> では、其の粘土は、何処のものだったのでしょう。
>> >> >> 其れとも、すぐ手に入るような粘土で、其のまま簡単な、工夫で、あんな立派な土器を焼き上げる事が、出来たのでしょうか?
福岡平野の所謂「須玖式土器」と筑紫野以南の同時期の土器では粘土の質が違います。
福岡平野のものはキメが細かく、筑紫野のものは大きい石英粒子が沢山入っています。
元の発言 [ Re: Titleわが国最古、奈良・箸墓古墳周濠跡から木製馬具出土 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 12月3日(月)14時27分12秒 ]
>> オヤジッチさんもまえに言っていました「狗奴国と戦いで苦戦をしながら邪馬台国にこんな巨大な墓を作る事が出来たか疑問である。」と。
>>
>>
>>
魏志倭人伝には、卑弥呼共立は「倭國亂、相攻伐歴年」を収めるため、
狗奴国とは「烏越等詣郡説相攻撃状」と書いてありますけど。
どこを読んだんですか。一言も漏らさず読んだんですか。
元の発言 [ Re: 土器の不思議 ] お名前 [ オヤジッチ ] 日付 [ 12月5日(水)22時19分57秒 ]
>> >> >> >> では、其の粘土は、何処のものだったのでしょう。
>> >> >> >> 其れとも、すぐ手に入るような粘土で、其のまま簡単な、工夫で、あんな立派な土器を焼き上げる事が、出来たのでしょうか?
>> 福岡平野の所謂「須玖式土器」と筑紫野以南の同時期の土器では粘土の質が違います。
>> 福岡平野のものはキメが細かく、筑紫野のものは大きい石英粒子が沢山入っています。
どうもありがとうございます。
では、当時は職人達の使いやすい土を何処からか、
まとめて採取していた可能性も有ると想像しても良いでしょう。
すると交易も、思っているより結構発達していたと考えるべきか?
元の発言 [ 岡田説を裏書きか(Re: Title家畜の輸送) ] お名前 [ ちょっと一服 ] 日付 [ 12月5日(水)19時49分28秒 ]
>> 何度か議論したように,けっこう進んでいたようです。
>> (1)馬を運べるほどの船もあった。
>> (2)対馬−狗邪韓国間は一日以内で航行可能。
>> (3)大型船の場合,特定の部族に依存していたらしい。
>> (チャーター)
>> (4)海運的活動は,その特定の部族の盛衰次第であったらしい。
>>
>> と,まぁ,こんな辺りです。
>>
>> また,鐙が南方系だという説が本当だとしたら,
>> 呉にも注目すべきかもしれず,
>> 中国南方というと大型船のメッカです。
>> 当時の倭国が,魏というより,呉の文化圏,
>> または政治圏に属していたかもしれない,
>> という一説が気になってきます。
>> ただし,騎馬軍団は魏のが知られている。(南船北馬)
>> 鐙の出た中国遼寧省・朝陽袁台子墓も北ですよね。
>>
>> いわゆる来倭していた人達の私用説とか,
>> 「騎馬文化を日本に持ち込んだのは中国人」
>> とする岡田英弘説を裏書きするような発見か。
>>
>> 鐙というと,古事記に,大国主命が使った,とあります。
>> 箸墓というと,崇神天皇の息子の豊城命は,
>> 東国統治を命じられているから,
>> のちのち馬とは縁が深そうだ,とか。
山のたみであり、生みの民でも有る縄文kらの人以外の買い様の民だって居たかも?
と言う想像も出来るわけですね。
双胴船、カタマラン型や腕木を持つカヌー型の船も合ったと考えられるわけですね。
トなると、益々牛馬なしが怪しくなる。
何か意味があるのか?政治的とか、偏見とか。
其れとも極端に、邪馬台国は、アメリカ大陸だったとか?
冗談も出ちゃいました。
が、其れでも、アメリカには野牛は居るわけだから冗談にもならないか。
元の発言 [ Re: Title家畜の輸送 ] お名前 [ ピクポポデミ ] 日付 [ 12月5日(水)13時20分33秒 ]
>> >> でも、もし字の通りのなり行きで発明された物なら、
>> >> 鞍にあがるための、足掛けとして鞍に付けた所、乗馬するのに非常に具合良かった。
>> >> ゆえに広まった。問いう所でしょうか?
>> というのが現在の定説でしょう。
>> 最初の鐙は左側の片方だけです。
なるほど、ありがとうございます。
左から乗るのは、思い剣を左側にさしているから先に重い方を載せると言う事だと聞いた事が、あります。
あれ?
日本流の乗馬が左から乗るのは、わかりますが。西洋では右から乗るのじゃなかったですかね?
>> 当時の騎兵の重装化、運用方法の変化とうまくあって、急激に広まっていったようです。
>> ヨーロッパにはずいぶん遅れて広がりますが。
まあ、馬に乗るには、ハミと鐙だけで良い。
鞍なんかいらないなんて事聞いた事がありますが、
鞍の方が、はるかに早く出来てたんですね。
元の発言 [ Re: 岡田説を裏書きか(Re: Title家畜の輸送) ] お名前 [ 馬頭鬼 ] 日付 [ 12月5日(水)22時52分46秒 ]
>> トなると、益々牛馬なしが怪しくなる。
少なくとも248年までは,
ざっと見渡すと牛馬の姿はなく,
また,
陸運や軍事面での意図的な使用が,
見られなかったのでしょう。
神功皇后が新羅を馬飼部にしたのが摂政前紀,
百済から七枝刀が贈られたのが摂政52年,
摂政52年は西暦369年ですから,
難しいことを抜きにして見ると,
不思議なことに,
輪鐙の年代前後と推定される4世紀初頭に,
馬を介した関係が生じていたことになります。
この時には,新羅が,
馬を洗う刷毛と鞭を献上することになったという。
ですから,3世紀後半から4世紀初頭にかけて,
馬が流通し始めていた,
という辺りで一人納得。(^◇^)
元の発言 [ Re: Title家畜の輸送 ] お名前 [ 馬頭鬼 ] 日付 [ 12月5日(水)23時41分42秒 ]
>> まあ、馬に乗るには、ハミと鐙だけで良い。
>> 鞍なんかいらないなんて事聞いた事がありますが、
>> 鞍の方が、はるかに早く出来てたんですね。
鞍なしで鐙は付けられないでしょ。
元の発言 [ Re: Titleわが国最古、奈良・箸墓古墳周濠跡から木製馬具出土 ] お名前 [ オヤジッチ ] 日付 [ 12月5日(水)22時09分14秒 ]
>> ここで論題になっている「木製輪鐙」は新聞(西日本)では、
>> 「四世紀始めの大量の土器とともに出土」となっています。
>> この“四世紀始めの大量の土器”が間違いだと言うには調査報告書を見て、
>> 専門家の意見に異議を唱えられるだけの知識が必要でしょう。
布留1= 300年以降の寺澤年代ですか。
すると302年の西晋の鐙と比べて最古ではなくなる。
よくわかりませんが寺澤編年で一貫しているように見えます。
今回の件で箸墓=布留1あるいは300年以降になったという話しもどこからも聞こえて来ませんね。
これも専門家の見解でしょうか。
元の発言 [ 神功摂政前紀(Re: 岡田説を裏書きか) ] お名前 [ ちょっと一服 ] 日付 [ 12月6日(木)00時41分19秒 ]
>> >> トなると、益々牛馬なしが怪しくなる。
>> 少なくとも248年までは,
>> ざっと見渡すと牛馬の姿はなく,
>> また,
>> 陸運や軍事面での意図的な使用が,
>> 見られなかったのでしょう。
なんかおかしな記述がある様ですね。倭人伝
サンショなんかも食べないなんて書いてある点。
縄文時代、倭人は、どうやら犬を食べなかったようだが、
弥生時代になると、食べているようだし、
少なくとも、渡来人は食べているようだし
同じように、縄文時代からあるサンショを食べてないとは?
また、食べる人は、当然渡来してるだろうし。
犬を食べるより、抵抗はないと思うし、薬としても飲んだりして使っていたろうから。
ちと考えられないような、これ以前に話題に成りましたよね。
>> 神功皇后が新羅を馬飼部にしたのが摂政前紀,
>> 百済から七枝刀が贈られたのが摂政52年,
>> 摂政52年は西暦369年ですから,
>> 難しいことを抜きにして見ると,
>> 不思議なことに,
>> 輪鐙の年代前後と推定される4世紀初頭に,
>> 馬を介した関係が生じていたことになります。
>> この時には,新羅が,
>> 馬を洗う刷毛と鞭を献上することになったという。
>> ですから,3世紀後半から4世紀初頭にかけて,
>> 馬が流通し始めていた,
>> という辺りで一人納得。(^◇^)
とは言いますが、乳製品を食べるような人々が、
渡来してると、思われるのに、牛を手に入れようとしないと言うのも変だし?
代わりに成るようなのが、いたとも思えないし。
肉は、不満は出ないでしょうが、乳製品は如何でしょうね?
食事の文化面から攻めてみるのも、面白いかも。
元の発言 [ Re: Title家畜の輸送 ] お名前 [ ピクポポデミ ] 日付 [ 12月6日(木)04時04分06秒 ]
>>
>> >> まあ、馬に乗るには、ハミと鐙だけで良い。
>> >> 鞍なんかいらないなんて事聞いた事がありますが、
>> >> 鞍の方が、はるかに早く出来てたんですね。
>> 鞍なしで鐙は付けられないでしょ。
腹帯等に付けるらしいですよ。
これで少し謎がとけた。
近海って見る銅鐸のたくさん見つかった場所ですよね。
しかも後期の鉄器流入の有る場所。
奈良盆地は弥生後期の近畿の中心というには、あまりにも鉄器が少なく、また見る銅鐸も少なかった。
瀬戸内勢力が東方への交易路を開こうとしたとき、近海へではなくて奈良盆地へ向かったのも理由があるか。
あとは漢境5期鏡の分布の謎・・・
すこしストーリーが見えてきたか。
元の発言 [ Re: Title家畜の輸送 ] お名前 [ 馬頭鬼 ] 日付 [ 12月6日(木)17時41分33秒 ]
>> >> 鞍なしで鐙は付けられないでしょ。
>> 腹帯等に付けるらしいですよ。
腹帯にぶら下がった鐙ってあるんですか。
下記サイトに鐙の説明関する考察があります。
元の発言 [ Re: Titleわが国最古、奈良・箸墓古墳周濠跡から木製馬具出土 ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 12月2日(日)23時51分46秒 ]
>> 古い物は伝世して新しい墓に埋まる可能性がありますが新しい物が古い墓に入る事は捏造でもしない限り無い訳ですから。
周濠ってなんだか知ってる?
元の発言 [ Re: Title家畜の輸送 ] お名前 [ ピクポポデミ ] 日付 [ 12月6日(木)18時24分40秒 ]
>> >> >> 鞍なしで鐙は付けられないでしょ。
>> >> 腹帯等に付けるらしいですよ。
>> 腹帯にぶら下がった鐙ってあるんですか。
>> 下記サイトに鐙の説明関する考察があります。
鐙は、振り分け荷物のようになっていて、腹帯で確り固定するが、適切な表現でした。
すいません。
元の発言 [ Re: Titleわが国最古、奈良・箸墓古墳周濠跡から木製馬具出土 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 12月6日(木)19時59分27秒 ]
>> 今回の件で箸墓=布留1あるいは300年以降になったという話しもどこからも聞こえて来ませんね。
>> これも専門家の見解でしょうか。
>>
>>
まあそういうことです。(上のレスに書いたとおり)
近代の家屋の濡れ縁に船形木棺の木材が使われてた例もあるし。
元の発言 [ Re: Titleわが国最古、奈良・箸墓古墳周濠跡から木製馬具出土 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 12月6日(木)15時54分14秒 ]
>> 魏志倭人伝には、卑弥呼共立は「倭國亂、相攻伐歴年」を収めるため、
>> 狗奴国とは「烏越等詣郡説相攻撃状」と書いてありますけど。
>> どこを読んだんですか。一言も漏らさず読んだんですか。
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
そうでしょうネ。
南は東、里程は途中から換算系数が一桁違うって言うんだから。
>>
>>
なるほど、正に「大作冢」の時ですネ。
>>
>>
>>
>>
>>
>>
いいえ!
>>
>>
おにりんさんはどっかで1996年以前の説は否定していたですネ。(^。^)
元の発言 [ Re: Titleわが国最古、奈良・箸墓古墳周濠跡から木製馬具出土 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 12月6日(木)15時54分14秒 ]
#何時ものことだけど、
> 狗奴国との戦争なんて、してないってば。
> 魏志倭人伝のどこを読んでも、そんなことは一言も書いてない。
#との自分のレスを棚に上げてのレスに答える必要はないと思ったけど、
#レスしてしまった。
元の発言 [ Re: Titleわが国最古、奈良・箸墓古墳周濠跡から木製馬具出土 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 12月2日(日)12時27分36秒 ]
>>
>>
>>
>>
邪馬台国には馬がいなかったと倭人伝に書いてありますね。
前のスレにも書きましたが、今回は周濠の底のほうから出たと言う訳で勝山の木片とは違って築造から年代を経ずに投棄された、
または流入したと考えていいと思います。
鐙は西晋の発明ですから265年以降になる訳で、現実には馬を持たない日本に発明後直ちに入ってくる事は無いと考えられ、
300年以降のものと考えるのが妥当かと。
倭人伝は晋の時代に書かれている訳で倭人伝が書かれた280〜285年にもまだ馬はいなかったのではないでしょうか。
鐙だけが日本にやってくる事もないでしょう。
箸墓をどうしても卑弥呼の墓にしたい人はそう言うかも知れませんが。
写真で見る限り実用品で飾りにはならないし、使い古しで壊れたので捨てられたように見えます。
5世紀といわれる馬の来朝は以外に早く4世紀はじめだったかもしれませんね。
元の発言 [ Re: Titleわが国最古、奈良・箸墓古墳周濠跡から木製馬具出土 ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 12月2日(日)23時51分46秒 ]
>> 周濠のことなのではっきりしませんが、普通古い物と新しい物が同じところから出れば新しい時代が正しい年代ですよね。
箸墓古墳の築造時期が布留0式期だという根拠は、周溝出土の土器じゃないよ。
前方部北側の土取り痕と思われる落ち込みや、周溝外堤の盛土内から布留0式に限定される土器が出土している。
これらは箸墓古墳の築造過程で混入したもの。
したがって、
>> ですから箸墓は布留1の時代に築造されたと考えるのが正しいと思います。
は正しくないと思います。
元の発言 [ Re: Title:弥生後期の「伊勢遺跡」から大型高床式建物が出土 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 12月6日(木)21時24分14秒 ]
>> 近海って見る銅鐸のたくさん見つかった場所ですよね。
>> しかも後期の鉄器流入の有る場所。
>>
あといつもの癖で伊勢という遺跡名も気になってしょうがない。
どうでもいいのかな。
この遺跡伊勢神宮のように何年か置きに立て替えたあとがあったんじゃなかったっけ。
どうでもいいか。
伊勢という地名は見つからなかった。
伊勢落というのが有ったが。
伊勢なんぞ何処にでもあるといえばある。
元の発言 [ Re: 神功摂政前紀(Re: 岡田説を裏書きか) ] お名前 [ 馬頭鬼 ] 日付 [ 12月6日(木)17時38分51秒 ]
「倭の地は温暖,冬夏<生菜>を食す」については,
「生の野菜」という説と,
「生の惣菜」という説とあります。
後者の場合,
「魚を生で喰っていた」という説もあるが,
まったく火を通さない,
ということは考えずらいので,
塩漬けや乾物を利用しなかった,
ということではなかろうか。
後世,天皇や貴族が牛乳を飲む風があった,
とされますが,
ただ,
牛乳といっても,本場の畜牛民族は,
牛乳を生で飲むことはしない,
という説があります。
元の発言 [ 冬夏生菜を食す(Re: 神功摂政前紀) ] お名前 [ ちょっと一服 ] 日付 [ 12月6日(木)22時32分59秒 ]
>> 「倭の地は温暖,冬夏<生菜>を食す」については,
>> 「生の野菜」という説と,
>> 「生の惣菜」という説とあります。
なるほど、やはり色々考えられるわけですね。
>>
>> 後者の場合,
>> 「魚を生で喰っていた」という説もあるが,
>> まったく火を通さない,
>> ということは考えずらいので,
>> 塩漬けや乾物を利用しなかった,
>> ということではなかろうか。
これは違うのでは?
魚の生食には、太平洋の周辺には、
其の習慣を持つ民族や部族は、結構存在する事を考えれば、有っておかしくない。
>>
>> 後世,天皇や貴族が牛乳を飲む風があった,
>> とされますが,
>> ただ,
>> 牛乳といっても,本場の畜牛民族は,
>> 牛乳を生で飲むことはしない,
>> という説があります。
生の牛乳で無くとも、乾酪や蘇(この字で良かったかな?)の文化だって入っていたはずでしょ。
生を食べるには、生肉特に馬の肉なんかのほかに鹿が有るし、
中国では、いのししだって酢で絞めてた食べてたんでしょう。
日本書紀なんかには、膾にして食べていたと有ったように思うけど。
元の発言 [ Re: Title:弥生後期の「伊勢遺跡」から大型高床式建物が出土 ] お名前 [ ピクポポデミ ] 日付 [ 12月6日(木)22時17分42秒 ]
>> あといつもの癖で伊勢という遺跡名も気になってしょうがない。
>> どうでもいいのかな。
>> この遺跡伊勢神宮のように何年か置きに立て替えたあとがあったんじゃなかったっけ。
>> どうでもいいか。
>> 伊勢という地名は見つからなかった。
>> 伊勢落というのが有ったが。
>> 伊勢なんぞ何処にでもあるといえばある。
でも、伊勢の枕詞と言うのか、神風の伊勢ってのを聞いた事有るけど。
私も、これがなんか気になります。
元の発言 [ Re: 冬夏生菜を食す(Re: 神功摂政前紀) ] お名前 [ 馬頭鬼 ] 日付 [ 12月6日(木)23時12分23秒 ]
>> これは違うのでは?
サシミはサシミで喰ったでしょうけど,
サシミ専門であったかどうかは疑わしい,
という意味です。
>> 魚の生食には、太平洋の周辺には、
>> 其の習慣を持つ民族や部族は、結構存在する事を考えれば、有っておかしくない。
蒸して喰ったりもするそうです。
>> 生の牛乳で無くとも、乾酪や蘇(この字で良かったかな?)の文化だって入っていたはずでしょ。
その辺りは,仏教の影響かもしれないです。
三角縁神獣鏡の分布から見て,
古墳期に強大化した倭の権力は,
魏〜西晋系統の利権と組んだままだったのでは?
元の発言 [ 神功摂政前紀(Re: 岡田説を裏書きか) ] お名前 [ ちょっと一服 ] 日付 [ 12月6日(木)00時41分19秒 ]
>> 神功皇后が新羅を馬飼部にしたのが摂政前紀,
>> 百済から七枝刀が贈られたのが摂政52年,
>> 摂政52年は西暦369年ですから,
訂正です。
七枝刀の作られたのが泰和4年(369年),
贈られたのが摂政52年(372年)。